上京区,京都市,近畿地方,日本

上京区は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。

上京区は、京都市のほぼ中央部に位置し、東は鴨川(賀茂川)、西は紙屋川(天神川)によって左京区、北区、中京区に、北は鞍馬口通、南は丸太町通を隔てて北区、中京区に接している横長の長方形をなす面積7.03平方キロメートルの地域です。

区内には、伝統ある文化が現在も引き継がれており、千本釈迦堂、相国寺、北野天満宮などの歴史的遺産(平成19年4月現在 国宝12・重要文化財232・史跡名所6)や茶道界の家元三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)があります。 また、京都の産業を代表する「西陣織」は平安京の頃から宮中や公家、社寺、幕府等の庇護を受けて発展してきました。

歴史
上京区の歴史は古く、平安時代末期頃から京都の町を南北に分けた上辺(かみわたり)、下辺(しもわたり)の表現が用いられるようになり、それが中世になって、おおむね二条通を境として上町(かみのまち)、下町(しものまち)、あるいは上京、下京と呼ばれるようになったといわれています。

明治元年には、上京、下京を上大組、下大組と称し、翌2年には三条通を境として、上京33番組、下京32番組としました。

明治12年、「郡区町村編成法」によって京都を2区に分けて上京区、下京区が編成され、昭和4年には上京、下京の2区から左京、中京、東山が分区し、昭和30年には上京区から北区が分区し、現在の上京区(17学区)が構成されました。

学区概要
上京区には,明治の番組小学校の開設以来130年にわたる学区単位の住民自治の歴史があります。これら17の学区が,小学校の一部統合後もコミュニティの単位として受け継がれています。

上京区の町名は、由来が容易に想像の付くもの(神社仏閣、昔の役所や職業に因んだものなど)から名前を見てもよく分からないものまでバラエティに富んでいます。興味のある方は,ぜひ地元を訪問してみてください。

成逸学区
成逸学区は上京区の北端に位置し,北区と接しています。付近には史蹟が多く,学区内には文化財を有する名刹や由緒ある神社が散在し,歴史を彷佛とさせます。 この地域は,平安遷都以前は賀茂の神領でしたが,平安時代に紫野斎院(跡地が七野社)が移され,大宮通は雲林院を経て賀茂の社に通じる幹線道路として貴族の往来で賑わいました。

後期には,今宮御旅所や水火天満宮も見られ,大宮寺之内辺に比叡山の東塔竹林院の里坊として安居院が建立されて修行僧や僧兵で賑わい,安居院流の唱導が一世を風靡しました。 この頃に大宮の街路は形成されました。応仁の乱の戦場になって焦土となった地域は,秀吉の都市計画によって近辺に寺院が集められ,寺院群が出現しましたが,廃寺が多く今でも存続する寺は少なくなりました。

メイン通りの大宮を挟んで両側に縦町が延びて芦山寺や寺之内が千本まで通って市街化されました。大宮通は交通の要路として商人宿や荒物問屋,呉服店などが集まり,次第に商店街として発展していきました。 区内には江戸時代以降,西陣組の高機仲間の一員として名を知られた機業がありました。西陣織の工程は複雑ですが,地域は主として下請け関連の家内工業に従事する者が多く,準商工業地帯として今日に至っています。

地域には,町内の互助機能を示す取り決めや町内会の規約等の古文書等が多数残っています。今でも学区の結束は固く,自治会館を中心に活発に活動しています。

室町学区
私達の学区には,地下鉄烏丸線の鞍馬口駅と今出川駅があり,室町小学校(烏丸通寺之内)がほぼ中心で,東西及び南北約1キロの範囲にあります。 烏丸通の今出川を東に足を運べば,小倉百人一首の選者として知られる藤原定家を祖にもつ,現存する最古で唯一の公家建築である冷泉家住宅,足利3代将軍義満が幕府の安定後,参禅弁道の道場として自身を鍛えるために建てたとされる相国寺があります。その北には,平安遷都にあたり,長岡京で犠牲になった早良親王らの怨霊の鎮めが創祀と伝えられる上御霊神社が鎮座し,寺町通には秀吉により集められた各寺があり賀茂川に至ります。

西に向かえば,京都で最初の日蓮宗道場で三具足山の一つ十六本山を総括する妙顕寺や妙覚寺,本法寺など日蓮宗の中心地域に連なり,さらに,日本文化の心を伝承する茶道の中心である表千家と裏千家が続いています。 このように現在も活き活きと使われている史跡を朝夕の散歩,散策で楽しめる環境が,私達の室町学区にはあります。 かつて天明の大火(1788)でこの町も大きな被害を受けましたが,先人達の努力で復興し,維新以後も幾多の苦難を乗り越え,現在を迎えています。

乾隆学区
明治5年の上京区三番組小学校の名称である。 命名は,当時の三番組区長山田豊圓師(西芦山寺町 真言宗醍醐派文殊院のご住職)である。学務委員でもあった。校名の由来は,京都御所の乾(西北)の方向で隆昌になって欲しいという意味である。

