増上寺は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。

増上寺は、江戸時代の日本の統治者である徳川氏との関係で有名で、徳川将軍のうちの6人が寺内の台徳院buriedに埋葬されています。 また、この寺の山門門は、1622年に建てられた東京で最も古い木造の建物です。元の建物、寺、霊us、大聖堂は、第二次世界大戦中に火災、自然災害、空襲によって破壊されました。

港の芝地区にあります。 芝公園は寺院の周りに建てられ、東京タワーがその横に立っています。 2015年、大殿の地下にトレジャーギャラリーがオープンしました。現在は、加納一信の絵画と台徳院霊の模型が展示されています。

歴史
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。

その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

開基聖聡の弟子には、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)や、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善がいた。また松平親忠の第四子で、浄土宗総本山知恩院25世の超誉存牛や、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(せいよぐてい)はいずれも聖聡の孫弟子であり、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった。

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月26日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なおテレビドラマ『水戸黄門・第17部』においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。

また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。

明治維新直後には、神道国教化政策の下、半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり、大教院神殿が置かれた。参道には、通常は神社に建てられる鳥居が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日、排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。

太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。

東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。

なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)とは、増上寺の旧総門のことを指す。現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って改築したコンクリート造のものである。(詳しくは後述)

建築
寺院の敷地にはピーク時に120棟以上の建物がありましたが、明治時代(1868〜1912年)に仏教が衰退した後、第二次世界大戦の東京の爆撃でほとんどが焼けました。戦争の後、1974年に大殿が再建されました。

伽藍
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) – 戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
大殿 – 昭和49年(1974年)の再建。室町期の阿弥陀如来像、脇仏に法然上人像、善導大師像がまつられている。
安国殿 – 「黒本尊」といわれる室町時代の恵心僧都作とされる秘仏の阿弥陀如来を祀っている。徳川家康が崇拝し、当初は2尺6寸(約80cm)あった金色の立像であったが、長年の香煙により、黒ずんでしまった。正月15日、5月15日、9月15日にのみ開帳され、「黒本尊」と墨書きされた朱印が授与される。

徳川家霊廟
増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。

第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったが、昭和20年(1945年)に2度の空襲があり3月10日に北廟68棟が被災、続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失した。現在は台徳院霊廟の門4棟、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、ならびに文昭院・有章院等の宝塔8基(後述)を残すのみである。

文昭院殿霊廟 拝殿内部 (戦災で焼失)
焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。

Related Post

台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市のユネスコ村(現・狭山不動尊)に移築されている)
有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られており、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しかったが、2015年より約3年の期間をかけて大規模な保存修理工事を行っている。

これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。徳川家墓所は増上寺安国殿の裏手に移転している。同墓所の入口の門(銅造)は、もとは文昭院霊廟の奥院の中門だったもの。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。秀忠夫人の旧崇源院霊牌所の一部が1647年に鎌倉建長寺に建替えのため移築され、現存する。

増上寺に隣接する芝東照宮は、元は家康を祀る増上寺安国殿であったが、神仏分離令の折に独立し神社化された。安国殿は増上寺の中で有力な支院で寺は反対したが、独立を阻止できなかった。

改葬後の増上寺徳川家墓所に立つ宝塔と被葬者は下記の通り。

旧崇源院宝塔(石造) – 第二代将軍秀忠(台徳院)、同夫人(崇源院)の墓塔。台徳院宝塔は戦災で焼失したため、元の崇源院宝塔に夫妻が合祀されている。墓所内、入口から見て右列のもっとも奥にある。
旧文昭院宝塔(銅造) – 第六代家宣(文昭院)、同夫人(天英院)の墓塔。墓所内、左列のもっとも奥にある。
有章院宝塔(石造) – 第七代家継(有章院)の墓塔。墓所内、右列の秀忠夫妻墓の手前にある。
惇徳院宝塔(石造) – 第九代家重(惇徳院)の墓塔。墓所内、右列の家継墓の手前にある。
慎徳院宝塔(石造) – 第十二代家慶(慎徳院)の墓塔。墓所内、右列のもっとも手前にある。
昭徳院宝塔(石造) – 第十四代家茂(昭徳院)の墓塔。墓所内、左列の家宣夫妻墓の手前にある。
静寛院宮宝塔(銅造) – 家茂夫人和宮(静寛院)の墓塔。墓所内、左列の家茂墓の手前にある。
合祀塔(石造) – 墓所内、左列のもっとも手前にある。家宣の父・綱重(清揚院)、五代綱吉の生母・桂昌院、十一代家斉の正室・広大院、十三代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。現在の合祀塔は、元は月光院宝塔であった。

文化財

重要文化財
三解脱門(三門)
紙本著色法然上人伝 2巻 – 東京国立博物館に寄託
大蔵経 宋版5,356帖・元版5,386帖・高麗版1,259冊
花園天皇宸翰宸記目録上

他に旧国宝建造物の開山堂があったが、五重塔などと共に第二次世界大戦で焼失した。

重要文化財の台徳院霊廟惣門と有章院霊廟二天門は増上寺ではなく、個人の所有である。

東京都指定有形文化財
経蔵(東京都指定有形文化財)
木造阿弥陀如来坐像(本尊)
木造釈迦如来・両脇侍像
木造十六羅漢像
木造広目天・多聞天立像
木造四天王立像

旧総門「大門」
周辺の地名や駅名としても使われている「大門」は、増上寺の旧総門のことを指す。

大門は、増上寺が明治維新の上地令により寺領が奪われるなどして経済的に困窮し維持できなくなったため東京府に寄付され、東京府の所有となっていた。 前述の通り、現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築したものであるが、その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者が確認できなくなっていた。

増上寺では1974年頃から東京都に対し境内整備の一環として大門の譲与を求めていたが、東京都から「財産目録にないものは譲与できない」とされて応じられず、長らく所有者不明のまま放置されてきた。その影響もあって大門は老朽化が進んでしまい、東日本大震災で瓦の一部が落下して安全性に不安が示されたこともあって、2011年に地元企業で作る「大門振興会」から増上寺に対し大門の塗り替えの依頼がなされたことからマスコミなどでもこの問題が取り上げられて返還の機運が高まった。

その後、東京都が調査を行い、都の所有物であり都の財産台帳から誤って抹消されたものであると認めると同時に、大門の建物としての鑑定を行い資産的価値はないものとして増上寺に無償で譲与することを決定。2016年3月25日に東京都と増上寺の間で契約書を取り交わし、東京都から増上寺に返還された。

2016年4月現在、増上寺は港区に対し大門の文化財登録を申請しており、港区はこの申請をもって区道上にある大門の道路占有料を免除するとの方針を示している。

また、増上寺では2016年度中にも屋根瓦の改修、塗り替えなどを行うことを予定している。

境内
蓮池 – かつて本堂の背後にあった池。元は当地を流れる川の大きな淵だったものが、増上寺の池となったもの。天正年間(1573-1592年)に鳥居坂の女性が身を投げたと伝わる。女性の名は「ゆり」とも「さよ」ともいい、「さよが池」の呼称もあった。蓮の異称「木芙蓉」から芙蓉池とも呼んだ。。

貸出
テレビ番組の中継や企業のパーティー向けに境内を貸りることが可能である。古くは1980年代に音楽番組「ザ・ベストテン」で吉川晃司が境内からの中継を行ったほか、2010年代にもフェラーリの新型車「458スパイダー」の発表会およびパーティーの会場として使われている。

Share
Tags: JapanZ