山科区,京都市,近畿地方,日本

山科区は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。 京都市中心部から東山を越えた東、滋賀県との県境に位置する。東は滋賀県大津市、北・西・南は京都市左京区、東山区、伏見区に接する。面積28.78平方キロメートル。

区域は、周囲を如意ヶ嶽、音羽山、醍醐山、東山などの山々に囲まれた盆地である。区の北寄りを旧東海道が東西に走り、奈良方面への奈良街道も通じるなど、古くから交通の要衝であった。現在もJR東海道本線、東海道・山陽新幹線、国道1号、名神高速道路が区内を通っている。区内にはいわゆる観光スポットは少ないが、北部には天智天皇山科陵、毘沙門堂門跡、安祥寺、本圀寺(日蓮宗大本山)などがあり、区南端近くにはともに真言宗本山寺院である勧修寺、随心院がある。

東山により京都盆地から、音羽山や醍醐山(笠取山)などにより近江盆地からは隔てられている。昔から京都と東国とを結ぶ交通の要衝であった。 かつては滋賀県との境の農村だったが、現在は京都市街地や大阪のベッドタウンとなり、他地域からの移入者も多い。

東側は滋賀県大津市との県境に接しており、大津との結び付きも強い。また、南側は伏見区醍醐地区と接しており、山科区と同一の生活圏や経済圏を形成している。山科区と醍醐地区との繋がりは、伏見区中心部と醍醐地区の繋がりよりも深いと言われる。

歴史
明治22年(1889年)の市制町村制施行時、この地は宇治郡山科村であった。山科村は大正15年(1926年)に町制を施行して山科町となるが、5年後の昭和6年(1931年)には京都市東山区に編入された。その後、前述のとおり昭和51年(1976年)に分離されて山科区となっている。

古代
山科周辺は古くから交通が盛んであり、東山を越える日ノ岡峠、大津宿へ抜ける逢坂関が東海道の要所として知られていた。山科は東海道の街道町であり江戸時代には特に栄えた。また、逢坂から南へ抜ける奈良街道(奈良に都があった頃の北陸道)、東山を日ノ岡の南で越える渋谷街道(東国と六波羅探題を結んだ)や滑石街道、大岩街道など数多くの街道があった。

栗栖野の台地には縄文時代から人が住み弥生時代の大規模な集落跡も見つかっている。特に旧石器時代後期から室町時代にかけての遺跡が重なっている中臣遺跡は重要な遺跡である。

山科は古代より政権との結びつきが深く、669年には中臣鎌足によって精舎(山階寺)が作られ、7世紀末には天智天皇陵などが作られた。平安京や比叡山延暦寺の創建後、安祥寺(848年)・毘沙門堂門跡・勧修寺(900年)・曼荼羅寺(後の随心院、991年)など多くの寺院が作られ、区外の山科川下流の醍醐・笠取山の山上・山麓には醍醐寺(874年)が創建されている。

室町時代から戦国時代まで
中世には「山科荘」という荘園があり、これを代々保持していた公家の一流は後に山科家と名乗っていたが、戦国時代を代表する教養人として知られた山科言継の代の1548年に室町幕府によってこれを奪われている。

室町時代後期の1478年に蓮如によって山科本願寺が建てられ、長大な土塁に囲まれた寺院群と寺内町が山科盆地の大きな面積を占めるようになった。しかし城郭都市のようになった本願寺の存在と門徒たちの勢いを恐れた細川晴元は、京都市内をほぼ勢力下に置いた日蓮宗徒らと結託して一向宗に打撃を加えようとした。

1532年の天文法華の乱では日蓮宗徒たちは山科本願寺を陥落させ焼き討ちした(山科本願寺の戦い)。この後本拠を失った本願寺勢力は大坂(石山本願寺)に移っている。山科本願寺は廃墟と化したが、今も高い土塁の跡が区内各地に残存している。