西陣学区
西陣学区は入り組みの多い複雑な形をしていますが,概略の位置を示せば,堀川通以西・浄福寺通以東・五辻通以北・寺之内通以南です。応仁元年(1467)応仁の乱が勃発し,山名宗全の邸宅(現山名町)が一方の拠点となり,同年5月細川勝元方の軍勢と激烈な戦闘を行いました。この時山名邸の一帯が,東方の細川方に対する西の陣という意味で「西陣」と呼ばれ,室町時代の終わり頃「西陣」が地名として使われ定着しました。

歴史的には西陣の概念は,ほぼ南北は中立売通から鞍馬口通まで,東西は室町通から千本通まで,一辺が約1キロメートルのほぼ正方形の範囲としています。応仁の乱が終わった後一面の焼野原となっていた陣地跡が次第に旧に復し,「西陣・機(はた)織の町」として成長しいていったのです。

翔鸞学区
翔鸞学区は,北は芦山寺通,南は一条通,東は千本通,西は天神川にわたる区域で,この地域はかつて広漠たる原野で「七野」(北野・平野・柏野・紫野・蓮台野 など)の一つとして知られた野趣豊かな地でした。 天暦元年(947)菅原道真をまつる北野天満宮が創建されました。中世に建立された大報恩寺(千本釈迦堂)は隣接した位置にあります。 天正15年(1587)豊臣秀吉による北野大茶湯,あるいは出雲お国のかぶき踊をはじめとする諸芸上演の場として一つの華を咲かせました。

明治2年,この地域37カ町は上京第三番組に編成され,同12年第六組,明治25年に第五組に改められ,昭和4年以降,翔鸞学区に改められました。小学校は明治2年9月1日大文字町(元誓願寺通七本松東入)に建設され,明治40年に現在の西柳町に移転されました。翔鸞の由来は,平安京の応天門の回廊の一端にそびえていた「翔鸞楼」にちなんで名付けられたものです。

嘉楽学区
東は智恵光院通,西は千本通,南は一条通,北は五辻通を境界とする面積0.209平方キロメートルの地域です。 中世には,五辻通千本東入辺りに象林寺,景愛寺が建てられていました。この地域の開発はほぼこの時期に始まるといえます。また通っていたと想定される古道は,南北千本通,東西の五辻通と,須磨町通で,須磨町通が現在の今出川通です。千本通は千本閻魔堂への道であり,また須磨町通は,近世に「おまへ通」の異称をもつ,北野社への参道として発達し,しだいに周辺に町が形成されていきました。

もっともこの地域が町地として発達するのは天正年間(1573~92)以後の事と考えられ,西陣機業の西方への拡大と関連しています。東西の元誓願寺通,笹屋町通は天正年間の開通と伝えられ,般舟院は文禄3年(1594)に伏見から移転してきており,南北の通りである浄福寺通の名称起源となる浄福寺も,元和元年(1615)には現在地に移されていました。そして五辻通は絹織物業者や糸商売の家が軒を並べた大宮通辺りからの続きで須磨町通も絹織屋が多く,この地域一帯は西陣織機業の町としてにぎわいをみせるのです。

笹屋2丁目は,「今織り丁」の異称を持っていますが,笹屋町通も新職の町でした。明治2年の町組改正で,当地区は上京4番組に編成され,明治5年に第7地区,同12年に第7組,同25年に第6学区と名を変え,昭和4年に嘉楽中学の隣に,嘉楽門院の墓があることから嘉楽学区と命名されました。

桃薗学区
桃薗学区のほぼ中央に今出川大宮の交差点が位置し,東は堀川通,西は浄福寺通,南は一条通,北は五辻通に囲まれた「西陣」の中心区域。学区名は,平安中期,現在の大宮一条付近に営まれた源保光の邸宅「桃薗宮」に依ったものです。 堀川一条付近は,古来「村雲」という地名で呼ばれていました。平安時代の陰陽家,安倍晴明の邸跡と伝えられ,晴明神社は1000年余の歴史を誇ります。また室町時代には,この辺りに細川勝元の邸宅があったので,応仁の乱では西軍の猛攻にさらされました。

江戸時代に門跡寺院「瑞龍寺」が創建され,村雲御所と呼ばれました。この頃の西陣では大宮通がメインストリートで,五辻大宮を中心に「糸屋八町」と呼ばれた糸問屋の町並が南北に連なって活況を呈しました。 明治末には今出川通が拡幅整備され,大正元年には市電が開通。今出川大宮の停留所もでき,区域は一躍西陣の中心地となりました。区域に初めて小学校が開校したのは明治2年のこと。地元民の負担だけで建設されたという逸話は当時のこの地域の隆盛ぶりを伝えています。

