中澤弘光、知られざる画家の軌跡、三重県立美術館

中澤弘光(1874-1964)は、中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年8月4日 – 1964年9月8日)は、洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家。日本芸術院元会員。明治から昭和期にかけて日本の洋画壇で活躍をした画家です。

1874年東京・芝の旧日向佐土原藩士の家に生まれた中澤は、幼い頃に両親をなくし、厳格な祖母のもとで育てられました。絵を得意として曾山幸彦、堀江正章の画塾で学んだ後、1896(明治29)年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝に師事します。在学中は黒田のもとで新たな外光表現を学びながら、白馬会を中心に活動しました。やがて1907(明治40)年に文部省美術展覧会(文展)が開設されると、第1回展から出品と受賞を重ね、洋画家として確固たる地位を確立していきます。1911(明治44)年に三宅克己、杉浦非水らと光風会を結成した後、日本水彩画会、白日会を創立して精力的に作品を発表し続け、1957年には長年の功績が称えられ文化功労者に選ばれました。

中澤は洋画家であると同時に、優れたデザイナーでもありました。卓越したデザインセンスでヨーロッパのアール・ヌーヴォーをいち早く取り入れ、与謝野寛(鉄幹)・晶子の著書をはじめ、様々な本の装幀・挿絵や雑誌の表紙絵などを手がけています。また旅を愛した中澤は、日本の古き良き風景を画集や紀行におさめました。油彩画だけではなく、旅のスケッチや水彩画が数多くのこされています。

1964年中澤が没した後、そのアトリエは画家が制作していた頃のまま現在まで大切に維持されてきました。今回アトリエの調査により、未発表の作品や書簡、中澤がコレクションした古美術品など、貴重な資料が多く発見されました。本展覧会は、調査をもとに中澤弘光の知られざる一面を明らかにするとともに、代表作を含む油彩画、水彩画、スケッチ、装幀本を通して、画業の全貌をたどる初の大回顧展です。

第1章 洋画家としての歩み
「想うに一升の桝には一升しかはいらないものだ、私は私自身のことをよく知っている。今日、斯うしているのも三人の先生が順序よく、即ち大野先生が骨、堀江先生が肉そして黒田先生が仕上げをして下すったおかげで、凡才もどうにかこうにか此処まで来ているのだと思っている。それに先輩諸君が居られたことも、非常に私のはげみになったと思っている。」

明治・大正・昭和三代を通じて日本の洋画界に寄与した中澤弘光。早くに両親を亡くしたものの、洋画家としての歩みは始終恵まれていたと言ってよいだろう。10代の前半から、鹿児島の知人を頼りに曾山(大野)幸彦や堀江正章という工部美術学校出身者の画塾で西洋絵画の基礎を学び、そこで岡田三郎助(1869-1939)や和田英作(1874-1959)らとも出会った。1896(明治29)年、東京美術学校へ第4期生として入学した年は、ちょうど白馬会の創立と重なり、黒田清輝指導のもと、発表の場も明治美術会から白馬会へと移っていった。その後、装幀や挿絵、旅行記などの仕事で別の才能を開花させつつ、1907(明治40)年から始まった文部省美術展覧会その他で受賞を重ね、審査員を務める立場となった。確かな表現力を土台に、黒田の外光派表現を継承した中澤であったが、持ち前の抒情的・耽美的表現があるかと思えば、一方で大正期には鮮烈な色彩を用いた表現主義的な傾向を見せるなど、その多様な試みは見過ごすことができない。明治の末から光風会、日本水彩画会、そして48歳の渡欧後には白日会を有志とともに創立した中澤は、生涯にわたって精力的に作品を発表し続けたのであった。

第2章 デザイナー・中澤弘光の仕事
印刷技術がめざましい発展を遂げた明治期、新たなメディアとして新聞・雑誌が生まれ、本の装幀は西洋からもたらされた洋紙・洋装本へと大きく変化した。活字に添えられる挿絵は、技術の発達とともに不可欠なものとなり、明治30年代からは主に洋画家たちが担当するようになる。同じころ、ヨーロッパではアール・ヌーヴォーが全盛期を迎え、洋行した画家・作家は、カタログや雑誌、ポスターなど様々な資料を日本へ持ち帰った。とりわけ、ロンドンに留学した夏目漱石、1900(明治33)年パリ万博博覧会へ赴いた黒田清輝らがもたらしたアール・ヌーヴォー関係の資料は、日本の画家に大きな影響を与えたといわれる。中澤弘光ら洋画家たちは、この新たな芸術の潮流をいち早く掴み、本の装幀や雑誌の挿絵などで優れたグラフィック・デザインを生み出すことになる。

