山科・醍醐エリア、日本京都観光ルート

山科エリア、山科疏水周辺で四季折々の景色を楽しみ、 「忠臣蔵」大石内蔵助ゆかりの地を訪ねる。京都市の東側、九条山を越えた先にある山科は三方を山に囲まれた小さな盆地で、南北に細長い形をしています。山科駅の北側にある山科疏水沿いには、山の緑や水辺の自然を眺めながら歩くことができる散歩道が整備されています。そこからほど近い、山手に立つ毘沙門堂門跡はしだれ桜と紅葉、双林院は紅葉の美しさで名高く、春や秋は疏水散策と合わせて多くの人で賑わいます。また山科は「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が仇討ち前に隠棲したとされる地。内蔵助の閑居跡といわれる岩屋寺や内蔵助を祀った大石神社があるなど、歴史ファンも訪れます。

醍醐エリア、梅に桜、杜若など季節の花を愛で、小野小町や後醍醐天皇、豊臣秀吉ら歴史人に想いを馳せる。JR京都駅から一駅の山科駅で、地下鉄東西線に乗り換えて約10分。醍醐駅を降りて住宅街の中を東に歩いていった先、旧奈良街道沿いに見えてくる総門が世界遺産に指定されている醍醐寺です。豊臣秀吉が豪華絢爛な花見を行ったことでも知られ、現在も春になると枝垂れ桜、染井吉野、山桜、八重桜などが順々に咲き誇り、花見客で賑わいます。醍醐寺から旧奈良街道をさらに北へ行くと梅の花で有名な小野小町ゆかりの隨心院。ここから西へ歩き山科川を渡ると、杜若や睡蓮で名高い醍醐天皇勅願の勧修寺があります。季節の花を愛で、歴史人に想いを馳せながら散策ができます。

山科区は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。 本項ではかつて同一地域に存在した宇治郡山科町、同町の町制前の名称である山科村についても述べる。 東山により京都盆地から、音羽山や醍醐山(笠取山)などにより近江盆地からは隔てられている。昔から京都と東国とを結ぶ交通の要衝であった。

かつては滋賀県との境の農村だったが、現在は京都市街地や大阪のベッドタウンとなり、他地域からの移入者も多い。 東側は滋賀県大津市との県境に接しており、大津との結び付きも強い。また、南側は伏見区醍醐地区と接しており、山科区と同一の生活圏や経済圏を形成している。山科区と醍醐地区との繋がりは、伏見区中心部と醍醐地区の繋がりよりも深いと言われる。

山科駅は、京都府京都市山科区安朱北屋敷町および安朱南屋敷町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅である。 京都市交通局の駅には京都市営地下鉄東西線が乗り入れており駅番号はT07となっている。 JRの駅はICOCA、地下鉄の駅はPiTaPa(スルッとKANSAI協議会)およびスルッとKANSAI対応カード・トラフィカ京カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能なカードにも対応している。 南北を両駅に挟まれる位置には、京阪電気鉄道(京阪)京津線(大津線)の京阪山科駅が所在している。

JR西日本の駅には東海道本線と湖西線が乗り入れており、東海道本線を所属線としている。湖西線は路線としては当駅が起点であり0キロポストもあるが、運転系統上は全列車が東海道本線経由で京都駅あるいはそれ以西へ乗り入れている。アーバンネットワークエリアに属しており、東海道本線は「琵琶湖線」の路線愛称設定区間に含まれている。また特定都区市内制度における「京都市内」エリアに属する。駅番号は東海道本線(琵琶湖線)がJR-A30、湖西線がJR-B30。

観光スポット

醍醐寺
醍醐寺は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂は、西国三十三所観音霊場第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。 平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。 その後、室町時代の応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていた。しかし、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなどし、伽藍が復興され始め、慶長3年(1598年)に「醍醐の花見」が盛大に行われた。

続いて、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長5年(1600年)には秀吉の時代から行われていた金堂の移築工事が完成、慶長10年(1605年)には西大門の再建、慶長11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が行われた。 明治時代の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりするなかで、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けている。

1935年(昭和10年)、霊宝館が開館した。1939年(昭和14年)8月、上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵、西国三十三所第11番札所の准胝堂が焼失するが、1968年(昭和43年)5月に准胝堂が再建された。 1995年(平成7年)1月、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の影響で、五重塔、金堂などの漆喰が剥がれた。1997年(平成9年)9月、朱雀天皇の勅願で下醍醐に法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建され、後に焼失した堂を真如三昧耶堂として建立した。 2008年(平成20年)8月24日、落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼する。現在は焼失した准胝堂の西国三十三所札所が下醍醐の観音堂に仮に移されている。

下醍醐
本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失と再建を繰り返しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。

