哲学の道・岡崎エリア、日本京都観光ルート

哲学の道エリア、春は桜、秋は紅葉と四季折々の風情を見せる、哲学者・西田幾太郎が思案した疏水沿いの小径。哲学者で、京都大学教授だった西田幾太郎が毎朝、歩いて思想に耽ったことから名づけられた疏水沿いの小径です。浄土寺橋から若王子橋まで約2キロにおよぶ道沿いには、日本画家・橋本関雪が寄贈した約300本の関雪桜が。春には満開に咲き誇り、続いて新緑、紅葉、雪景色と四季折々の表情を見せる散策スポットです。周辺にはカフェや雑貨店も点在しているので、休憩がてら食事や買い物を楽しむことも。哲学の道から少しはずれ、谷崎潤一郎など著名人の墓がある法然院や紅葉で有名な永観堂へ足をのばすこともできます。

岡崎エリア、緑豊かなエリアに美術館や図書館、古社・名刹が点在、最新アートから古典芸能まで多様なカルチャーを楽しむ。地下鉄東山駅から北へ10分ほど歩いたところに広がる岡崎公園は、動物園や美術館、図書館、能楽堂に加え、朱塗りの社殿が有名な平安神宮などが点在する文化ゾーンです。春は疏水沿いに植えられた桜で周辺がピンク色に染まり、人気のお花見スポットに。疏水を眺めながら東に歩けば南禅寺の大伽藍や東山の景色に溶け込むように立つレンガ造りの南禅寺水路閣が。また、丸太町通の北側には2月の節分祭の折には大勢の参拝者で賑わう吉田神社や聖護院門跡、狛うさぎで有名な岡崎神社、金戒光明寺などもあります。京都の歴史や文化を感じることができるエリアです。

左京区は、京都市を構成する11区の内の一つ。京都府京都市北東部に位置する。区南部は住宅地や文教地区になっている一方(岩倉地区などの北寄りの地域は市街化調整区域に指定されているため、高層建築物などの大規模開発が制限されている影響で、田畑も多く残る)、区北部は山間地で林業が盛んである。有名な寺社としては東山慈照寺(銀閣寺)・南禅寺・下鴨神社・平安神宮がある。また北部には鞍馬寺・貴船神社・三千院・岩倉具視幽閉跡・修学院離宮などがある。またかつては八瀬、大原から大原女と呼ばれる山菜売りの女性が行商に来ることもあった。また、北白川には花の行商を生業とする白川女が存在していたが、現在は存続していない模様である。他に北白川の山間部には、白川砂と言う特産品もある。

哲学の道
哲学の道は京都府京都市左京区にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。永観堂付近にある熊野若王子神社前の冷泉通若王子橋を南端として始まり、東山山麓の琵琶湖疏水に沿って銀閣寺西の今出川通銀閣寺橋を北端として続く約1.5kmの散歩道。幅員は広くないが、沿道に多くの樹木が植わる。沿道の横には、熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れ、疏水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉と四季折々に景色が変化する自然の美しい区間で、京都で最も人気のある散歩道として訪れる人が多く、桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。近年は廃業した喫茶店に住み着いた多くの猫が有名になりつつある区間でもある。それより北側は両側が住宅地となり、疏水の両岸に桜並木が植えられている。歩道も東側にもある場合があるが、よく整備されているのは西側だけである。日本の道100選にも選ばれている。

哲学の道はもともと、1890年(明治23年)に琵琶湖疏水が完成した際に、管理用道路として設置された道である。当初、芝生が植えられている程度の道であったが、ここを歩いて通行する人々が増えていった。明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、思案を巡らしたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。これにちなみ、1981年(昭和56年)に道の中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた。

1972年(昭和47年)になって、砂利道の散策路として整備され、さらにその後、1987年(昭和53年)に廃止された市電の軌道敷石を転用して、歩行者が歩きやすいように敷石を並べたものとなって現在に至っている。若王子橋から銀閣寺橋までの約1.5km区間が、1987年(昭和62年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」の1つに選定されている。

哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。寄贈の経緯は画家として大成した関雪が、京都に対する報恩を考えた際によね夫人が桜を植えてはどうかと発案をした事による。当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、佐野藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。代替わりをした今でも桜並木の名称として「関雪桜」と呼ばれている。

岡崎
岡崎は、京都府京都市左京区の南部に存在する地域(広域地名)である。ここではおおよそ、左京区内の「岡崎」を町名に冠する地区の総称として用いる。左京区の南部に位置し、北は吉田・浄土寺、東は鹿ヶ谷・南禅寺、南は粟田口、西は聖護院・二条川東と接する。

この地は、平安時代に法勝寺等、六勝寺と総称される6か寺の大寺が建立された故地である。その名は、現在でも各寺の故地に町名となって残されている。 1895年(明治28年)、岡崎地域で平安遷都千百年紀念祭と第四回内国勧業博覧会が実施された。この会場はその後、平安神宮の境内として整備が進められていく。1900年(明治33年)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のご成婚に合わせて募られた寄付をもとに、整備が進められていた平安神宮の境内に動物園の開設が決定された。

工事は1901年(明治34年)に開始され、1903年(明治36年)4月1日、東宮御慶事記念動物園が開園する。動物園開設後の1903年5月22日、市会で第四回内国勧業博覧会場跡の市有地が岡崎公園と称されることが決定された。この決定を受け、翌1904年7月8日、同所が公園地に指定され、岡崎公園が開設された。その後公園には、1909年には京都府立図書館が建設された。さらに、1928年の大礼記念京都大博覧会の翌年には、大鳥居が新設され、1933年には京都市美術館が開館した。

内国勧業博覧会は、壮麗を極めた往時の六勝寺の伽藍も、その後の戦乱で灰燼に帰してしまい、幕末維新の頃には、岡崎には人家も疎らで、空き地が広がっていた。明治時代、東側に隣接する蹴上の地域に、琵琶湖疏水が引かれ、日本初の水力発電所が建設され、インクラインを利用した水運も発達すると、岡崎の地を琵琶湖疏水の本流が西流するようになった。1892年には、京都市の有力者が、平安遷都千百年紀念祭とあわせて、内国勧業博覧会の誘致運動を進め、会場として聖護院・岡崎周辺を想定した。

都市景観100選でもある岡崎地区における文化的景観の基軸は「水路と京都近代化の先駆け」で、琵琶湖疎水と白川を中心に、その流域の庭園や町並みと路地裏での蔬菜栽培(京の食文化継承)、岡崎神社や南禅寺等の寺社、そして文教施設としての岡崎公園などが、東山区の石泉院町と合わせ文化財保護法での重要文化的景観に選定されている。

観光スポット

京都・時代祭館
時代祭の魅力をいつでも体感できる文化商業施設。平安神宮の境内地に位置し、「十二十二(トニトニ)」という施設名は、平安遷都の日であり、時代祭の催行日でもある10(十)月22(二十二)日を合わせたもの。京都の老舗の逸品やオリジナルスイーツのほか、時代祭衣裳(一部)の展示があり、岡崎エリアの新拠点となっている。館内の提灯は、老舗・小嶋商店のあかりブランド「小菱屋忠兵衛」がプロデュース。また、館内スクリーンには時代風俗行列をテーマにした映像作品が高精度で投影されるなど、京都の歴史と文化を感じることができるスポットとなっている。

京都市国際交流会館
1978年に京都市が発表した「世界文化自由都市宣言」に基づき、市民の国際交流の拠点として1989(平成元)年にオープン。鉄骨鉄筋コンクリート造3階建の本館と和風別館から成り、交流ロビーや情報サービスコーナー、図書・資料室、イベントホールなどの貸会議室、キッズスペース、授乳やお祈り等に利用できる多目的ルーム、レストランなどがある。また、「京都市外国籍市民総合相談窓口」を開設し、多言語で相談に応じている。国内外の人々が互いの文化を理解し、共に暮らせる社会の実現を目指して、留学生支援、ボランティア活動等、京都の国際化の拠点として運営されている。

