右京区,京都市,近畿地方,日本

右京区は、京都市を構成する11区の内の一つ。京都府京都市西北部に位置する。 「右京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て右側の意。天皇は南面して高御座に座っていたので右は西になる。そのため北を上にした現代の地図上では左にありながら右京と呼ばれる。 1931年嵯峨町と梅津村・京極村など9村が京都市に編入されたのに伴い設立。市内西北部に位置し、京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。

区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京の中心部へ運ばれた。

区北部の京北は全域が丹波高原に当たる。旧京北町の町役場が置かれた周山と宇津が主な盆地だが、その他は山地で、この盆地をつなぐように桂川が流れる。 区南部は、北方の山岳部を除いては桂川に沿っており、ほぼ平坦である。 京北は編入前から右京区と周山街道(国道162号)や桂川によって結ばれていた。

歴史
現在の右京区がある地域の歴史は古く、かつてこの地には山背(山城)国府が置かれていたともいわれる。渡来人の秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。

戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中で嵐山の豪商角倉了以が徳川幕府と結びつき、保津川(桂川)ほか各地の河川の開削を行った。このためか角倉家は大いに発展し、東南アジアにまで進出するに至る。鎖国以後も桂川水運の管理を任され、現在の南丹市世木より下流の桂川の重要な港には角倉役所が置かれた。桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。

右京区京北地区の歴史としては、平安京造営の際に木材を献上した山国郷が歴史上最初に現れる。これが基となって朝廷に縁を持ち、南北朝時代には光厳天皇が山国郷に一寺常照皇寺を開きこの地に葬られた。戦国時代には土豪宇津氏が当地に割拠したが、明智光秀の攻撃を受けて滅んだ。この地に周山城が築かれたという。

江戸時代には園部藩、篠山藩が支配したが、山国郷は禁裏御料となった。

明治維新の際には時代祭行列で知られる山国隊が当地の農民により編成され官軍に参加し活躍した。

1931年4月1日 – 葛野郡嵯峨町、太秦村、花園村、西院村、梅津村、京極村、梅ヶ畑村、松尾村、桂村、川岡村が京都市に編入、右京区が誕生。
1950年12月1日 – 乙訓郡大枝村を編入。
1959年11月1日 – 乙訓郡大原野村を編入。
1976年10月1日 – 右京区から西京区が分区(松尾、桂、川岡、大枝、大原野地区は西京区へ)。
2005年4月1日 – 北桑田郡京北町を編入。

メインエリア

花園
花園は、京都市右京区の地名である。 地名の由来は、法金剛院である。法金剛院は、平安時代、右大臣、清原夏野が建立した山荘をその没後に寺としたものである。夏野が山荘近辺に珍奇な草花を植えたことから、花園と呼ばれるようになったとされる。また、鳥羽天皇の中宮、待賢門院が法金剛院に極楽浄土を再現する庭園を造立し、栄華を極めた。現在でも、法金剛院は「蓮の寺」として知られている。

宕陰
宕陰は、京都府京都市右京区の地名。嵯峨越畑と嵯峨樒原のふたつの大字で構成される。美しい棚田や茅葺き民家などで知られ、特に越畑は「京都の信州」に例えられることがある。京都市の元学区では「宕陰」全域にあたる。住民基本台帳における人口は2013年(平成25年)7月時点で229人であり、面積は8.082 km2である。

愛宕山の西麓に位置し、周りを山林に囲まれていることから、一日の寒暖の差が大きい気候が特徴である。冬期には多量の降雪があり、水田も含めて一面の銀世界となる。越畑・樒原それぞれに美しい棚田が広がっており、枚数は越畑のみで約800枚である。「日本の棚田百選」には選出されていないが、「越畑・樒原」として「にほんの里100選」に選出されている。万灯山と呼ばれる対面の丘の上から棚田を眺めることができ、総体が長方形に見える越畑の棚田と総体が三角形に見える樒原の棚田の違いを確認できる。樒原の棚田はその形から「鎧田」と呼ばれ、四所神社の社の森はその形から「兜の森」と呼ばれる。

越畑集落の氏神として八坂神社があり、スサノオノミコトを祭神として鎌倉時代に創建された。樒原集落の氏神として四所神社があり、愛宕神社の奥宮を勧請して戦国時代末期の1552年に創建された。越畑には平安時代中期に開山した阿弥陀寺があり、地蔵盆には多くの住民が集まる。樒原には京都市指定有形文化財の般若寺があり、平安時代に作られた十一面観音立像や木造薬師如来坐像などが安置されている。樒原には稲荷大社もあり、白雪・末廣・松竹の三稲荷大明神が祭られている。樒原の最南部には愛宕神社一の鳥居があり、赤い鳥居が愛宕山登山道の目印となっている。