昭和9年に完成した鉄筋コンクリートの桃薗小学校も,学区民の寄付により外壁は瀟洒なタイル張となり,平成7年の廃校まで,学区のシンボルとして長く親しまれました。

小川学区
小川学区(元小川小学校通学区)は,北は上立売通のやや北,南は一条通,東は新町通(今出川以北)・烏丸通(今出川以南),西は堀川通に囲まれた地域です。元誓願寺通や革堂町が示すように,平安時代には誓願寺や行願寺(革堂)などがこの地にあり,鎌倉期には本満寺・水落寺・実相院・戒光寺・百万遍知恩寺など多くの寺院が建てられ,門前町的に発展していったといわれます。

室町時代の応仁の乱では,この地域も戦火に見舞われ,寺院街としての景観は失われます。織物を織る家が出始め,庶民の街・西陣織の街となったのは,応仁の乱以後のこと。 その名の通り,かつては学区のほぼ中央を南北に小川が流れていました。江戸時代には「こかわ」と呼ばれたこの清流も,昭和40年には埋め立てられ姿を消しました。また学区のシンボルであった小川小学校も,統廃合により平成7年に126年の長い歴史を閉じました。

昔ながらの町家の数も減り,学区の様子も今ではずいぶん変わりました。人口の減少や高齢化も進んでいますが,長い歴史と伝統,地域住民のふれあいを大切にしながら,新しい街づくりが始まっています。

京極学区
北はほぼ上御霊前通,南は広小路通,東は鴨川を限り,西は相国寺東通を境界とする南北に細長い地域です。 平安京造営時は,学区の南部がわずかに平安京の東端にかかるのみでしたが,9世紀から10世紀にかけて,藤原良房の染殿,清和上皇の御在所ともなった清和院,また貴族政治の栄華を極めた藤原道長の上東門第など,政治的にも重要な意味をもつ貴族の邸宅が営まれるようになり,平安時代におけるこの地域の重要性は次第に増していきました。

鎌倉時代に入ると,現在の今出川通付近から以北にも,毘沙門堂,川崎観音堂などの寺社を中心として繁華な世界が出現。また歌人として名高い藤原定家の邸宅なども建ち並び,北への発展を遂げていきました。 豊臣秀吉による都市改造によって,寺町通の東側に,廬山寺,本禅寺,真如堂,十念寺など多くの寺院が文字どおり軒を並べ,その背後を取り囲むように,洛中と洛外を画するお土居が走り,この土居地および鴨河原の開発というかたちで,町地の形成が進められました。江戸時代の中期ともなると,旧土居地および鴨河原のほとんどは町地や公用地として生まれ変わっていきました。

しかし,近代になると町の様相は一変します。明治10年には旧梶井宮邸に療病院が移転,同18年には梨木神社が創建,同34年は京都法政学校(現立命館大学)も移ってきました。そして大正から昭和にかけては,市電の今出川線と河原町線の開通も手伝って,急速に都市化が進みました。 京極学区と称するようになるのは昭和4年のこと。かつて北の方は,学者が多く住んでいたため,学者の町と呼ばれていたそうです。やはり緑豊かな御所のすぐ近くで,目の前に流れる鴨川といった閑静な場所が学問を研究する上で好まれたのでしょう。

仁和学区
仁和学区は,最北部は今出川通,南は丸太町通の一部,東は千本通の一部,西は紙屋川までの広範囲におよびます。古代豪族「秦氏」の集住地域のひとつとされ,平安時代には平安京の中枢部に位置し,御前通以東では,宴の松原,内蔵寮,掃部寮,大歌寮,図書寮,大蔵省,兵庫寮,采女司,正親司,右近衛府,右兵衛府などが所在。大内裏外の右京域には官寮町が所在し,『拾芥抄』によれば兵庫町,右兵衛府,図書町,隼人町,采女町などの名が認められます。

天徳4年(960)に内裏炎上。その後しばしば火災に見まわれ,安貞元年(1227)の大火で内裏は再建されることなく,荒れるにまかされ衰退していきました。天正15年(1587)聚楽第が建設され,地域は大きく変貌。下の森通以東の地域は一番町から七番町にわたって組屋敷が形成され,城下的町々が出現しました。江戸時代,大将軍は東竪町をはじめ6カ町を形成。西ノ京も17カ町で独自の組町を構成し,西の繁華街として定着していきました。

明治33年,京都電気鉄道が「天神まいり」のため,市電北野線(堀川中立売~天神さん)を開通。後に堀川線を結び,北野から京都駅まで延長しました。仁和学区は現在およそ5000世帯あり,市内で随一の広さを誇る校庭には,時代とともに少子化が進み少なくなったとはいえ,400人余が元気に走り,勉学に勤んでいます。平成10年,小学校の建て替えが始まり,新校舎には大きな期待が寄せられています。

正親学区
校区は,おおよそ北は一条通,南は下長者町通,東は松屋町通,西は千本通,それに嘉楽小学校が廃校となって編入した笹屋町2丁目と北伊勢殿構町が加わります。その正親学区の地は,古く平安京の昔に歴史を留めます。長岡京からの遷都で,都の中枢である大内裏(宮城)が千本丸太町を中心に造営され,この地には大蔵や主殿寮など,諸官庁が建っていました。 豊臣秀吉の時代になると,秀吉の天下統一の権勢を誇るかのように建つ豪奢な聚楽第がこの地にあり,周辺には諸侯の邸宅が建ち並びました。それらの建物や屋敷,井戸などが町名となって,今も区内に多く残っています。また,正親という校名も,聚楽第起工当時の天皇・正親町帝に由来しています。