岡崎公園
1895年(明治28年)の内国勧業博覧会跡地に、市の公園として開設された。美術館、図書館、ロームシアター京都、動物園などがある文化ゾーンとなっている。また運動場でテニス、野球を楽しむ市民も多い。

京都市動物園
明治36年(1903)に開園した日本で2番目に歴史のある動物園。「近くて楽しい動物園」の実現を目指し進めてきた再整備工事が平成27年10月に完了し、11月8日にグランドオープンした。動物とのふれあいが体験できる「おとぎの国」、大型から小型のネコ科の動物を展示する「もうじゅうワールド」、アフリカに住む動物のからだのつくりや生活様式の違いを展示する「アフリカの草原」、熱帯雨林をテーマごとに展示する「ひかり・みず・みどりの熱帯動物館」や、ニシゴリラ本来の樹上生活を再現する「ゴリラのおうち~樹林のすみか~」を含む「サルワールド」、ラオスから来た子ゾウ4頭を含む5頭のゾウが群れで生活する様子を観察できる「ゾウの森」、京都の豊かな里山を再現した「京都の森」の6ゾーンに加え,動物園に入園しなくても利用できる図書館カフェ、レストラン及びグッズショップが併設された正面エントランス(学習・利便施設)も完成。今後は整備してきたゾーンを活用したさまざまなイベントを開催する。

京都市勧業館
平安建都1200年記念事業の一つとして平成8年に建設された。多様なイベントに対応できる4,000㎡の無柱の展示場をはじめ、大小の展示場及び会議室等を備える。地下1階には京都の伝統産業の粋を一堂に集めた常設展示場「京都伝統産業ミュージアム」があり、伝統工芸品から和雑貨まで魅力あふれる商品を取り揃えた「京都伝統産業ミュージアムショップ」を併設する。

京都会館
ロームシアター京都は2016年1月10日にリニューアルオープンしました。2005名収容のメインホールをはじめ、716名収容のサウスホール、リハーサルや約200名収容の小劇場としても利用できるノースホール(新設)、その他2つの会議室などを備えます。そして、新たに文化事業や文化芸術の活性化に資する賑わい創出のためのスペースとしてレストラン、ブック&カフェなどを備えた「パークプラザ」を新設。文化芸術都市・京都を発信する「文化の殿堂」として、コンサートをはじめ、オペラ、バレエ、伝統芸能、演劇、ミュージカルなど様々な分野の本格的な舞台芸術公園の他、レセプションやコンベンションなどMICEにも対応した劇場に生まれ変わりました。

名所・旧跡

平安神宮
平安神宮は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗。1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われ、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。

社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現である。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。1895年(明治28年)に完成、本殿は1976年(昭和51年)1月1日未明に出火した火災により焼失。1980年春に再建。

敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。神苑は明治から昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定されている。琵琶湖疏水から水を引き入れており琵琶湖では外来魚のために見かけることが出来なくなったイチモンジタナゴが生存していることが確認されている。神苑には人里には少ないカワセミやオオタカなどの鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ、日本では非常に珍しいミナミイシガメなどが棲息している。

慈照寺
慈照寺は、京都府京都市左京区銀閣寺町にある、臨済宗相国寺派の仏教寺院。相国寺の境外塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。室町幕府第8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。

慈照寺観音殿(銀閣)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺で、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。

鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)

初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになる。初層東側には落縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となり、こちら側が正面であることを示している。初層の南半部(正面から見て左側)は、手前を4畳大の吹き放しの広縁とし、その奥を8畳大の仏間とする。仏間は板敷で、天井は吹き寄せ格天井とする。初層の北半部は手前が畳敷の6畳、その奥は3畳大の板敷の小室が南北に並ぶ。このうち北側の室には上層への階段と勝手口、南側の室には押入がある。階段は上層の北側の回縁に通じている。なお、この3畳間2室は部屋としての役割が曖昧であるうえに後世の改造の痕跡があり、当初とは間取りや階段の位置が異なっているとみられる。