越畑には江戸時代前期に建てられた河原家住宅があり、庭のイチョウは2000年(平成12年)時点で樹齢200年以上と伝えられている。藤原鎌足の子孫が河原に改姓したことに始まり、16代目の河原源之充が当地に移り住んだ。主屋は明暦3年(1657年)、長屋門は元禄9年(1696年)に築造されており、建築年代が確定する民家としては京都市最古である。上層農民の暮らしを現代に伝える建築物として、1989年(平成元年)に京都市指定有形文化財となった。

水尾
トロッコ列車や保津川下りで有名な保津峡から北へ約4キロ。愛宕山の麓へと分け入ったところに水尾地域はあります。豊かな自然に恵まれ、今も昔の面影を残しながら伝統を守り続けています。

水尾は、昔は山城と丹波の両国を結ぶ要所に当り、早くから開けていました。東の八瀬・大原に対して、西の清浄幽すい境として、大宮人にもよく知られていました。

また、水尾の地をこよなく愛し、後の世に「水尾天皇」とも呼ばれた「第56代清和天皇」(850年~880年)ゆかりの地としても知られています。 文徳天皇を父に持つ清和天皇は、清和源氏の祖とされるほか、出家後に修行のために、山城、大和、摂津などの寺院をまわり、帰路、水尾山寺に立ち寄った際にこの地の景観を気に入り、この水尾を終焉(しゅうえん)の地と定めたと言い伝えられています。

水尾は果実が豊富で、特に「柚子(ゆず)の里」として知られています。12月ごろには各家の軒先で、柚子が箱にあふれんばかりに収穫されます。香り豊かな柚子茶、煮柚子、柚子味噌など、近くの加工場で地域の人たちの手によって作られた加工品が店先にたくさん並んでいます。

太秦
太秦は、京都市右京区の地名。 京都市右京区梅津以北から京都市北区に挟まれた住宅地が、現在の太秦の範囲である。木嶋坐天照御魂神社などの神社、京都最古の寺である広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳が良く知られている。

広隆寺は秦氏の氏寺であり、国宝の木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)を安置した京都最古の寺である。『日本書紀』推古11年(603年)11月条には、聖徳太子から秦河勝が仏像を賜り、蜂岡寺(はちおかでら、現在の広隆寺)を建立したとある。『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』などは秦河勝が聖徳太子に仕えて活躍したとしている。

龍安寺
龍安寺は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の境外塔頭寺院。妙心寺との関係は深い。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総大将でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘と寺院・徳大寺を建立した。この山荘と徳大寺を細川勝元が譲り受けて禅寺とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

御室
御室は、京都府京都市右京区にある一地名。 宇多天皇(当時期は法皇位)の創建にして真言宗御室派の総本山、門跡寺院でもあるところの、仁和寺の雅称。 加えて、仁和寺一帯を指す地名である。

御室の名の由緒は、醍醐天皇の延喜4年(904年)、宇多法皇が仁和寺に「御室」を造営し、起居する御所としたことから、その建物が「御室御所」と呼ばれ、やがては仁和寺の別称となったものとされている。さらに、仁和寺の住持である門跡の称号としても用いられた。それが仁和寺一帯の地名として定着したものである。 ただし、御室が仁和寺の別称として定着したのは院政期であり、10世紀から11世紀には他の有力寺院でも天皇の親族など高貴な出自(貴種)を持つ住持は「御室」と呼ばれていた。例えば、宇多法皇の孫でかつ直弟子でもあった寛朝を別当に迎えた東大寺では寛朝を「御室」と尊称し、続いて別当になった花山天皇の2人の皇子(深観・覚源)も同様に尊称され、更に深観の後任で覚源の前任者であった有慶も参議藤原有国の子ながら寛朝・深観の後継者として特に「御室」の尊称で呼ばれていた例が知られている。

また、この地には、花園法皇の離宮があり、後に離宮は、関山慧玄を迎えて禅刹として改められ、妙心寺となった。妙心寺の宗門校として、花園中学校・高等学校、花園大学が、この地に開設されている。西部には古墳のある双ヶ丘がそびえている。

鳴滝
鳴滝は、京都市右京区の地名。 地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による。村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に集合させた。すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになった、というものである。 毎年、12月9日・10日の両日は、鳴滝本町の、通称・大根焚寺として知られる了徳寺の大根焚き(報恩講)で賑わう。

鳴滝泉谷町の法蔵寺前には、尾形乾山の陶窯跡がある。乾山は、1689年(元禄2年)、御室に閑居を構え、習静堂と号した。その後、野々村仁清に陶芸を学び、1699年(同12年)、鳴滝村に開窯した。また、この窯が都の乾の方角にあるため、乾山と号したという。 シーボルトで有名な長崎の鳴滝は、第24代長崎奉行の牛込忠左衛門勝登が、この地にあやかって名付けたもの。

嵐山
嵐山は京都府京都市の観光地。国の史跡および名勝に指定されている。 本来地名としては西京区(桂川の右岸)を指し、左岸は右京区嵯峨であるが、観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋(とげつきょう)周辺全域を一まとめに嵐山と称することが多いため、ここでは渡月橋周辺全域としての嵐山を扱う。