中澤は、与謝野鉄幹主催の雑誌『明星』に早くもアール・ヌーヴォーを意識した口絵を寄せた。そして鉄幹の妻・与謝野暁子作品の装幀を数多く手掛けていくなかで、デザインの才を開花させていく。晶子の大作『新訳源氏物語』においては、洋画家でありながら源氏絵に挑み、アール・ヌーヴォーとは異なる中澤独自のデザインを完成させる。中澤は与謝野作品の他多くの装幀を担当し、雑誌では『中学世界』、『新小説』といった文芸誌を中心に多様な表紙絵や口絵を描いた。昭和期に至るまで続いたデザインの仕事は夥しい数にのぼり、本と雑誌に加え、新聞の挿絵、絵はがき、ポスターなど多岐にわたっている。いま改めてその全貌をたどることで、「デザイナー」中澤弘光の優れた技量と功績が明らかとなるのである。

第3章 回想の旅
中澤弘光は90年という長い人生の大半を、旅に費やした画家であった。

中澤が初めて京都、奈良の風景画を発表したのは、東海道本線が開通して間もない1895(明治28)年のことである。国内に鉄道網が整備されるのとほぼ同じ頃に、彼の旅が始まったといえるだろう。そしてそれは、中澤の画業生活そのものとなったのである。

訪れた地は関西を筆頭に、本州最北端の青森から、四国、九州の各所に及ぶ。

東京生まれの中澤にとり、江戸や明治の風情を残す地方の名所仏閣は、創作意欲を掻き立てる格好の画題であった。著名な観光地だけでなく、人里離れた山間部や海岸沿いへも足を運び、旅の途中で見かけた何気ない景色や、四季折々に変わる日本の美を数多く絵にした。描かれた作品は、『日本名勝写生紀行』(B-92~94、98、99)『畿内見物』(B-95~97)などの旅行記や、『日本大観』(作品B-101)『西国三十三所巡礼画巻』(B-104)といった木版画集などで発表されて人気を博し、風景画家中澤弘光の名を広く世に知らしめた。

そして、旅によって得た、中澤のもうひとつの主要なモティーフが舞妓である。

1903(明治36)年に岡田三郎助とともに京都で描いたのが始まりとされ、その後足繁く京都へ通い、のちに日本画家の土田麦僊と並び「舞妓の画家」と称されるほど、多くの舞妓や芸妓の作品を制作した。また、旅を続ける中澤にとり、何よりもの癒しとなり、魅力的な画題であったのが、日本各地の温泉場である。ひなびた温泉地の景色や、湯に浸る女性の姿、湯治場の風俗などが多数絵にされている。

旅先での中澤は、制作の合間に道楽であった骨董屋巡りをして、国内のみならず、ヨーロッパや朝鮮、中国など、あちこちで見つけた骨董や土産物を蒐集した。それらはアトリエや自宅のあちこちに置かれ、戦時中など自由に旅することが出来なかった時期には、人物画の背景として描かれることもあった。これらもまた、旅の画家中澤の足跡を示す貴重な資料といえるだろう。

90歳を迎えた最後の年まで中澤の旅は続き、突然体調を崩し入院すると、老衰で眠るように息を引き取ったという。遺された作品は、画家の旅の軌跡とその生涯を物語っているのである。

三重県立美術館
三重県立美術館は三重県津市にある美術館である。1982年に中部・東海地区初の本格的な美術館として開館した。2003年には柳原義達記念館が開館した。日本の近代洋画のコレクションが充実している。

美術館のあり方の特徴は、それが単なる象牙の塔に留まらず、常に社会に積極的に働きかけようとすることにあります。

企画展開催に際しての広報活動、美術講演会、ギャラリートークや美術セミナー、遠隔地の人々を対象にした移動美術館、美術館ニュース『HILL WIND』の発行などを行っています。

美術館活動の成果が最も目につくかたちをとるのは、作品の展示においてです。とりわけ美術館の真価が問われるのは、その常設展示によってです。本館の常設展示は年間4期に分けて、日本近代絵画を中心に、現代に至る美術の流れを系統的に捉えることを目指しています。また企画展示室では独自のテーマによる自主企画展を催すとともに、より広い観点での共同企画展を行っています。