法然院
法然院は、京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院。元は浄土宗であったが独立し、現在は単立宗教法人である。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号する。別称には「本山獅子谷法然院」がある。現在、寺の一部を定期的に講演会やコンサートなどを催す場として開放している。 哲学の道近くという立地も関係して、春秋の観光シーズンには大勢の参拝者がある。

寺の起こりは鎌倉時代に法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代の延宝8年(1680年)に、知恩院の第38世である萬無が法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したとされる。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。1984年(昭和59年)に就任した現貫主は31世の梶田真章。父親の前貫主橋本峰雄は、神戸大学教授を務めた哲学者である。

安楽寺
安楽寺は、京都市左京区にある浄土宗の単立寺院。以前は浄土宗西山禅林寺派に属していたが単立寺院となった。鎌倉時代のはじめ、浄土宗の開祖法然の弟子である住蓮房と安楽房が、専修念仏の道場として結んだ草庵にはじまる。7月に中風除けを祈願するカボチャ供養で有名である。『通称松虫鈴虫寺』ともいわれる。

平安時代の1177年(安元3年)に起こった鹿ケ谷の変から二十数年後の鎌倉時代のはじめに、法然の弟子である住蓮と安楽が東山辺りを散歩していると、山中から一匹の白い鹿が現れ、その鹿に導かれた俊寛山荘跡あたりで姿が消えたのを不思議に思い霊告を感じたので、現在地より東方山中に専修念仏の道場として、鹿ケ谷草庵を結びました。 そこで住蓮と安楽は六時礼讃の行法等、法然の説く専修念仏の教化につとめた。住蓮と安楽の礼讃声明は美しく聴衆を魅了したと言われる。 しかし、1207年(建永2年)におこった建永の法難で、住蓮と安楽の両僧が処刑され、鹿ケ谷草庵は一時荒廃しました。その後、流刑地から帰洛した師の法然が住蓮安楽両僧の菩提所として草庵を再興した。 その後も何度か興廃を繰り返し、現在地となったのは室町時代後期の1522年~1555年のことである。寺宝として安楽・住蓮と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫関連のものが残されている。山号の住蓮山は住蓮坊の、寺号の安楽寺は安楽房の名を記念したものである。

禅林寺
禅林寺は、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。通称の永観堂の名で知られる。山号を聖衆来迎山と称する。紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

南禅寺
南禅寺は、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺と称する。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ

南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

岡崎神社
岡崎神社は、京都市左京区岡崎東天王町にある神社。別名「東天王」とも言われる。かつて付近一帯が野兎の生息地であったことから、兎が氏神様の神使とされる。延暦13年(794年)、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つとされ、都の東に鎮座するころから東天王と称される。

善正寺
善正寺は、京都府京都市左京区にある日蓮宗の寺院。山号は妙慧山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)達師法縁。善正寺は、豊臣秀吉の実姉日秀が、わが子である豊臣秀次を始め、豊臣秀勝、豊臣秀保また豊臣秀次一門の菩提を弔うため、嵯峨野に庵を結んだことに始まる。寺地は神楽岡と黒谷の中間、龍光院の西にあたる。丘陵上にあり眼下に吉田、聖護院一帯と遥かに市中をのぞむ。門には「妙慧山善正寺」「豊臣秀次公、村雲瑞龍寺御墓所」と札がかかる。

檀林というのは、現在の大学に相当するもので僧侶の学問所のこと。開設は善正寺が現在の地に移って四半世紀のちの寛永元年(1624) 檀林開基は第四世顕寿院日演上人。 地名をもって東山檀林とよばれ、明治初年の廃檀にいたるまでの間、実に七百余人の歴代を数えています。 東山檀林は京都六檀林の一つに数えられ、宗風大いに興り全国から多くの高僧が集まり、また多くの学僧が寄宿し勉学に励みました。花時には都下の人々が群参し、樹下に酒宴をひらいて三界の苦をしばし忘れたと言われています。