嵐山は桜や紅葉の名所である。日本さくら名所100選並びに日本紅葉の名所100選に選定されている。京都市街の西に位置し、平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地となっている。嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴になっている。なお渡月橋をはさんで上流が大堰川(おおいがわ)、下流から桂川と呼称が変わる。JR山陰線の北側には嵯峨野と呼ばれる観光地が広がっている。

元来は寺社めぐりや紅葉などの景観が観光の主体であった。1980年代には渡月橋の北側を中心にタレントショップが急増し、修学旅行生など若い観光客で賑わう一方で、雰囲気が破壊されるとの批判もあった。バブル崩壊後はこうしたタレントショップは減少し、現在はほとんど存在しない。1990年代以降、小規模な博物館の開館が相次ぎ、2004年(平成16年)には温泉が掘削された(嵐山温泉)。

嵯峨野
嵯峨野は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。

嵯峨鳥居本
嵯峨鳥居本は、京都市右京区の地区名。 古くは「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の埋葬の地であった。現在の町並みは愛宕神社の鳥居前町として発展したもので、化野念仏寺を境に瓦屋根の町家風民家が並ぶ下地区と茅葺きの農家が多い上地区と二つの風景が共存する。

愛宕山
愛宕山は、京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山である。京都市街を取り巻く山の中で、比叡山と並びよく目立っており、信仰の山としても知られる。 山頂は京都市に所在するが、約1.5km西に市境があり、山体は亀岡市にまたがる。標高924m。三等三角点「愛宕」(890.06m)は山頂の北方約400mの地点に所在する。 京都盆地の西北にそびえ、京都盆地東北の比叡山と並び古くより信仰対象の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集め、全国各地にも広がっている(愛宕権現参照)。亀岡市側の登山口にも「元愛宕」と呼ばれる愛宕神社がある。

本能寺の変の直前に明智光秀が愛宕神社を参詣し愛宕百韻を詠んだことでも知られる。亀岡市から愛宕山への登山道は光秀が通ったことから「明智越え」と呼ばれている。 昭和初期には愛宕神社参詣の足として愛宕山鉄道が嵐山駅からふもとまでの鉄道と山上までのケーブルカーを敷設し、あわせてホテルや遊園地もある愛宕山遊園地が開かれ、観光客で賑わった。しかし世界恐慌や戦争の影響で客足が落ち、第二次世界大戦末期にはケーブルカーが不要不急線として廃線になり遊園地やホテルも閉鎖された。これらは戦後再開されることが無かった。ドライブウェイが整備され市街地に近い山として戦後観光客が増加して発展した比叡山や六甲山などとは対照的である。天気がよければ大阪市内の高層ビル上などからも山塊を確認することができる。

高雄
高雄は、京都府京都市右京区梅ヶ畑の地名である。正確には京都市右京区梅ヶ畑高雄町。 高尾とも記し、近隣の槙尾、栂尾とあわせて三尾と並び称される。大日本帝国海軍の軍艦の艦名として度々採用されたほか、台湾の高雄市の地名の由来にもなった。

栂尾
栂尾山高山寺の周辺を指す地名。単に「栂尾」という場合、多くはこの地名である。栂ノ尾とも表記される。 古くからの霊場であり、また畿内における茶栽培発祥の地。「紅葉の名所三尾」(高雄・槙尾・栂尾)のひとつ。

京北町
京北町は、2005年(平成17年)3月31日まで京都府北桑田郡に存在した町。現在の京都市右京区の一部であり、町名に京北を冠する区域にあたる。杉の良材の産地。 1955年(昭和30年)3月1日に北桑田郡南部の1町5村(周山町・細野村・宇津村・黒田村・山国村・弓削村)が合併して発足。町名は公募のなかから決められた。1957年(昭和32年)4月1日に町内の大字広河原が京都市左京区に編入される。2005年(平成17年)4月1日に、町全域が京都市右京区に編入したことで消滅した。

名所旧跡

妙心寺
妙心寺は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山。山号は正法山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。「妙心寺の算盤面(そろばんづら)」ともいう。

京都の禅寺は、五山十刹に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。

広隆寺
広隆寺は、京都市右京区太秦にある真言宗系単立の寺院。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、不定期開催となっている。

広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂にあたる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一つとして挙げている。

木嶋坐天照御魂神社
木嶋坐天照御魂神社は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。 通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。

『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。同帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載されるが、この社名は「木嶋(地名)に鎮座する天照御魂神の社」という意味であるため、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」を祀った神社とされる。神名帳では、山城国の木嶋社のほかにも大和国・摂津国・丹波国・播磨国・対馬国などに天照御魂神・天照神・天照玉神を祀る祠の存在が見られるが、これらは天照大神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられている。

蛇塚古墳
蛇塚古墳は、京都府京都市右京区太秦にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 京都府で最大規模の横穴式石室を有する前方後円墳であったが、墳丘封土は失われ、現在は露出した石室のみが残る。