上醍醐
長らく西国三十三所第11番札所が存在し、西国一険しい札所として知られた。上り口にはかつて女人結界があったことから女人堂が置かれ、そこから険しい山間に入る。平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿、准胝堂跡、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ている他、醍醐山山頂(標高450m)には、如意輪堂と開山堂が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。

京都市東部文化会館
東部地域における文化活動の拠点として、音楽、演劇、舞踊等の公演その他の文化的な催物及び講習、研修、会議等に利用できる施設で、東部文化会館は、京都市で最初の地域文化会館として昭和62年4月に開館。

京都市日野野外活動施設
学校をはじめ、学校教育の発展に関わるさまざまな市民の団体が、豊かな自然の中でスポーツ活動や飯ごう炊さん等の野外活動を行うための施設。

名所・旧跡

三宝院
国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭で、その庭の中心には室町時代より歴代権力者によって引き継がれてきた「天下の名石・藤戸石」が秀吉によって運びこまれた。現在では阿弥陀三尊を表わす「三尊組」として祀られている。三宝院の大玄関前にある樹齢160年以上の「太閣しだれ桜」は、奥村土牛画伯の代表作「醍醐」のモデルになった桜。その南東には、平成16(2004)年、世界で初めて開花に成功したクローン桜が植えられている。

隨心院
回廊が結ぶ隨心院の建物に大小の坪庭が配され、苔、皐月、石楠花が彩りを添える。滝の石組の風情も趣深い。小野小町ゆかりの地である。

勧修寺
勧修寺書院の前庭にあるヒノキ科のハイビャクシン。地面を水平状にほふく(葡萄)する性質をもち、つねに葡枝がよく発達して、その基部では幹状に肥大しているのがみられる。勧修寺の庭園は、氷室池を中心とした池泉舟遊式庭園。蓮、菖蒲の花で彩られる池、躑躅や楓が折々に美を競う境内。勧修寺形燈籠、貝形手水鉢も有名。京都市指定「名勝」庭園。 勧修寺観光農園、6戸の農家が共同経営している。8~9月のブドウ狩り、9~10月のイモ掘りと、春から秋にかけて、新鮮な味覚が楽しめる。春はタケノコ直売。

歓喜光寺
歓喜光寺は、六条道場「紫苔山河原院」と号して六条派の本山である。もとは府下八幡にあって善導寺と称し、一遍の肉親と言われる聖戒が創建。正安元年(1299年)に九条関白忠教の庇護を得て、京都六条河原の源融公邸跡に移り『六条道場 河原院 歓喜光寺』とした。また、付近にあった菅原道真の社を鎮守として菅公像を境内に安置する。その後、高辻烏丸・四条京極と移転したが明治の神仏分離によって、境内の社は独立し現在の錦天満宮となった。明治40年東山五条にあった法国寺と合併して自基をここに移した。なお本堂は「法国寺(府文化財)」のもので、豊臣秀頼の母・淀君の二世安楽の為に建立されたと伝えられる。

金地院
金地院の方丈前庭は「鶴亀の庭」として有名で小堀遠州の作。禅寺としては珍しく豪快で華やか。庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿を表現。前面の白砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表し、鶴島と亀島の中間に郡仙島を象る石を点在せしめ、その奥の正面崖地には蓬莱連山を表わす三尊石組を配し、来訪者の萬世を寿ぐ祝儀の庭として非常に格式の整った蓬莱式枯山水庭園である。

清水焼団地
東山・五条坂周辺の都市化で、1962年(昭和37)に集団移住、用地総面積8.25ヘクタールの新産業団地を結成した焼き物の町。窯元や問屋が軒を連ね、清水焼の伝統を守っている。工房見学や陶芸教室などを開き、即売もしている。毎年10月の第3週末に陶器まつりを開催し、大変なにぎわいを見せている。京阪バス川田から200メートル。

天智天皇 山科陵(御廟野古墳)
中臣鎌足と大化改新を成し遂げた人物として有名な天智天皇(中大兄皇子)の古墳。古墳時代終末期のもので、正八角形の形をしている。一説によれば、天智天皇は山科の森へ狩猟に出かけてから消息不明になり、沓が発見された場所に墓が築かれたという。山々の緑に覆われた一帯は静かで神聖な雰囲気。参拝所までは、一本道が整備されている。入り口の左手にある日時計は、天智天皇が日本で最初の水時計を作ったと伝わることから作られた。

大宅廃寺跡
古代寺跡。創建は7世紀後半から8世紀の白鳳期。藤原鎌足の山階精舎説、豪族大宅氏の氏寺説がある。1958年(昭和33)名神高速道路建設で発掘調査し4棟の遺構を検出。講堂・金堂・中門・南門と推定。全焼後、平安後期に小堂を再建したが今はなし。