明治33年には,中立売通にチンチン電車の北野線(京都駅~北野)が,大正元年には千本通にも市電が開通し,千本中立売界隈を中心に座館や商店が軒を連ね,西陣織の活況ともあいまって急速に発展しました。そのにぎわいは下の新京極にもおとらず,庶民が気軽に出歩けるところから「ゲタばき京極」という言葉も生まれました。その千本通は,日本映画発祥の地でもあります。のちに日本映画の父といわれた千本座の座主・牧野省三と「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の出会いは,日本中に活動写真ブームを巻き起こし,1000余の作品が製作され,全国の常設館で上映されました。 このように正親学区の地は,常に歴史の表舞台でありました。

聚楽学区
聚楽の地名は秀吉の聚楽第からはじまるという説と,それ以前に「聚楽角坊」と呼ばれる地域であったという説もあります。平安京の時代,この地域は大内裏北隅の一部と,その東には官衙(官庁)が隣接していました。しかし,度々の災禍により大内裏一帯も荒廃し,この地の諸司厨町も大きな影響をうけましたが,大舎人町や織部町にあった工人たちが,自ら座を結成しながら,日本一の高級織物をつくりだす西陣機業地の先駆的な役割を果していきました。 応仁,文明の内乱期には,またしてもこの地域は激しい戦火をあびましたが,戦乱がおさまるとともに,新しい機業地西陣を形成していきます。さらに秀吉の聚楽第築造にともない,周辺に新たな町景観をもたらしました。

聚楽第廃亡後,急速に町家が建設され,約40年後の寛永14年(1637)の『洛中絵図』では,すでに堀川通以西,松屋町通以東は市街化し,活気にみちた町人街の景観を現しています。 明治維新後,行政改革によって,町組の再編が行われ,明治2年,上京15番組となり,明治5年に第16区,同12年には第16組,同25年に第12学区となったのち,昭和4年に聚楽学区と改称しました。学校名の由来は,聚楽第の一角に位置したことによります。

中立学区
私達の住む学区は,東は烏丸通,西は堀川通,南は下長者町通,北は一条通に囲まれ,上京区のほぼ中央に位置しています。 8世紀の平安遷都以来1200年,市街地として現在に至るまで,幾多の天災や戦乱に見舞われましたが力強く立ちあがっています。

室町時代末期には,日本で最も早く公家と町民が一体となって,禁裏六丁町と云われる町組を形成した所で,江戸時代に入っても中立売式目等の町式目によって判る如く,住民が一致協力して繁栄して来たところです。 この地域は,東隣の禁裏と西南の二条城とを結ぶ位置にあり,西北の西陣地区とも接し,立地条件がよく,中立売町に糸,呉服商が集まり,堀川沿いの染色業,烏丸通の上菓子屋等が著名です。また,伝統的学芸に基づく医師・儒者・画家・美術工芸諸家の居住が多く,禁裏御用を司る商工市民の街の様子がうかがえました。

しかし,明治になると廃絶の大名・公家屋敷が随所に見られ,公武を対象とする生業は転換を余儀なくされ,次第に上京区役所・中立売警察署など地域行政の中心となる官庁や各種教育機関が設立され,良好な環境をもつ文化の香り高い静かな住宅地として今日に至っています。 また,区域に初めて小学校が誕生したのは,明治2年のこと。上京第十六番組小学校として,町衆の献身的な協力のもとに建設された事は画期的な大事業でした。

出水学区
昭和20年6月26日,昼前。日本本土を空襲に来たアメリカ空軍B29のうちの一機から数発の爆弾が,出水,正親,待賢,の3学区の境界に落下して,多数の犠牲者がでたことを。

待賢学区
待賢学区は,東は堀川通,西は日暮通,北は下長者町通,南は竹屋町通に囲まれた地域。ここは延暦13年(794)に平安京ができた頃,大内裏の東側に位置し,その門の一つ待賢門が現在の椹木町通大宮あたりにあったところから,「待賢」と称されるようになりました。当時は,検非違使庁などがある官庁の町でしたが,平安時代から鎌倉時代に移る頃,平治元年(1159)の平治の乱で戦場となったり,安貞元年(1227)の火災で少しずつ衰退していきました。室町時代の初め,明徳2年(1391)には明徳の乱が起こり,あたりは戦場となったりしました。

豊臣秀吉が天下を統一すると,天正14年(1586)に待賢学区の北側の地に聚楽第を建て,その周囲には武将の家々が次々と建ち並ぶようになりました。やがて秀吉に代わり,徳川家康が天下をとり江戸幕府を開くと,慶長6年(1601)待賢小学校あたりに京都所司代を作り,慶長8年には上洛時の将軍の居城として二条城を造営。その周囲に町家が建てられ,町が形成されていきました。慶応3年(1867)将軍慶喜が二条城で大政奉還をして江戸幕府が倒れ,それに伴って京都所司代は廃止されました。