京都盆地(山城盆地)の西部、嵯峨野台地の南縁に築造された古墳である。名称の「蛇塚」は、石室内に蛇が棲息していたことに由来するという。1920年(大正9年)頃までは墳丘の一部を残していたというが、現在までの宅地化によって墳丘封土のほぼ全てが失われている。1936年(昭和11年)に京都帝国大学考古学研究室による調査が実施されている。

梅宮大社
梅宮大社は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社で、旧社格は官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「梅宮神社」。神紋は「橘」。 京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つの橘氏の氏神として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。

現在地への遷座に関わった橘嘉智子は、嵯峨天皇(第52代)の皇后として仁明天皇(第54代)を出産し、外戚としての橘氏の中興に貢献した人物である。社伝では、橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子を授かったといい、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神として信仰される。また祭神の名から酒造の神としても信仰されており、酒にまつわる多くの神事が現在も行われている。そのほか、梅宮大社の例祭は「梅宮祭」として古くから知られ、特に平安時代当時には古雅な祭として有名であった。 現在の社殿のうち、本殿・拝殿・楼門・境内社若宮社・境内社護王社の5棟は江戸時代の造営であり、京都府登録文化財に登録されている。

長福寺
長福寺は、京都市右京区梅津にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は大梅山。本尊は阿弥陀如来。 縁起によれば、この寺は梅津の開発領主梅津氏出身の尼僧真理が仁安4年(1169年)に堂宇を建立したのに始まる。建久元年(1190年)、梅津上荘に「新御堂」が建立され、従来の寺は「本御堂」と呼ばれるようになった。当初は天台宗に属していたが、1339年(暦応2年)、梅津氏の帰依を得た月林道皎が入寺して臨済宗の寺院に改められ中興された。応仁の乱で焼失するが、山名宗全によって再興された。文禄元年には諸山に列せられている。近世には南禅寺末となり、寛政元年(1789年)の南禅寺末寺帳によると当時の長福寺は末寺8、寺家11を数えた。

仁和寺
仁和寺は、京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。 皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。

御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道「御室流」の家元でもある。 普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。 宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館のほか、「松林庵」を改修して高級宿坊としている。

了徳寺
了徳寺は、京都市右京区鳴滝にある真宗大谷派の寺。山号は法輪山。通称、大根焚寺。 毎年、12月9日10日の大根焚きの行事で知られる。その由縁は、鎌倉時代の建長4年(1252年)、親鸞が愛宕山中の月輪寺よりの帰途、鳴滝で説法をし、それに感銘を受けた里人が、他に何ももてなすものがないので、塩炊きの大根を馳走した。それに応えて、親鸞はすすきの穂を束にして筆代わりとし、「歸命盡十方無礙光如來」の十字名号を書いて、その礼とした。この故事に因んで行なわれる報恩講の通称が、大根焚きである。

天龍寺
天龍寺は、京都市右京区の嵯峨野にある臨済宗天龍寺派大本山。山号は霊亀山。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることからこの名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

法然寺
法然寺は、京都市右京区嵯峨天竜寺立石町にある、浄土宗の寺院。 法然上人二十五霊跡第19番札所(熊谷入道護持の御影)。 蓮生(熊谷直実)が関東に帰る時、法然の姿を拝したいと御影を懇願した。法然は自作の木像を与えた。蓮生は故郷の熊谷に帰り、熊谷寺(ゆうこくじ)を建立した。その後蓮生は京都に戻り、建久8年(1197年)5月、錦小路東洞院西の父貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

正安年間(1299年 – 1302年)に後伏見天皇が病気のとき、夢枕に法然が立ち、念仏をすれば病は平癒すると言ったので、そのとおりにすると、病気は治った。帝は当寺の法然像を見つけ、御所に召された。その時「極楽殿」の勅額を賜った。正親町天皇からは「熊谷山」の勅額も賜っている。その後天正19年(1591年)豊臣秀吉により、寺町仏光寺に移転。昭和36年(1961年)に現在地に移転した。

渡月橋
渡月橋は、京都府京都市の桂川(大堰川)に架かる橋。 渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。橋長155m、幅12.2m。車道は2車線で、両側に一段高くした歩道がある。観光名所であるとともに、桂川の両岸地域を結ぶ重要な交通路で、京都府道29号の一部となっている。また、南詰は京都八幡木津自転車道の起点となっている。

現在の橋は1934年(昭和9年)に完成した鉄骨鉄筋コンクリート桁橋である。景観との調和を図るため意匠は木製の旧橋を受け継いでおり、橋面は中央部が約1m高い弓なりの形状で、高欄も従来の橋と同じ木造角格子式が採用された。観光パンフレットなどにはこの橋が写り込んだ写真が多用されるほか、映画やテレビドラマの撮影で多用されていることもあり、観光地としての嵐山を象徴する建造物ともなっている。