江戸時代
江戸時代は山科や四宮、そして髭茶屋追分(現在の大津市追分)までが東海道(三条通の開通に伴い、今は旧街道・旧三条通り等と呼ばれる)の街道筋として一続きの町となり、飛脚や参勤交代をはじめ多くの人々が行き交った。髭茶屋追分からは京都を通らず大津宿と伏見宿、大坂を直接つなぐ伏見街道(大津街道)が山科盆地を南へ走っていた。また京都に住む天皇のため禁裏御料地として宮中に献上する作物を栽培したほか、近郊農村として京都の市民に野菜などを供給した。また大石良雄(内蔵助)は山科区の西の端にあたる西野山に住み、仇討ちまでの間、夜毎東山を越えて祇園に通いながら世間の目を欺いていた。

明治維新から第二次世界大戦まで
明治以降、琵琶湖疏水や東海道本線、現在の京阪京津線などが山科を通り、1933年に京津国道(後の国道1号、現在の三条通)が開通し、大正から昭和にかけては繊維・染色関係の工場が建つなど、京都の郊外住宅・工業地として栄えた。

特に大きな工場は、1921年に西野にできた日本絹布であり、翌年鐘紡に吸収されその山科工場となった。多くの女工が周囲に住み、近隣には市場や映画館もできるなど山科駅周辺の市街地化に貢献した。(山科工場は1970年に長浜に移転し、跡地は山科団地となっている。)

京都郊外のレジャー地区としてゴルフ場、ダンスホール、料亭なども開設されている。1931年に京都市東山区に編入されたが、この時点では住宅や工場は東海道沿いと山科駅周辺に集中しておりその他は竹やぶの散在する近郊農村だった。

第二次世界大戦後
戦後は、名神高速道路の京都東インターチェンジや国道1号線五条バイパス、区内の外環状線、国鉄(現JR西日本)湖西線が開通している。高度成長期以降は盆地内の農地の宅地化が進み、大型団地が建設されるなど京都や大阪のベッドタウンとなった。ただし、この際に道路整備が追い付かなかった事が、区内各所での渋滞が慢性化している原因にもなっている。

1976年(昭和51年)に東山区から分区され山科区となった。近年は西大津バイパスなどの琵琶湖西縦貫道路や、京都市中心部から日ノ岡の下を通り山科区を南に縦断する京都市営地下鉄東西線が開通するなど更なる交通網の整備が進んだほか、山科駅前は地下鉄開通とともに再開発されデパート(大丸)が入る再開発ビルが建設されている。そのため山科駅周辺ならびに地下鉄東西線が地下を走る外環状線沿線は活気ある街に育ちつつあるが、かつてのメインストリートであった旧東海道や醍醐街道の繁栄振りは鳴りを潜め、空洞化が進んでいる。

沿革
明治22年(1889年)の市制町村制施行から、山科区成立までの沿革は既に述べたとおりである。宇治郡山科町には安朱、上野、大塚、大宅、音羽、小野、上花山、川田、勧修寺、北花山、栗栖野、小山、四ノ宮(しのみや)、厨子奥、竹鼻、椥辻、西野、西野山、八軒、東野、髭茶屋、日ノ岡、御陵の23の大字が存在したが、これらは昭和6年(1931年)、山科町が当時の東山区に編入した際に計301町に編成された。これらの町は、「山科」の後に旧大字名を付したものを冠し、たとえば「東山区山科安朱稲荷山町」のように称していたが、昭和51年(1976年)の山科区分区後は、「山科」の冠を廃している。

1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行に伴い、宇治郡安朱村、上野村、御陵村、日岡村、厨子奥村、竹鼻村、四宮村、髭茶屋町、八軒町、小山村、音羽村、大塚村、西野村、東野村、北花山村、大宅村、椥辻村、上花山村、川田村、勧修寺村、西野山村、栗栖野村、小野村が合併して宇治郡山科村が成立。
1926年(大正15年)10月16日 – 山科村が町制施行し山科町となる。
1931年(昭和6年)4月1日 – 宇治郡山科町が京都市に編入。東山区の一部となる。
1951年(昭和26年)6月 – 東山区役所山科支所が発足。
1976年(昭和51年)10月1日 – 東山区から旧山科町が分区され山科区となる。