美術館・博物館

京都市美術館
京都市美術館は、京都府京都市左京区岡崎の岡崎公園にある美術館。1933年(昭和8年)開館。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目に開館した。京都市内にある国公立の博物館・美術館4館で構成する「京都ミュージアムズ・フォー」の1つである。コレクションは明治以降 – 1990年(平成2年)頃にまで至る日本画、洋画、工芸作品などが中心。主な展覧会はこれらコレクションを年数回テーマを変えて展示換えする常設展のほか、各種公募展、大学の卒業展などがある。また、新聞社主催の大規模展覧会が集客の核になっている。

京都市美術館別館は、平成12年(2000年)に開設。建築は、昭和5年(1930年)に京都市公会堂東館として建てられ、昭和35年(1960年)からは京都会館別館として用いられてきた。その後平成12年(2000年)に、建物の和風な外観を保全しながら、内部を全面改修し京都市美術館別館としてオープンした。主に、美術団体による展覧会等が開催されており、様々な展示を楽しむことができる。

京都市京セラ美術館
昭和8年(1933年)11月、昭和天皇の大礼を記念して開設。京都画壇をはじめとする近代日本画の名品を多数所蔵している。2020年3月21日のリニューアルオープン後はコレクションルームが新設され、四季ごとの所蔵品を楽しめる。また、新館「東山キューブ」では、現代アートをはじめ、デザインやマンガ、アニメ、ファッションなどの展覧会を開催し、これまで以上に幅広いアートに触れられるようになる。和洋折衷の特徴的な建築意匠はそのままに、新たにガラス張りの地下エントランスが誕生するなど、レトロとモダンが融合する建築はインスタ映え必須。

京都国立近代美術館
京都国立近代美術館は、京都市左京区岡崎の岡崎公園内にある、独立行政法人国立美術館が運営する美術館である。 日本の近代美術史全体に配慮しながら、京都を中心に関西・西日本の美術に比重を置き、京都画壇の日本画、洋画などを積極的に収集、展示し、河井寛次郎の陶芸、染織など工芸作品のコレクションも充実している。 現在の建物(新館)はプリツカー賞建築家槇文彦による設計で1986年(昭和61年)に竣工した。京都市内にある国公立の博物館・美術館4館で構成する「京都ミュージアムズ・フォー」の事務局も設けられている。国内外の近代美術品約13,000点を収蔵。特に京都画壇や関西洋画壇の作品収集で知られ、版画、陶芸、彫刻、デザイン、写真、その他の資料の収集・保管及び調査・研究を行っている。

京都府立図書館
京都府立図書館は、京都府京都市左京区岡崎成勝寺町にある京都府立の公共図書館である。日本で初めての公立の公開図書閲覧施設である京都集書院を前身とし、1909年(明治42年)に現在地である岡崎の地に開館した。建物は鉄筋コンクリート構造であり、地上4階と地下2階からなる。延床面積は7,477 m2である。1階には京都関連資料、日本文学関連資料、大活字本、地図が配架されている。また、利用者登録や図書の貸出・返却を行うためのカウンターがある。2階はマルチメディア閲覧室であり、音声・映像資料の利用や、インターネット、新聞、マイクロフィルムの閲覧が可能である。また、学びあいや議論の場にできるナレッジベースと呼ばれるスペースがある。地下1階には図書・雑誌が配架されており、調査相談、書庫内資料の利用、複写のためのカウンターがある。また、集密書庫と自動化書庫が設けられている。

関西美術院
関西美術院は、京都市左京区にある美術研究所。1901年に関西で組織された洋画家の懇親会である関西美術会・二十日会と、1902年に洋画家浅井忠が創立した聖護院洋画研究所を前身とする。教授に鹿子木孟郎・伊藤快彦・都鳥英喜らがあたり、日本近代洋画の逸材を多数輩出した。現代においても日展で受賞者を輩出するなど、優れた絵画教育を継承している。創立以来、ほとんどの指導者は無報酬で指導しており、現在も基本的に無償活動によって運営されている。