小倉山
小倉山は京都市右京区にある標高296mの山。桂川の北岸に位置し、南岸の嵐山と相対する。雄蔵山や小椋山、隠椋山と称されることもある。 小倉山の西麓と南麓は桂川(保津川、大堰川とも)が流れ、東麓は嵯峨野、北東麓は古くから葬送の地として知られる化野(現・嵯峨鳥居本地区)である。紅葉の名所で、歌枕としても有名。鎌倉時代の歌人藤原定家が、厭離庵近くの小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされる。現在、常寂光寺や二尊院、厭離庵など時雨亭跡とされる小倉山荘推定地が残されている。また、小倉山の周辺には「小倉百人一首文芸苑」として公園内等に歌碑が設置されている(亀山公園内に49首、二尊院南側の長神の杜地区に19首など)。

北東麓には愛宕神社一の鳥居、化野念仏寺が、東麓には祇王寺、滝口寺、二尊院、清涼寺(嵯峨釈迦堂)、常寂光寺、落柿舎、野宮神社、天龍寺、大河内山荘など著名な名刹・史跡が数多くある。また、小倉山南端付近には亀山公園(京都府立嵐山公園)があり、展望台からは保津川が一望できる。

常寂光寺
常寂光寺は、京都府京都市嵯峨にある日蓮宗の寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれる。 平安時代に藤原定家の小倉山荘「時雨亭」があったと伝わる地である。

安土桃山時代末の文禄5年(1596年)に小笠原秀政の母で日野輝資の養女である延壽院が開基となり、日蓮宗大本山本圀寺第16世日禎が隠棲の地として当山を開いた。その常寂光土のような風情から常寂光寺の寺号が付けられたとされる。 歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以とその従兄弟の角倉栄可である。境内は第2世日韶(日野輝資の子)の時代に小早川秀秋らの助力を得て、整備が行われた。

二尊院
二尊院は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。山号は小倉山。寺号は華台寺。詳しくは小倉山二尊教院華台寺、二尊敎院蕐臺寺と称する。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。 総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。また、小倉あん発祥の地として伝わる。

平安時代初期の承和年間(834年 – 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった第3世湛空らにより再興され、天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場となったが、中でも浄土宗の勢力が強く、嵯峨門徒の拠点となった。また、湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師を務めている。

落柿舎
落柿舎は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。 去来は、貞享2-3年(1685年 – 1686年)ころに、嵯峨野にあったこの庵を入手した(なお、去来の当時の庵の正確な場所は不明である)。もともと豪商が建築したものである。

芭蕉は、1689年(元禄2年)以来3度にわたってこの庵を訪れた。とくに1691年(元禄4年)には4月18日から5月4日までと長く滞在し、『嵯峨日記』を著した。このほか、野沢凡兆とその妻・羽紅、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。 現在の庵は、1770年(明和7年)に俳人・井上重厚(嵯峨出身で、去来の親族でもある)により再建されたものである。この場所は弘源寺の跡であった。また明治初年にも再興されている。現在の庵の裏手には去来の墓がある。

大覚寺
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。 時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。嵯峨天皇には孫にあたる淳和天皇の皇子恒貞親王を開山(初代住職)とした。

清凉寺
清凉寺は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山と称する。嵯峨釈迦堂の名で知られる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算である。 宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台、真言、念仏宗を兼ね、室町時代より「融通念仏の道場」として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ。

この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 – 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。 棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド – 中国 – 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立しようとしたが、様々な障害に阻まれ、一旦京都の船岡山にある蓮台寺に釈迦像を運び込むことになる。

野宮神社
野宮神社は、京都市右京区嵯峨野にある神社。旧社格は村社、現在は神社本教の被包括法人となっている。 天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。学問・恋愛成就・子宝安産等の祭神を祀り、地域住民からの崇敬はもとより、観光ルートの便から他府県または海外からも多くの参拝者が訪れる。

車折神社
車折神社は、京都市右京区嵯峨朝日町にある神社である。 現在は神社本庁に属さない単立神社。 頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となった。

社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう。

化野念仏寺
化野念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺院。山号は華西山。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。 伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が当地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したのに始まるとされる。 その後、法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。

本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建された。境内の約8,000体という夥しい数の石仏・石塔は、1903年(明治36年)頃に化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。賽の河原にちなんで西院の河原と名付けられた。 境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。

愛宕念仏寺
愛宕念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。本尊は厄除千手観音。別名千二百羅漢の寺。愛宕山愛宕神社参道の山麓の入り口に位置する「嵯峨野めぐりの始発点」として知られる。 天平神護2年(766年)、称徳天皇により今の京都・東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに愛宕寺として創建された。寺名の由来は山城国愛宕郡に初めて建てられた寺院だからだという。

平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたようである。醍醐天皇の時代、すでに荒れ寺となっていたところ、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失、廃寺となってしまった。その後、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。念仏上人と呼ばれていた千観が当寺で念仏を唱えていたことから、当寺はその名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