名所旧跡

毘沙門堂
毘沙門堂は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。正式名は護法山安国院出雲寺。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一つであり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。 寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。 平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、建久6年(1195年)、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を統合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継ぎ、建久6年(1195年)に塔ノ垣にあった旧出雲寺の地に護法山出雲寺として建立され、最澄自刻の毘沙門天像を本尊とした。なお、比叡山延暦寺の根本中堂に倣い、西に平等寺、東に尊重寺、中心に護法寺を据える配置となった。

室町時代の応仁元年(1467年)、応仁の乱によって焼失するが、文明元年(1469年)には再建される。しかし、元亀2年(1571年)再び焼失した。 江戸時代初頭の慶長年間(1596年 – 1615年)に至り、天台宗の僧で徳川家康の側近であった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、現在地に移転・復興される。天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。 後西天皇皇子の公弁法親王(1669年 – 1716年)は当寺で受戒し、晩年には毘沙門堂に隠棲しているが、その際には父である後西天皇の死後に御所から勅使門、霊殿、宸殿を拝領し毘沙門堂に移築している。 以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、天台宗京都五門跡の一つ「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。寺領は1,700石である。

安祥寺
安祥寺は、京都市山科区にある高野山真言宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は十一面観音。朝廷縁の定額寺の一つ。 寺内は非公開だが、2019年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として、本尊十一面観音像が初めて一般公開される。 嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により、恵運(入唐僧)によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。

江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていない。 現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。

瑞光院
瑞光院は京都市山科区安朱堂ノ後町にある臨済宗大徳寺派の仏教寺院。かっては上京区堀川頭今宮御旅所下ル瑞光院前町に存在した。現在の場所に移転したのは昭和37年。忠臣蔵ゆかりのある寺院でもある。

慶長16年(1611)に寺が建てられた。浅野長政が死んだ後、山崎家盛がその別荘を瑞光院とした。その後山崎家が断絶してしまった後は、浅野祖先のゆかりの寺であり、瑞光院の和尚と叔父、姪の間柄にあった浅野長矩(内匠頭)の妻、瑤泉院が浅野家の武運長久を祈願し寺を再興した。浅野内匠頭が有名な松の廊下の事件で切腹した後は、家臣が瑞光院へ来て、浅野内匠頭の衣冠を境内に埋め、供養塔を作り主人の冥福を祈ったとされる。浅野内匠頭の家臣であった大石内蔵助良雄など義士たちの切腹の際は、瑞光院の僧が江戸へ行き、義士の遺書と遺髪を集めて、院へ戻り碑を建てたとされる。 昭和37年に現在の場所に移転した。

山科本願寺
山科本願寺は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。 周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。 現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。

文明10年(1478年)から造営され、約6年間で建設されたと言われている。山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点で、当時は山城宇治郡に属する。この地域は東海道から宇治街道へ抜ける分岐点、交通の要所であった。 天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。寺院が城に変化できたのは加賀より城造り人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。山科本願寺の構造は「輪郭式」あるいは「回字式」と言われる近代城郭の縄張であり、この周辺、この時代の戦国大名ならびに国人の居城は山城であるのに対して、山科本願寺は平城で1世紀前に近代城郭の要素を含んでおり、『中世城郭辞典』には「城郭史上、特筆すべき城郭跡といえる」と解説されている。

双林院
双林院は、京都市山科区にある天台宗の寺院。通称山科聖天。山号は護法山。本尊は秘仏の大聖歓喜天。毘沙門堂門跡の塔頭。 寛文5年(1665年)、天台宗の僧である公海により、毘沙門堂の復興に伴って創建された。毘沙門堂に祀られていた近江国西明寺より勧請された「光坊の弥陀」との別称がある阿弥陀如来像を譲り受けて本尊とした。

1868年(明治元年)に天台座主であった公遵法親王の念持仏・大聖歓喜天を祀る聖天堂が新たに建立される。それに伴い、双林院の本尊を阿弥陀如来から大聖歓喜天に変更した。

大石神社
大石神社は、赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る神社。江戸時代には江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、1868年(明治元年)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。 兵庫県赤穂市にある。赤穂神社と大石神社の合祀により赤穂大石神社として創祀。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。赤穂神社祭神の旧赤穂藩主浅野家・森家祖霊と大石神社祭神の大石良雄ら赤穂浪士47人および中途で自害した萱野重実を主祭神とする。主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因み、「大願成就」の神徳で信仰を集める。