明治3年(1870)その屋敷跡に京都府中学校が建てられましたが,ほどなく移転し,養蚕場となりました。明治39年(1906)その地に待賢小学校が大黒町から移ってきました。堀川三条から堀川中立売までチンチン電車が走り,明治45年には烏丸丸太町から千本丸太町まで市電が走るようになり,丸太町通は拡張され,校舎も南に移転することを余儀なくされました。大正中期になると西堀川通に「堀川京極」としての商店街を形成。しかし,昭和20年(1945)空襲に備えて堀川通の戦時建物強制疎開がおこなわれ「堀川京極」は撤去。そこに幅50メートルの堀川通が出現したのです。

滋野学区
滋野学区は,下長者町通(鷹司小路),烏丸通(烏丸小路),丸太町通(春日小路),堀川通(堀川小路)によって囲まれた地域です。かつて平安京の頃は,大内裏に近接し,比較的土地条件等もよかったため,律令政府の役人や技術職員たちが居住し勤務する官衙町および高級貴族の邸地となりました。

官衙町の周辺には,その空間を埋めるようなかたちで,貴族の邸宅が建てられるようになっていきました。また,西部では,本院,滋野貞主邸,高陽院,東部では菅原院,近衛殿,枇杷殿などが著名なものといえます。平安時代中期以降,高陽院や近衛殿なども,しばしば里内裏となり,王朝政治の舞台となりました。衰退期とはいえ,政庁の場として組み込まれたことにより,この地区が急速に発展したことは,充分うかがわれます。

しかし,応仁の乱などによる戦乱によって,古代的景観はまったく失われ,このあたりは武家の陣所へと変貌していきます。代表的なのは斯波氏(武衛派)の館で,その武衛陣が修築されて,将軍足利義輝の武衛陣第(室町御所)に。そこがまた織田信長によって拡築され,将軍足利義昭の御所となっていきます。しかし,政情不安な時代に武家の陣所となることは,そこが戦場ともなることを意味し,事実,義昭と信長の対立から,この地は戦場となって荒廃していきました。

その後,豊臣秀吉による都市改造を経て,江戸時代には,禁裏,公家町に近接する町人の街として発展。ここには両替商や幕府・諸大名の呉服所,用達所などを請け負う特権的御用町人が,数多く軒を並べていました。

こうした御用町人たちは,興亡が激しく,また競合心も強かったから,町組や町の運営も相当難しかったみたいです。もちろん,大町人の没落と拮抗するかのように,堅実な町人たちも勃興したし,伊藤仁斎のように地域にしっかり根をおろした文化人も育ちました。この地がたびたびの火災で繰り返し焼亡しつくされたことや,幕末の広大な京都守護職邸設置によって多くの町が廃町となったこと,また明治以降,京都府庁に隣接する地が,種々の官公府舎となり,市民生活の場が制限されていったことも,町の歴史的性格形成に大きな影響をあたえたことは確かです。

春日学区
東は鴨川,西は京都御苑,北は府立医大病院という細長い三方ふさがりの地域に春日学区は位置しています。民家が続くのは丸太町通より南だけで,御霊図子通でもって中京区に接しています。そのために住民の付き合いは上京区よりも中京区の方が濃く,小学校区は御所南小学校,中学校区は柳池中学校(かつては銅駝中学校)で,いずれも中京区の学校です。 春日の地は,もともと平安京域の外であり,鴨川の氾濫原を治水工事によって人の住めるようにしたところです。桃山時代になって豊臣秀吉が市街地を改造しますが,その時にも東京極大路の東側に寺院を集めて寺町を形成し,さらにその外に御土居を築いたのでした。宝永の大火後,寺は再び移転させられて公家屋敷や幕府の役宅が建てられ,御土居も消滅して鴨川沿いは新地として開き,東三本木の遊廓もできました。

しかし,明治以降は公家屋敷の消滅によって全くの住宅地となり,丸太町通や河原町通が拡張されて市電が開通すると商店街も形成されるようになりました。今となっては,その町構造も大きく変わり,1100世帯,人口は約2500人,その20%以上が老齢人口という典型的な老人社会となっています。

名所旧跡

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京都御苑
京都御苑は京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の緑地を指す。 京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。東西約700メートル・南北1300メートルの範囲で総面積は92ヘクタール。そのうち環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである。9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通しを持つ。

明治の遷都の際、御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園として開放された。 現在は京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。

多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グラウンドやテニスコートもあり、市民の憩いの場になっている。

京都御苑内には500種以上の植物がある。苑内には約5万本の樹木が生育しており、多くは明治以降に植栽されたものである。マツ、ケヤキ、シイ・カシ類、イチョウなどのほか、ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなどの花の咲く木も多く、これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。また、スミレ、タンポポどの草花やキノコ類も多く見られる。キノコ類は400種以上が確認されており、一年を通じて観察できる。