南殿旧跡光照寺
蓮如上人の隠居所として山科本願寺の東方に創設。侵入者を防ぐため,堀や土塁で囲まれていたが,山科本願寺とともに焼亡。現在は南殿跡が国の史跡に指定されている。

小栗栖街道
伏見区桃山町山ノ下(六地蔵北部)から山科区勧修寺までの3キロ。沿道には1582年(天正10)近江坂本城へ敗走の途中、明智光秀が刺されて自刃したという「明智薮」や「明智光秀の塚」がある。

陰巌・陽巌
岩屋神社の奥之院。本殿背後の山腹にある陰陽の両巨岩は、定まった参拝施設がなかった時代の磐座信仰の姿を今に伝えている。近年氏子崇敬者の尽力によって参道等も整備され、数十基の鳥居が奉納されている。

方丈の庵跡
方丈石は、この下の巨石と言われている。ここは、鴨長明が方一丈(3メートル余り)の小庵を営み、「方丈記」を著わした場所と伝えられている。下鴨神社摂社の禰宜の二男の長明は、社司を志す傍ら琵琶や和歌を学んだ。彼は宮廷歌人として活躍したが、社司の継承に失意し元久元年(1204)出家し、洛北大原に隠棲して4年を過ごし、建暦元年(1211)日野に移り草庵を結び、鎌倉文化発展の序曲と言われる「方丈記」を著わし、建保4年(1216)6月8日没した。

山科疏水
明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水。明治維新後に活気を失った京都の産業を振興し、賑わいを取り戻そうと、第3代京都府知事の北垣国道によって計画されたもので、滋賀県大津市からトンネルや水路を開削して京都市に水をひくという一大プロジェクトにより完成した。その琵琶湖の水が疏水を通って、京都側に流れ出てくるのが、山科区の四ノ宮である。山科エリアの疏水は「山科疏水」と呼ばれ、遊歩道が整備された散策コースとなっている。トンネルの出入り口に掲げられた、明治の政治家などの言葉が記された「扁額」や、日本最初の鉄筋コンクリートの橋など、山科の歴史を感じながら、気持ちのいい水辺の散歩が楽しめる。

醍醐水
醍醐寺の鎮守清滝宮(上醍醐)の拝殿傍らにある井水。開祖聖宝理源大師が真言布教で来山のとき、白髪の‘横尾明神’が現われ、この水を飲み「あぁ醍醐味なり」と嘆声を発したのを見たと伝える。寺名もそれにちなむ。同寺の閼伽水である。

美術館・博物館

醍醐寺霊宝館
国宝や重文だけでおよそ7万5千点、未指定の文化財を含めると、約15万点余りに及ぶ寺宝を収蔵。彫刻、絵画、工芸、古文書など、日本の仏教史や美術史上貴重な史料が収蔵されており、春と秋にはテーマを決めて特別展を行っている。

清水焼の郷会館
清水焼の郷会館では、京焼・清水焼の源流となった野々村仁清や尾形幹山などの名工が育んだ京焼・清水焼の輝かしい伝統を受け継ぎながら、常に新しいかたち、新しい感覚を息吹かせた陶芸作家、窯元などの手作りの作品を展示している。

清水焼団地内では、「手びねり」や「絵付け」など各種体験ができ、陶芸家が親切に指導してくれる。(予約が必要) また、毎年10月第3週金・土・日の3日間、清水焼団地一帯で、年に一度の大陶器市「清水焼の郷まつり」(2010年より夏の陶器まつりがリニューアル)を開催しており、京焼・清水焼を中心として産地ならではのサービスと各種イベントが展開され人気を呼んでいる。

京の田舎民具資料館
音羽山のふもとにある。児童・生徒の学習用を目的に、京の田舎で使われた仕事や暮らしの道具千数百点を展示。稲作を主とした農機具や庶民の生活用具類に日本人の暮らしの原点を見る思い。

一燈園資料館「香倉院」
一燈園生活を創始した西田天香(1872~1968)の遺品の他に、ゆかりのあった尾崎放哉、河井寛次郎、棟方志功、倉田百三などの資料、コルベ神父より贈られたマリア像、ガンジーゆかりの品等、収蔵・展示している。資料館前は琵琶湖疏水が流れ、春は桜、秋は紅葉が美しく、四季を通じての散策が楽しめる。

行事・祭典

阿含の星まつり
五大力尊仁王会
法界寺裸踊り
はねず踊り
義挙記念祭
折上稲荷祭
奉射祭
例大祭<日向大神宮>
豊太閤花見行列
義士会法要<岩屋寺>
山科毘沙門堂観桜会
神幸祭
醍醐寺万灯会