教育制度は甲科・乙科の二つに分かれており、乙科では石膏デッサン、甲科では人体デッサンと油絵製作が行われている。またクロッキー会と人体デッサン会が別に行われ、事前に了承を得れば院生(研究員)以外でも参加できる制度になっている。洋画家の三谷祐幸代表による個人所有だったが、三谷の寄付により、2017年11月時点で、石山寺の所有となっている。建物は武田五一が設計し、国の登録有形文化財になっている。

細見美術館
細見美術館は、京都市左京区岡崎にある日本の古美術を中心とした京都府の登録博物館。管理・運営は、公益財団法人細見美術財団、元文部科学省所管。大阪府泉大津市で毛織物で財を成した実業家・細見亮市(通称:細見良、号:古香庵、1901-1978)とその長男・細見實(1922-2006)、三代細見良行(1954- )の3代が収集した東洋古美術品を展示するために開設された美術館である。1994年(平成6年)に財団法人細見美術財団として認可され、美術館の開館は1998年(平成10年)であった。

細見家の収集品は、琳派や伊藤若冲らなど江戸時代の絵画や平安時代の仏画をはじめ、仏像、仏具などから古墳出土品に至るまで、日本美術のほとんどの分野にわたり、重要文化財指定物件、重要美術品認定物件を多数含む。細見亮市は「世界最高の美術品は日本の藤原時代の仏画だ」「自分は金属工芸からこの道に入ったのでものの形の厳しさと甘さがわかる」と主張していたといい、事実、コレクションのなかでも仏教絵画や仏具、銅鏡などの金工品は傑出している。

美術館は、岡崎公園に隣接し、京都市美術館や京都国立近代美術館などにも近い、文化施設の集まる地域にある。大江匡設計の建物は、京都の町家のモチーフをとりいれた現代建築で、地下2階から地上3階まで吹き抜けとなった中庭、カフェ・レストラン、屋上庭園、茶室などが憩いの空間を形成している。なお、大阪府泉大津市松之浜町2丁目には、財団が所有する膳所城の高麗門が移築されている。

京都大学総合博物館
京都大学が開学以来100年以上にわたって収集してきた貴重な学術標本資料約260万点を保管・管理し、第一線の研究・教育活動に活用するとともに、その先端の成果の紹介に重点を置く、日本初の本格的な社会に開かれた大学の窓口=ユニバーシティ・ミュージアムです。日本の大学博物館としては最大規模の展示場で京都大学の研究をわかりやすく展示しています。文化史、自然史及び技術史関係の常設展、企画展・特別展及び研究資源・アーカイブ映像、ステーションの常設に加え、公開講演、こども学習教室などを催し、広く一般市民に公開しています。また、インターネット・ホームページを通じて先端の成果の紹介も行っています。

琵琶湖疏水記念館
1989(平成元)年8月蹴上インクラインのほとりの地に開館。館には全長5メートルの克明な墨書である京都-大津間の通水路目論見実測図や難工事を描いた絵画、建設関係文書などを展示。蹴上インクラインの模型もあり、琵琶湖疏水の歴史が分かる。

泉屋博古館
泉屋博古館は、京都市左京区鹿ヶ谷にある、東洋美術が中心の美術館である。住友吉左衛門寄贈の中国古代青銅器を中心に公開する。東京都港区六本木に分館がある。運営は、公益財団法人泉屋博古館。

財団法人泉屋博古館は、住友家の美術コレクション、特に中国古代青銅器を保存公開するための機関として昭和35年(1960)に設立された。名前の由来は、江戸時代の住友家の屋号「泉屋」と、中国の宋時代に皇帝の命により編集された青銅器図録「博古図録」である。この名称がいつから使われたかは不明だが、旧銅器庫の正面上に西園寺公望揮毫の「泉屋博古」額が架けられており、少なくとも旧銅器庫が竣工した昭和初期には使われていたとわかる。平成14年(2002)には、別子銅山開坑300年記念事業の一環として、東京都港区六本木の泉ガーデン(泉ガーデンタワーなどからなる再開発地区)内に分館が開館した。