苑内には動物も多く見られる。野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、そのうち約20種は苑内で繁殖されている。代表的な鳥としてはアオバト、ビンズイ、トラツグミ、ゴイサギなどがあげられる。昆虫類も多く見られ、チョウ類55種、トンボ類26種、セミ類8種などが確認できる。 苑内には、自然に親しむ場所として「母と子の森」「トンボ池」「出水の小川」などが整備されているほか、「母と子の森」内の「森の文庫」では植物や生物など自然についての本が置かれたり、閑院宮邸跡の収納展示室で自然や歴史について解説とともに学ぶこともできる。

仙洞御所の池には魚類が生息している。ハゼ類の研究者として知られる上皇明仁は、ここで採取したヨシノボリの遺伝子解析により、ビワヨシノボリとシマヒレヨシノボリの交雑種であることを明らかにした論文を2019年発表した。 こうした環境が京都市内の中心部にあることで、散策や花見のほか、バードウォッチングや自然観察会などに多くの人が訪れる場となっている。

大将軍八神社
大将軍八神社は京都府京都市上京区西町にある神社。素戔嗚尊を主祭神とする。本来の祭神は大将軍であった。社号の「八神社」は、陰陽道の暦神・八将神を祀るところから来ており、後には素戔嗚尊の御子神八柱の意も重なった。 延暦13年(794年)の平安京遷都の際、王城鎮護のため陰陽道の考えにより都の方除けをしようとし、大内裏の乾(戌亥・北西)の天門守護として、八将神の一柱であり金曜星(太白)の神格である方位神・大将軍を奈良の春日山麓から勧請し、大将軍堂が造営された。 大将軍は建築や転居、旅行などにおいて方角の吉凶を司る神であるため、大将軍八神社は長きにわたり民間の崇敬を集めた。

現存する文献上最初の記述は『山槐記』にあり、治承2年(1178年)11月12日に高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願のため奉幣使が参向した41社の内の1社として記されている。 室町時代には応仁の乱によって荒廃したが、神社として復興した。 江戸時代に八将神の信仰が強まりを見せると祭神の大将軍が素戔嗚尊(牛頭天王)と習合し、八将神は素戔嗚尊の御子神八柱もしくは牛頭天王の眷属である八王子と習合して祀られるようになった。その際、大将軍とは素戔嗚尊でもあり、また御子神八柱のうちの天津彦根命でもあるとされた。その理由は、大将軍堂は暦応3年(1340年)から約100年の間は祇園社(現、八坂神社)の管理下にあり、八坂神社の祭神が素盞鳴尊であり、その神格が大将軍神と似通っている事から関連付けられたためと考えられている。こうして社名は大将軍八神宮と改称され、大将軍社とも呼ばれるようになった。 江戸時代には方除厄除12社参りが流行し、その時期に建立された天保11年(1840年)の標石は現在も門前にある。 明治時代に入ると神仏分離の流れの中で、正式な祭神は素戔嗚尊とその御子神八柱に変更され、社名は大将軍八神社となった。

晴明神社
寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となる。また、隣接して千利休の屋敷が設けられていた。 幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年(昭和25年)には堀川通に面するように境内地が拡張された。

平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年(平成17年)には安倍晴明千年祭が行われた。 2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調され、安政元年(1854年)に土御門晴雄により奉納されたものを忠実に再現したものとなった。 一の鳥居の社号額には五芒星の社紋が描かれている。

北野天満宮
北野天満宮は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。

右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥であるが、壮大な社殿に作り直されたという。

護王神社
護王神社は、京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。 和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。 護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。正確な創建の年代は不詳である。

和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。天皇自らが人臣に対して神階を授けたのはこれが初めてである。明治7年(1874年)、護王善神社を護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。 大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫は孤児救済事業で知られることから子育明神と呼ばれる。

引接寺
引接寺は、京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町にある、高野山真言宗に属する寺院である。一般には千本ゑんま堂と通称される。春の念仏狂言で知られる。 引接とは、仏が衆生を浄土に往生させること。その名の通りこの寺は、かつての京都の3大墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野の一つである蓮台野の入り口に立っている。現在でも地獄の裁判官である閻魔の像を祀り、「悪いことをするな」「嘘をついてはいけない」という子供らへの教戒の場となっている。寺務所では「えんま様のお目こぼし」というかき餅も売られている。

大報恩寺
大報恩寺は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山。千本釈迦堂と通称される。本尊は釈迦如来坐像(重要文化財)。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として、護持された。新西国三十三箇所第16番札所。

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、「猫間中納言」と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 – 1275年)。

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。倶舎・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている。 大報恩寺には近隣の北野社(北野天満宮)境内にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。足利義満は明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者と氏清を悼んで、乱の翌年の明徳3年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始し、応永8年(1401年)に北野経王堂願成就寺を建立した。