愛宕神社
愛宕神社は、京都府京都市右京区にある神社。旧称は阿多古神社。旧社格は府社で、現在は別表神社。 全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。

山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。 火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。上方落語には、「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。

月輪寺
月輪寺は、京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町にある天台宗の寺院。山号は鎌倉山(かまくらやま、けんそうざん)。本尊は阿弥陀如来。 京都盆地の西にそびえる愛宕山(924m)の東方の深い山中に位置する山岳寺院である。かつては愛宕大権現白雲寺であった愛宕神社(愛宕山山頂に位置する)との関係が深く、また空也、法然、九条兼実などのゆかりの寺として知られる。境内には親鸞の手植えと伝える時雨桜があり、シャクナゲの名所としても知られる。法然上人二十五霊跡第18番札所。

月輪寺は、京都盆地の西にそびえる愛宕山の東側の深い山中に位置する。京都市右京区に属するとはいえ、周囲にはこの寺以外に人家はなく、麓の清滝からは山道を徒歩で1時間30分ほどかけて登らねばならない。 月輪寺の創建について説明するためには、関係の深い愛宕神社(愛宕権現)の歴史に触れねばならない。愛宕神社は、一般には火伏せの神として知られる神社で、近世以前には愛宕権現または白雲寺と呼ばれて神仏習合の信仰が行われ、修験道の道場であった。『山城名勝志』に引用される『白雲寺縁起』は愛宕権現の由来について次のように述べている。

空也の滝
空也の滝は、京都市右京区清滝月ノ輪町の愛宕山麓にある滝。空也滝ともいう。落差は15メートルで、チャート(丹波層群)の崖の上から豊富な量の水が流れ落ちる。平安時代中期の僧空也(903年頃 – 972年)が修行したとの伝がある滝である。現在も滝行が行われる修験の地である。

神護寺
神護寺は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹本山の寺院。山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。 京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称する。寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。

西明寺
西明寺は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は槇尾山(まきのおさん)、本尊は釈迦如来。 京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。

寺伝によれば、天長年間(824年~834年)に空海(弘法大師)の高弟 智泉大徳が神護寺の別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(1175年~1178年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。 正応3年(1290年)神護寺より独立した。永禄年間(1558 – 1570年)の兵火により堂塔は焼亡し、神護寺に合併されるが、慶長7年(1602年)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700年)徳川綱吉生母桂昌院の寄進により再建されたものと言われるが、東福門院(後水尾天皇中宮)の寄進によるとする説もある。

高山寺
高山寺は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

常照皇寺
常照皇寺は、京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。詳名は大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざん まんじゅじょうしょうこうじ)。かつては常照寺(じょうしょうじ)と呼ばれていた。

京都市北郊の山中に位置する。この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。光厳上皇は観応3年/正平7年(1352年)、大和国賀名生の南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。帰京の後、貞治元年/正平17年(1362年)、丹波山国庄を訪れ、同地にあった成就寺という無住の寺を改めて開創したのが常照皇寺の始まりである。上皇はその2年後に示寂し、当地に葬られた。戦国時代には一時衰退したが、その後復興され、江戸時代には徳川秀忠から寺領として井戸村の50石を与えられた。天明8年(1788年)の時点で末寺7か寺を有していた

平岡八幡宮
平岡八幡宮は、京都府京都市右京区梅ヶ畑宮ノ口町にある神社(八幡宮)。梅ヶ畑八幡宮(うめがはたはちまんぐう)とも呼ばれ梅ヶ畑一帯の産土社である。また、山城国最古の八幡宮でもある。 809年(大同4年)に神護寺の鎮守として空海が大分県の宇佐八幡宮から勧請したのが起源とされている。1407年(応永14年)の焼失後しばらく荒廃していたが、足利義満の奥方が女官とともに高雄へ紅葉狩りに訪れた際に荒れ果てた八幡宮の姿に心を痛めたことが、社殿を再建したきっかけとなったという伝承がある。

現在の本殿は1826年(文政9年)に造営されたもので、大工は上嵯峨の宗兵衛と室町の中川常右衛門藤原忠寛である。この本殿は京都市内に現存する数少ない切妻造本殿の一つであり、2000年(平成12年)に京都市の有形文化財に指定されている。本殿天井には極彩色の花卉図が44面描かれており「花の天井」と呼ばれ、更に内法長押には熨斗に包まれた梅や椿が描かれるなど装飾性の強い空間になっており、これら彩色画を描いたのは綾戸鐘次郎藤原之信である。

文化伝統

東映太秦映画村
東映太秦映画村は、京都市右京区太秦東蜂岡町にある映画のテーマパークで、日本に於けるテーマパークの先駆けといわれる。 東映京都撮影所の一部を分離し、巨大映画アミューズメント施設として一般公開した。 京都撮影所のオープンセットの維持を画してその一部を新設子会社の「株式会社東映京都スタジオ」に移管し、敷地2万9000平方メートルに東映太秦映画村として1975年(昭和50年)11月1日に開村・公開した。