赤穂事件以降、赤穂浪士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていた。1900年(明治33年)、あらためて「大石神社」として神社を創建することが政府から許可され、1910年(明治43年)4月に起工、1912年(大正元年)に社殿が竣工した。1928年(昭和3年)、無格社から県社に昇格された。第二次世界大戦後、城内の神社に祀られていた赤穂藩主・浅野氏の3代(長直・長友・長矩)および、城外の赤穂神社に祀られていた、浅野家の後に赤穂藩主となった森家の遠祖の七武将(森可成、森可隆、森長可、森成利(蘭丸)、森長隆(坊丸)、森長氏(力丸)、森忠政)を合祀した。

勧修寺
勧修寺は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。

随心院
随心院は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正が開山。本尊は如意輪観世音菩薩。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。小野小町と少将の淡い恋物語を綴った。 随心院は、そもそもは仁海(954年 – 1046年)が創建した牛皮山曼荼羅寺の塔頭であった。

仁海は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。

元慶寺
元慶寺は、京都府京都市山科区にある天台宗の寺院。西国三十三所霊場の番外札所である。山号は華頂山。本尊は薬師瑠璃光如来。 本尊真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか。ご詠歌:待てといわばいとも畏(かしこ)し花山に しばしと啼(な)かん鳥の音もがな

貞観10年(868年)に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により、定額寺として建立される。開山は六歌仙の一人である僧正遍昭。元慶元年(877年)に勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。 寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。花山法皇ゆかりの寺ということで当寺は西国三十三所番外札所となっている。 応仁の乱の戦火によって伽藍が消失し、以来境内は小さくなってしまった。現在の建物は安永年間(1772年 – 1781年)の再建と伝わる。

琵琶湖疏水
琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。 琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。

疏水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の1つである。

本圀寺
本圀寺は、京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり六条門流の祖山である。山号は大光山。 本寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。貞和元年(1345年)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して山科に移転した。68世久村日鑒貫首の発案で、金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となったが、104世伊藤日慈貫首晋山後、旧に復されている。

旧塔頭は現在も六条の旧地に十六院残っている(松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院)。 六条の旧地にある本圀寺墓地は現在、旧地にある塔頭寺院が管理している。 最近、旧末寺寺院、縁故四法縁(莚師法縁、奠師法縁、親師法縁、達師法縁)の中に六条に本圀寺を復興させようとする動きがある。復興の暁には山科は奥之院となる。 現住は104世伊藤日慈貫首(札幌市本龍寺より晋山、莚師法縁)。

岩屋神社
岩屋神社は、京都府京都市山科区にある神社である。近代社格制度では郷社。式内名神大社「山城国宇治郡 山科神社二座」に擬せられた時もあったが、現在は否定されている。 天忍穂耳命と栲幡千々姫命、および両神の子の饒速日命を祀る。

本殿背後の山腹に奥之院あるいは岩屋殿と呼ばれる陰陽2つの巨巌があり、これを磐座として祀ったのが当社の起源である。社伝では、仁徳天皇31年の創建と伝えられる。寛平年間、陰巌に栲幡千千姫命、陽巌に天忍穂耳命を祀り、岩前の小祠に饒速日命が祀られた。これは、物部氏系の大宅氏が、山科を開拓するに当たり祖神を祀ったものである。治承年間(1177年 – 1180年)に園城寺僧徒によって社殿が焼かれ、旧記も失われた。弘長2年(1262年)に再建された。中世には「東西上の岩屋三社」と呼ばれた。東岩屋が岩屋神社、西岩屋が山科神社であるが、上岩屋が何に当たるかは不明である。