経王堂は文安元年(1444年)の文安の麹騒動で北野社と共に焼け落ちたが、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として北野社を復興した際に、共に再建されている。しかし、寛文11年(1671年)には老朽化のために規模を縮小されて改築されている。さらに、明治時代となって神仏分離令が出されると、北野天満宮にある仏堂は解体されていき、経王堂は当寺に観音堂として再び規模を縮小して移築された。経蔵に伝来した一切経、傅大士及二童子像、鼉太鼓縁などは大報恩寺に保管されている。

石像寺
石像寺は京都市上京区にある浄土宗の寺院。山号は家隆山。詳名は家隆山光明遍照院石像寺である。本尊は地蔵菩薩。地元では通称の釘抜地蔵で知られている。

寺伝では空海(弘法大師)により819年(弘仁10年)に創建されたという。当初真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源による再興を機に浄土宗に改宗され、慶長19年(1614年)西蓮社厳誉上人が再興したという。 地蔵堂の本尊は空海が唐から持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩である。 この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになった。

聖アグネス教会
聖アグネス教会は、日本の京都府京都市上京区にある、日本聖公会の教会。平安女学院京都キャンパスの敷地内に所在する聖堂は、日本聖公会京都教区の中心となる主教座聖堂であるとともに、地域の教会、平安女学院の礼拝堂という3つの役割を兼ね備える。 名称は平安女学院の守護聖人で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス統治の時代にローマで殉教した聖アグネスにちなむ。1898年(明治31年)に竣工したレンガ造り・ゴシック様式の建物は、ジェームズ・ガーディナーによる設計で、京都市指定有形文化財。

聖堂は、東を烏丸通に、北を下立売通に面した、ゴシック様式・レンガ造りの聖堂である。設計にあたったのは、建築家ジェームズ・ガーディナー(立教学校の初代校長を務めた)である。 東西に長い敷地に建つ聖堂は左右非対称で、袖廊は小さい。出入口は北西角(下立売通側)にある。全体にずんぐりした形であるが、これは地震に配慮したものという。北東角(烏丸下立売角)にある三層の鐘楼が特徴的な外観で、最下層に縦長窓、中層にバラ窓、最上層にトレサリー窓(英語版)を配し分け、単調さを避けている。

内部は三廊式バシリカ様式で、一般的な大聖堂と同様、東端(烏丸通側)に祭壇を設けている。南東角には礼拝準備室、南西角には八角形に張り出した洗礼室がある。内部は小屋組のハンマービーム(英語版)(壁面上端から跳ね出された梁の上にアーチを架ける構造)など材木を見せるデザインであり、明治期の教会建築の特徴を備えている。 西バラ窓をはじめ30点以上のステンドグラス(ジェームズ・ガーディナーがデザインし、日本人によって製作されたもの)があり、その大部分は竣工当時のものが残っている。

カトリック西陣聖ヨゼフ教会
カトリック西陣聖ヨゼフ教会は、京都市上京区にあるカトリックの教会。

学校法人平安女学院
学校法人平安女学院は、大学、短期大学、高校、中学校、幼稚園を運営する学校法人。聖アグネス(St. Agnes)を守護聖人とあおぐ。米国聖公会から派遣された教師によって開かれたキリスト教主義学校である。本部は京都府。

白峯神宮
白峯神宮は、京都府京都市上京区にある神社である。配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る。 白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)・飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られる。毎年4月の「春季例大祭」と7月の「精大明神例祭」には、天下泰平・国家安泰・五穀豊穣を祈って、白峯神宮で蹴鞠保存会による蹴鞠が奉納されている。 スポーツにちなんだお守りが有名で、叶う輪という縁起物がある。

一条戻橋
一条戻橋は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋である。単に戻橋ともいう。 794年の平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋された。橋そのものは何度も作り直されているが、現在も当時と同じ場所にある。平安中期以降、堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために、堀川を渡ること、即ち戻り橋を渡ることには特別の意味が生じ、さまざまな伝承や風習が生まれる背景となった。

現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものである。一条戻橋の近くにある晴明神社には、それ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがある。江戸時代の戻り橋の様子は『都名所図会』の挿絵によって知ることができる。 交差する堀川通りには「一条戻橋・晴明神社前」というバス停も存在する。 また知名度の高さからTVドラマなどでの撮影もよく行われている。

本法寺
本法寺は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は叡昌山。塔頭が三院ある(尊陽院、教行院、教蔵院)。 法華行者として、強い信念をもつ日親は、1439年(永享11年)足利義教の屋敷へ赴き、庭中へ直訴し諌暁を図る。足利義教に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と説いたのである。驚いた幕府は諌暁を禁止する。それでも日親は諦めることなく、身命を賭けた諌暁書「立正治国論」を著したため怒りに触れ、寺を焼かれ投獄される。1441年(嘉吉元年)赤松満祐の謀反で足利義教が暗殺されたことで日親は赦免される。赦免後、獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。現住は96世瀬川日照貫首(柏市妙照寺より晋山)。親師法縁縁頭寺。