時代劇の殺陣ショーや俳優のトークショー・撮影会・握手会などのほか、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズなどのキャラクターショー、殺陣講座などの体験企画なども行なわれている。 舞妓、姫、殿様、武士、町人、町娘など、時代劇の登場人物への変身体験ができる変身スタジオもある(予約制)。また、駕籠屋体験として実際の駕籠を運行している(有料)。

嵯峨嵐山文華館
嵯峨嵐山文華館は京都市右京区にある、公益財団法人小倉百人一首文化財団が運営する、小倉百人一首や日本画をはじめとする京都ゆかりの芸術・文化を展示、振興するための施設。2006年1月から2017年3月まで営業していた百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月1日に「嵯峨嵐山文華館」としてリニューアルオープンした。藤原定家が百人一首を撰んだ地、小倉山の麓、嵐山の渡月橋の近くに位置する。 建物は1階・2階共に展示スペースとなっており、1階は常設展示「百人一首ヒストリー」と企画展スペース、2階は企画展を開催する畳ギャラリーとなっている。日本の美術品・工芸品は本来、畳に座って見るものであることから、敢えて作品の位置が低い展示ケースを採用した。競技かるたや講演会などのイベントも畳ギャラリーで開催される。

常設展示「百人一首ヒストリー」では、江戸時代の歌仙絵を題材とした歌仙人形100体を展示し、日本語と英語で百人一首を味わうことができる。また、藤原定家にはじまり、漫画「ちはやふる」により人気に火がついた競技かるたに至るまでの百人一首の歴史を、財団の所蔵品を用いて解説している。 競技かるたのルールを説明する動画コーナーもある。 企画展は年4回開催され、オープニングを記念した特別展「いまもむかしも 胸きゅん♡嵐山」では、嵐山を描いた絵画や嵐山に住んだ画家である竹内栖鳳や富田渓仙らの作品が展示されている。 中でも江戸時代の画家である矢野夜潮の「高雄秋景・嵐山春景図屏風」は新しく発見されたもので、オープンに合わせて初公開された。

あぶり餅
あぶり餅は、きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあとに白味噌のタレをぬった餅菓子、または串に刺してあぶったおかきや煎餅のこと。 京都市北区の今宮神社や同右京区嵯峨の清凉寺、石川県金沢市金沢五社の神明宮などにある、和菓子屋が知られる。

特に今宮神社の店は、平安時代頃からある日本最古の和菓子屋とされ、今宮神社参道で応仁の乱や飢饉のときに庶民に振る舞ったといういわれがある。また、あぶり餅で使われる竹串は今宮神社に奉納された斎串であり、今宮神社で毎年4月の第2日曜に行われるやすらい祭の鬼の持つ花傘の下に入ると御利益があるのをたとえとし、食べることで病気・厄除けの御利益があるとされ、親しまれている。

自然空間

西京極総合運動公園
京都市西京極総合運動公園は、京都府京都市右京区にある広域運動公園である。 総面積19.1haの園内には、陸上競技場兼球技場、補助競技場、野球場、プール兼アイススケートリンク、体育館(ハンナリーズアリーナ)、アーチェリー場、芝生公園「緑の丘」などが設けられている。阪急京都本線の線路を挟んで2つのゾーンに分かれており、北側に陸上競技場兼球技場、補助競技場、野球場、体育館、南側にプール兼アイススケートリンク、アーチェリー場、芝生公園がそれぞれ位置している。

1930年、東宮(昭和天皇)成婚奉祝記念に京都市運動場として建設された。 1945年、進駐軍に接収、1951年、接収解除。 1988年の第43回国民体育大会(京都国体)開催を機に、1982年から全面改修を進め、1989年に再整備を完了した。 1995年に、京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟に合わせ、陸上競技場兼球技場のスタンドを改修した後、サンガのホームスタジアムとして活用されている。 プール施設は1982年の全面改修時に撤去したが、1999年に建設工事に着手、2002年6月に整備を完了。

亀山公園
亀山公園は、京都府京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある公園。正確には京都府立嵐山公園の一部(亀山地区)であるが、公園内の高台に亀山天皇を含む3天皇の火葬塚にちなんで、亀山公園と通称される。周辺はいわゆる嵐山地区であり、四季を通じて観光客が多く、特に桜と紅葉の季節は賑わう。小倉山の南麓に位置し、東隣は天龍寺、北隣は大河内山荘があり、嵯峨野めぐりのルートのひとつにもなっている。

嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線のトロッコ嵐山駅が近く、園内の展望台からトロッコ列車の走行を含め保津川の風景を見ることができる。また、亀山公園北端には小倉山山頂へ続く整備されていない登山道への入口がある。