歓喜光寺
歓喜光寺は、京都府京都市山科区にある時宗六条派本寺の寺院。山号は紫苔山。院号は河原院。本尊は阿弥陀如来。開山は聖戒。六条道場とも呼ばれる。 歓喜光寺の開山である聖戒は宗祖一遍の高弟で、一遍の諸国巡礼に随伴した僧であり、一遍の実弟ともいわれている。『弥阿上人行状』等によると(「弥阿上人」は聖戒のこと)、歓喜光寺は正応4年(1291年)、綴喜郡八幡(現・京都府八幡市)に善導寺として創建されたという。石清水八幡宮に近いこの地が寺地として選ばれたのは、八幡神の本地仏を阿弥陀如来とする信仰による。一遍が八幡神に帰依し、弘安9年(1286年)石清水八幡宮に参詣したことは『一遍上人絵伝』巻九にも見える。

それから数年後の正安元年(1299年)、寺は関白九条忠教の庇護のもと、六条東洞院(現・京都市下京区)にある左大臣源融の旧跡(六条河原院)へ寺地を移すと共に、すでに長保5年(1003年)に菅原是善(菅原道真の父)の旧邸菅原院(現・京都市上京区堀松町)跡地からこの地に移転していた歓喜寺を合併し、鎮守社の天満宮(後の錦天満宮)もそのまま鎮守社とした。この際、寺号を歓喜光寺に改め、所在地から「六条道場」とも称するようになった。

折上稲荷神社
折上稲荷神社とは、京都府京都市山科区にある神社。旧社格は村社。 創建は711年(和同4年)、西野山の三の峰に稲荷神が降りられたのと同時に、神社境内にある稲荷塚にも降りられたとされており、稲荷山の奥にあることから伏見稲荷大社の奥宮として創建されたいわれている。幕末に孝明天皇が即位される際、側に仕える女官の多くが病に倒れたことで天皇即位が危ぶまれた。そこで神社に祈祷が命じられて祈願したことで女官は奇跡的に回復し事なきを得て、孝明天皇は女官たちが今後も元気で働いてくれるようと神社に「長命箸」を奉納された。

これ以降、折上稲荷神社は「働く女性の守り神」として商売繁盛祈願など女性の崇尊を集め、J・P・モルガンの甥と結婚した芸妓であるモルガンお雪も深く信仰していたとされている。

中臣神社
中臣神社は西野山中臣町にある。正式には二之宮と称されている。山科神社は、一之宮といわれた。現在は、山科神社の御旅所になっている。

日向大神宮
日向大神宮は京都市山科区の三条通沿いの神明山にある神社。式内社(小)で、旧社格は村社。「京の伊勢」とも称される。 社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。

応仁の乱で社殿等を焼失し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。 近代社格制度では村社となる。戦後、村社を始めとする京都市内の一部の民社と共に神社本庁ではなく神社本教に包括されるようになった。

諸羽神社
諸羽神社は、京都府京都市山科区四ノ宮にある神社である。旧社格は郷社。通称は四の宮。 かつての宇治郡四宮村の西端の山中に鎮座している。諸羽神社は山城国宇治郡山科郷の「第四の宮」であり、諸羽神社が四宮村という地名の由来であるとする説がある。この地域は古くから京都への出入り口にあたる要衝の地で、人康親王の史跡が多い現在の京阪京津線四宮駅に近い。諸羽神社境内にある琵琶石も人康親王由来と伝わる。四ノ宮、安朱、竹鼻の3地区の産土神である。

清和天皇の治世の貞観4年(862年)に社殿が造営されたとされるが、詳細は不明である。かつては兩羽大明神と称したが、やがて「兩羽」は「諸羽」に改められた。社殿は応仁の乱(1467年-1477年)で焼失した。応仁の乱後に再建された社殿は、明和元年(1764年)に火災に遭い、この際に古記録の大半が焼失している。明和2年(1765年)に復興したとされるが、天明年間(1781年-1789年)にも火災に遭った。現在の社殿は19世紀中頃につくられた。 1873年(明治6年)8月には村社に列せられ、1883年(明治16年)1月には郷社に昇格した。

山科神社
山科神社は、京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。 社伝では、寛平9年(897年)の宇多天皇の勅命による創建という。当地の豪族の宮道氏の祖神であったとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「山科神社二座 並名神大 月次新嘗」として、2座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また『扶桑略記』では、延長6年(928年)に「山階大神」の神階が正四位下に昇叙されたと見える。 江戸時代には「西岩屋大明神」や「一の宮」と称されていた。 明治維新後、社名を現在の「山科神社」に改称。また明治6年(1873年)には近代社格制度において村社に列している。