本法寺は寺伝によれば、1436年(永享8年)日親が本阿弥清信の帰依を得て創建。当初は東洞院綾小路(現・京都市下京区)にあった。前述のとおり、日親は1440年(永享12年)足利義教の怒りを買い投獄されたが、翌年赦免された。日親は1463年(寛正3年)にも投獄され、寺は破却されたが、翌1464年(寛正4年)赦免され、寺は三条万里小路(現在の中京区三条柳馬場)に再建された。1536年(天文5年)本法寺は洛中の他の法華系寺院とともに天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。1542年(天文11年)後奈良天皇は、法華宗帰洛の綸旨を下し、本法寺は一条堀川に再建された。1587年(天正15年)豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。1788年(天明8年)天明の大火により焼失したが、その後再建された。

上御霊神社
上御霊神社は、京都市上京区にある神社。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。 そもそもは桓武天皇の時代、各地で疫病が流行していた。これは御霊の祟りであるとして、延暦13年(794年)5月、早良親王(崇道天皇)の御霊をこの地に祀ったのが始めだとされる。また、この地には平安遷都以前から出雲氏の氏寺・上出雲寺があり、当社の元はその鎮守社であったともされる。

相国寺
相国寺は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭である。

永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。 義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍の大半が焼失した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。

火災はその後も多々起こり、応永32年(1425年)にも再度全焼している。応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。

また、義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。大正3年(1914年)の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(後の鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が義満没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失、その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建された3代目の塔も文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している。

宝鏡寺
宝鏡寺は、京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。山号は西山。人形寺、人形の寺とも呼ばれる。普段は拝観できないが、定期的に特別拝観が行われる。

光厳天皇皇女の華林宮惠厳は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。室町時代の応安年間(1368年 – 1375年)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501 – 1504年)に再興したとする別伝もある。

文化伝統

京都市考古資料館
京都市考古資料館は、京都市上京区今出川大宮東入ルに位置する考古資料専門の博物館。 京都市内で発掘された埋蔵文化財を中心に展示を行うとともに文化財講習などのイベントを行う施設であり、1979年(昭和54年)11月に開館された。文化財の発掘、研究、保護などを目的に京都市を中心に設立された財団法人京都市埋蔵文化財研究所が、指定管理者として管理・運営を行っている。

館内は時代別、テーマ別などいくつかのコーナーに分け現物、レプリカ、写真などで展示されている。一部の展示物は写真撮影や手で触れることが可能である。 建物は以前は西陣織物館として使われていたものであり京都市登録有形文化財に登録されている。

益富地学会館
公益財団法人益富地学会館は、京都市上京区にある公益財団法人。石に関する博物館を運営している。

西陣織
西陣織とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名である。 錦、緞子、朱珍、絣、紬などの多彩な糸を用いた先染めによる高級絹織物。 西陣とは、応仁の乱時に西軍(山名宗全側)が本陣を置いたことにちなむ京都の地名。行政区域は特別にはないが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区と北区の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたあたりに多い。応仁の乱を期に大きく発展したが、応仁の乱より昔の、5世紀末からこの伝統が伝えられている。また、「西陣」と「西陣織」は「西陣織工業組合」の登録商標。

西陣織の品種は極めて多種である。このうち「綴」「経錦」「緯錦」「緞子」「朱珍」「紹巴」「風通」「綟り織」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」の12品目の織り技法が伝統工芸品の指定を受けている。

着物の装いの早覚え法として「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織りの着物に染めの帯」という言葉がある。染めの着物は友禅など生地を織り上げてから染める後染めの着物をさし、織りの帯は西陣で多く織られる高級な先染めの帯を意味する。続く織りの着物は御召・紬など、ややカジュアルな場面で着る先染めのおしゃれ着をさすが、これも西陣で多く織られる。染めの帯は友禅などの染め模様の帯をさす。もっとも、宮中の装束や能衣裳などに染めはほとんどなく、ほぼすべてが織りなので、一概に「織りの着物」が趣味着であるとは言えない。

表千家
表千家は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家であり、宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。 表千家を象徴する茶室不審菴の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理している。

現在の家元は、千利休から数えて、15代目の猶有斎千宗左家元である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。 本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、今日庵が表通りの不審菴の裏にあることに由来する。

裏千家
裏千家は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派の一つである。

裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家の表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。

武者小路千家
武者小路千家は、茶道流派の一つ。千利休からの家督を継いだ本家の表千家に対し、分家である裏千家と併せて、三千家といわれる。茶室の装飾は他の流派と比べてシンプルで簡潔にし、茶事は無駄のない合理的な所作を重視している。

宗家は京都市上京区武者小路通り小川東入にあり、この所在地が武者小路千家の名の由来である。官休庵は、現在では武者小路千家の茶室を指す場合と、財団法人官休庵を指す場合がある。

上七軒
上七軒は、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街である。 室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。

毎年春になると上七軒歌舞練場で『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている。 現在(2015年)、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて31名である。

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