保津峡
保津峡は、京都府亀岡市から京都市右京区嵐山の渡月橋に至る保津川(桂川) の渓谷である。保津川峡谷とも。川下りや観光トロッコ列車で知られる景勝地であり、京都府立保津峡自然公園に指定されている。 丹波高地を発した桂川は、亀岡盆地から京都盆地に出るまでの11.5kmにわたって愛宕山南麓の狭隘な山間部を蛇行して流れている。この山間部の渓谷が保津峡である。

直線距離にして7.3kmを11.5kmもかかって流れるこの蛇行の原因は保津峡が先行谷であることによる。これは勾配が緩いため川が自由に蛇行していたあとから、川を横切るように東西走向の丹波層群が徐々に隆起したが、その速度よりも谷の下刻(下方侵食)速度が速かったために、蛇行していた流路がそのまま残ったものである。 渓谷は巨岩、巨石に富んだ急流と瀞が続き、大高瀬、二股の瀬、殿の漁場、女渕、烏帽子岩、鎧岩、かえる岩、書物岩、ライオン岩などの見どころが連なっている。左岸にハイキングコースはあるものの、嵐山からJR保津峡駅の間は清滝を経由していて渓谷沿いではない。

廃村八丁
廃村八丁(はいそんはっちょう)は、現在の京都府京都市右京区京北の品谷山(881m)南部にかつて存在した集落で、600年近い境界争いの末に明治初期に5戸が定住し一時は分教場まで設けられたが、1941年(昭和16年)に全戸離村している。廃村後は、一般に「廃村八丁」または「八丁廃村」と呼ばれ、周辺はハイキングコースになっていることからハイカーに人気がある。

樒原
鳥居本から水尾を越えて車で30分ほど山道を走ると,樒原の美しい棚田や昔なつかしい里山の風景が広がります。 「しきみ」の自生する七谷川水源を開拓した場所といわれたのが,地名の由来です。昔は,原村といわれ,現在でも地元の人々は「原」と呼んでいます。愛宕さんの山腹の「腹」が「原」になったとの説もあります。

平安時代初期より愛宕信仰が広まるにつれ,近隣諸国より参詣者があり清滝道の表参道に対して樒原道は,裏参道と言われていました。丹波・丹後・摂津国辺りからは,この道が愛宕山へ登る主たる参道で,茶屋から旅籠,酒屋などができて愛宕参りの宿場町又は門前町という形で発展しました。 元禄年間には,鳴滝の御用砥石氏・本間五郎左衛門が樒原で砥石の採掘を始め「原の本山砥石」として全国で知られるようにもなりました。

しかし,明治になり廃仏毀釈のため愛宕山が衰退し交通の発達による宿場町の衰退で静かな山里に戻っていきました。 樒原の棚田はふもとから見上げると,武士の鎧(よろい)のように見えることから,鎧田とも呼ばれています。

樒原では,新緑や紅葉の季節になると,地元の守り神である四所神社は特に美しい風景となります。また,秋のコスモス畑も一見の価値があります。

越畑
越畑は,棚田とかやぶき屋根が残る自然豊かな地域です。 当地域は,814年(平安時代前期)愛宕山白雲寺の中興の祖「慶俊聖」に従えていた雲平・竜徳という2人が聖の用事で丹波国に行くことが多く,その間に人家がなく往来に大変不便であったことに気づき,愛宕さん参詣者の交通の便を良くするために越畑の地を開拓しました。 その後,都から貴族の末臣達など移り住み集落として発展。鎌倉から室町時代にかけて最盛期を迎えました。

明治4年に芦見谷より村人総出で3㎞以上の及ぶ水路を開削。その後,大雨時によく決壊し補修が大変だったので,当時の小林村長が水源地である京北細野村と交渉し,給水権を得て上大谷山をくりぬき隧道を完成させました。 平成21年度から2年間,事業費約3億2千万円の「農業排水路整備工事」により水路トンネルの改修等も行われ安定した灌漑用水を実現できた。

越畑では,春には山桜や山つつじの花が咲き,夏にはオミナエシ,ホオヅキなどが見られます。棚田にはぶどうやりんごが植えられ,秋には紅葉も楽しむことができます。

柚子
新鮮な柚子を使った「柚子風呂」は、古くは清和天皇も好んだとされ、水尾の風物詩となっています。この柚子風呂と鳥すき又は鳥の水炊きを民家で楽しむことができます(要予約・宿泊不可)。柚子の季節になると、都会の雑踏から逃れてのんびり柚子風呂に入り、座敷で地鶏と自家栽培の野菜たっぷりの鳥すきを囲んでくつろぐお客さんで活気づきます。

フジバカマ
水尾では、秋の七草の一つであるフジバカマを、原種にこだわり、地域の方々と有志のボランティアの皆さんで大切に育てています。毎年9月下旬には、地域主催でフジバカマ鑑賞会が行われ、晩秋の「水尾柚子」と並ぶ新たな風物詩として定着しました。

アサギマダラ
例年、満開のフジバカマにたくさんのアサギマダラ(長距離を移動する渡り蝶)が飛来し、自然豊かな水尾に幻想的な風景が広がります。