名神起工の地
名神起工の地は、京都府京都市山科区の京都市立小野小学校前にある石碑。 1958年(昭和33年)10月19日、日本初の高速道路である名神高速道路の起工式が行われた場所である。 原碑は1958年に中央分離帯に設置されたが、起工50周年及び栗東IC – 尼崎IC間開通45周年に当たる2008年7月16日に、地域住民や一般の人も見る事が出来るように、南側(下り線側)の側道沿いに複製の石碑が設置された。碑文には、日本道路公団の初代総裁である岸道三がこの地に鍬入れした旨が記されている。上り線の桂川パーキングエリアにも、「この先の山科付近が起工地である」ことを記した看板が設置されている。

名神高速道路は滋賀県大津市大谷付近から京都府京都市伏見区付近までは東海道本線の旧線に沿って建設された。当地は1880年から1921年まで旧山科駅があった場所で、『旧東海道線山科駅跡』の碑も複製碑の隣に建てられている。 高速道路本線上の石碑付近には、日本道路公団時代の巨大な門型の広域情報板があり、内側には日本道路公団時代末期に制定された略称である「JH」、外側には「名神」の文字が記されている。

文化伝統

京焼(清水焼)
1961年「清水焼団地協同組合」が設立され、1968年ごろより川田梅ヶ谷に造られた清水焼団地に、東山区の清水寺・泉涌寺付近から多くの業者が移転した。1975年7月から開催された「陶器まつり」は五条坂で行われる陶器まつりと並ぶ夏の風物詩として知られたが、2010年代に取りやめとなり、陶器市は従前から秋に開催されている「楽陶祭」の中で『清水焼の郷まつり』として開催されている。

自然空間

山科盆地
山科盆地は、京都市山科区および伏見区醍醐地区を主範囲とする盆地。京都盆地をすぐ西に持ち、双子の盆地のような関係にある。盆地の東側の一部(追分、髭茶屋追分以東)は滋賀県大津市に属する。 東は音羽山などに、北は比叡山に、西は京都東山に接し、南は山科川を軸にして宇治市六地蔵方面へ開けている。

近年は、各方面の山のふちにいたるまで住宅開発が進んだ。東海道新幹線や名神高速道路はこの盆地を東西に貫通して走る。山科から南の醍醐・石田方面へは、京都市営地下鉄東西線と京都外環状線が南北軸となっている。 京都盆地とは隔たれた地形の為、生駒山からの在阪局の電波が全般的に届きにくく、山科区内では京都山科テレビ中継局でカバーされている。

音羽山
音羽山は、京都府京都市山科区と滋賀県大津市の境界に所在する山で、山科区の最高峰である。標高は593.2 m。山頂東側、南北に連なる稜線が府県境を形成しており、山頂付近は京都府に属する。三等三角点も山科区に所在する。 山科盆地の東、琵琶湖の南西に位置し、北には逢坂山、南には醍醐の山々が連なる。山城国と近江国の国境を形成していたことから、逢坂山との山間は古くより交通の要所となっていた。音羽山の支峰である牛尾山には法厳寺(牛尾観音)が創建され、同寺に対する信仰が広まるにつれ、音羽山も名所として知られていくこととなった。紀貫之、在原元方など多くの歌人が音羽山を歌枕として詠んでいる。また、京都に三ヶ所所在したとされる「音羽の滝」のうち、「牛尾の音羽」については音羽山の西腹を流れる山科音羽川の滝と比定されている。

「雍州府志」によると、江戸時代頃には小山とも呼ばれていた。「点の記」でも三角点の点名を「小山」としている。 現代では東海自然歩道が山中を通過しており、また山頂からの展望も良いことから、一年を通じてハイカーが多い。登山道としては、大津市側の石山寺から東海自然歩道を経て登る、山科盆地側から牛尾観音を経て登る、逢坂山側から東海自然歩道を経て登る、などがある。