収蔵品は、住友家第15代当主住友吉左衞門(1864-1926)が収集した中国古代青銅器や鏡鑑、書画、文房具と、その長男の住友寛一(1896-1956)が収集した中国明清代の絵画、第16代当主住友吉左衞門(1909-1993)が蒐集した洋画、また江戸時代から住友家に伝来したも屏風などのコレクションが中心である。所蔵総数は国宝2件、重要文化財13件(19点)を含む約3500点で、中国の殷(商)・周時代を中心とした青銅器、日本・中国の銅鏡、仏像、明・清時代を中心とした中国書画などが名高い。1910年に住友邸で蒐集品を見学した東洋美術研究家のフリーダ・フィッシャーは「世界中の大富豪が束になったとしても、住友コレクションを凌駕することは到底無理だろう」 と圧倒された様子を綴っている。

並河靖之七宝記念館
明治から大正時代の日本を代表する七宝家 並河靖之の記念館。並河家に伝わる七宝作品(国登録有形文化財)のほか、旧邸宅や工房(国登録有形文化財および京都市指定歴史的意匠建造物、景観重要建造物、歴史的風致形成建造物)、七代目小川治兵衛の手がけた庭園(京都市指定名勝)を一般に公開している。

藤井斉成会有鄰館
藤井斉成会有鄰館は、京都市左京区岡崎にある、中国の古美術が中心の私立美術館。財団法人(現・公益財団法人)藤井斉成会は、滋賀県出身の実業家藤井善助(1873年-1943年、藤井紡績(後の藤井となる)創業者)の東洋美術コレクションを保存展示するための機関として大正15年(1926年)に設立された。日本の私立美術館としては草分けの1つである。京都市登録文化財の建物は地上3階建てで、屋上に朱塗りの八角堂を乗せた東洋風の展示館は設立当初からのもので、展示室内部も昭和初期の雰囲気をとどめている。

国宝 1件、国の重要文化財 9件を含む所蔵品は、中国の殷(商)から清まで各時代の青銅器、仏像、書画、陶磁器など多彩である。珍しい収蔵品として広く知れ渡っているものは、科挙試の際に使用されたとされる、四書五経とその注釈全60万字を細かい楷書で表裏全面に書いたカンニング用の下着(丈134cm)である。

白沙村荘
白沙村荘は、京都市左京区浄土寺にある、日本画家の橋本関雪が1916年(大正5年)から住んだ邸宅である。敷地内の建物は書斎、居間、客間、中庭などを内包する大きな主家と、屏風の制作を行っていた存古楼と呼ばれる画室を中心として構成されている。庭園の南部分には憩寂庵、倚翠亭、如舫亭と呼ばれる茶室群が存在している。憩寂庵は高台寺圓徳院写しの茶室となっている。2014年には2階建の美術館が新たに開館し、関雪の作品や蒐集品が展示されている。

野村美術館
野村證券、旧大和銀行などの創業者・野村徳七(号得庵)が、茶道を基本に収集した美術工芸品を展観。絵画、墨蹟、茶道具、能面、能装束などあり。(重要文化財 7件)立礼席での呈茶あり貸茶席あり。

行事・祭典

五大力尊法要
高盛御本膳
高盛御供
百萬遍知恩寺除夜法要
平安神宮・紅しだれコンサート
朝勤行<金戒光明寺>
神幸祭<須賀神社>
献花展
桜花祭
宝物虫払会
神苑無料公開
観桜茶会
京料理展示大会
十日十夜別時念仏会
涅槃図公開
例祭<山蔭神社>
神楽岡社神幸祭
献菓祭
京都薪能
引声阿弥陀経会
古式御弓神事
例祭<平安神宮>
煎茶献茶祭
今宮社神幸祭
例祭<吉田神社>
寒中托鉢修行
市民寄席
百萬遍知恩寺 十夜法要 秋の集い
念佛行道会
カボチャ供養
夏越の大祓式<平安神宮>