日本の鉄道の黄金時代

日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大きい。しかしながら、政府財政の窮乏により鉄道をすべて官設官営で建設運営することはかなわず、やむなく民営鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことになってしまった。そのため、井上は機会あるごとに、自説の鉄道国有論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も再三国会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)までにそれが可決されることはなかった。

鉄道国有化
明治時代の鉄道国有化には種々の流れがあった。1891年と1899年の経済不況時には経営困難に陥った私鉄サイドから買い上げの要望が出たが、2回とも見送られた。特に後者の場合、政府は日露戦争準備の軍備拡張を行っており財政的に無理であった。日露戦争で鉄道の有効性と私鉄割拠による不便さを痛感した軍部(特に陸軍)は、戦争後に鉄道国有化を要望した。1906年3月、国会で「鉄道国有法」が可決され、上記五大私鉄会社を含む大手私鉄17社の国有化(買収)が決まった。買収は1906年10月に始まり、1907年10月に完了した。買収前の官鉄の総営業距離は2,459 km、買収して国有化した路線の総営業距離は4,806 kmであった。買収の可否判断に際しては、国内輸送の基幹となる路線を優先することになった。当時、南海鉄道は難波 – 和歌山市間、東武鉄道は北千住 – 久喜間の営業を行っていたが、和歌山方面には買収対象である関西鉄道の路線、関東北部へは同じく日本鉄道の路線があったため、国有化の対象に一時は含まれたことがあったものの、最終的には予算問題もあって外された。

帝国鉄道の会計
鉄道事業は1897年に内務省から逓信省外局の鉄道作業局へ全て移管されてからも、鉄道敷設法及び、北海道鉄道敷設法、事業公債条例によって運営されていたが、同時にドイツ帝国の帝国鉄道の会計が陸軍省によって研究されていた。

1906年に帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し、1907年3月に勅令の帝国鉄道庁官制が公布され、同年4月1日に鉄道作業局を改組した帝国鉄道庁が設置され、帝国鉄道が開業した。

次いで逓信省は、「帝国鉄道庁は民事訴訟に付き国を代表す」、「帝国鉄道庁ニ多度津工場増置」など法規を公布して、土地収容及び路線増設を進めた。

この鉄道の運営には当初から特別会計が設置されていたが(西園寺公望内閣)、さらに1909年には帝国鉄道会計法の全部改正により、資金不足の際は帝国鉄道会計の負担による公債発行、または他特別会計からの借入れを行いうるようになった(第2次桂内閣)。

1909年度予算によれば、同年の国の歳入予定は3億2053万4132円であったところ、この鉄道は1908年度までの2年間で建設及び改良費として6268万4226円を支出しており、1909年から1913年までの5年間の支出予定は1億180万6584円で、年間予算のうちの6%から18%前後をこの鉄道が占めていたことが分かる。なお、帝国鉄道の他に、外地であった中国や韓国の鉄道事業の予算もかかっている。

買収後の推移
買収の結果「国有鉄道」となったので以後国鉄と表記する。最初の効果は長距離列車の設定であり、東京 – 下関間の直通列車や、奥羽線経由の上野 – 青森間直通列車などが設定された。また車両を全国的に運用して各地方の繁忙・閑散に応じた配置が可能になった。その反面、国鉄の保有する車両は蒸気機関車だけでも174形式1,118両、客車3,067両、貨車20,884両におよび、運用・整備・修理に大きな困難が発生した。この後国鉄は車両・機材の国産化と標準化を進める。買収により国有鉄道と私有鉄道の比率は逆転し、以後の鉄道史は国有鉄道主導で進むようになる。

しかしその一方で、新たな私鉄の敷設計画が沈静化するという弊害を招いた。国有化で多くの金を使った国としては、地方における鉄道整備にまで資金を回せる状況ではなかったため、軽便鉄道法を公布して軽便鉄道と呼ばれる、簡易規格の鉄道敷設を奨励するようになった。

また甲武鉄道の国有化で、国鉄も電車運転をおこなう事業者(国鉄電車を略して国電と呼ばれる)となったが、1915年(大正4年)には京浜間の電化を完成させるなど、都市周辺を中心にして本格的に乗り出すようにもなった。

国産化
最初の鉄道は、車両もレールも鉄橋も外国製で、トンネル掘削はお雇い外国人が指導し、機関車の運転もダイヤの作成もお雇い外国人が行った。日本人は外国に学びながら徐々に技術力を蓄え、順次国産化していった。

トンネルでは、1880年に完成した東海道線の京都と大津間の逢坂山トンネル (664.8 m) が、お雇い外人に頼らずに掘削された。
日本人機関士第1号は1879年。
レールの国産化は1907年。
車両は、木造客車や貨車の改造は木工技術があったので開通当初から実行していたが、蒸気機関車の製作は近代技術の習得に応じて進んでいった。
1893年、お雇い外国人トレビシックの設計・指導の下に官営鉄道神戸工場で軸配置1B1タンク機の860形が完成。国産といっても主要部品は輸入品であった。
1903年、井上勝が中心となって設立した汽車製造会社で軸配置1B1タンク機の230形が完成。
1911年、軸配置2Bテンダ機の6700形が製造される。このタイプは日本人の設計による純国産機で、汽車会社と川崎造船所で合計46両生産された。主要部品のボイラーや煙管なども国産品であった。
1911年に本格的輸入機の最後となる大型の急行用機関車60両を輸入した。2Cテンダ8700形12両(イギリス)、2Cテンダ8800形12両と8850形12両(ドイツ)、2C1テンダ8900形24両(アメリカ)の4形式の蒸気機関車である。8700形以外は当時の最新技術である過熱蒸気を採用していたが、いずれも東海道線や山陽線の旅客列車を牽引した。

国産標準機の完成
最初の純国産機である6700形(1911年)の成功後、同時期に輸入した8800形等の新鋭機を参考にして、「国産標準機」と呼ばれるに相応しい機関車が生産され始めた。1913年に完成した9600形は、過飽和蒸気を使用した出力870馬力・軸配置1Dの貨物用テンダー機関車で、総計770両生産された。翌年には、旅客用に軸配置1Cのテンダー機である8620形が完成し、これも総計687両が造られた(以後に記す機関車は、特に断わらない限りテンダー機である)。貨物機は、1923年に大型のD50形(軸配置1D1・出力1280馬力)が完成し、主要幹線の長大貨物列車の牽引や、東海道本線の箱根越え(丹那トンネル完成前の旧線で、現在の御殿場線)の補機として活躍した。旅客機では、1919年にC51形(軸配置2C1)が完成したが、この機関車の「軸配置2C1と動輪直径1750 mm」という構成は、その後新製される旅客用蒸気機関車に受け継がれた(戦後完成した軸配置2C2タイプの機関車はすべて他機種からの改造機である)。C51形は、東海道本線や山陽本線の特急列車牽引機として、その後長く使用された。

電気運転の進展

都市近郊路線の電化
蒸気機関車の運転は煙突から大量の煙や火の粉を発生させるため、家屋の建て込んだ都市内への乗り入れは反対される場合が多かった。その点、電車はそのような環境問題も無く、方向転換が簡単な上単機や短編成での運行が容易で、都市近郊のフリークェントサービスに適している。明治末から大正にかけて、都市近郊に建設された路線は最初から電化していたり、あるいは蒸気機関車運転であったものを電化する例が多数見られた。

1899年、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線)の六郷橋駅 – 川崎大師駅2.5 km間が、初の標準軌を採用した電気鉄道として開業。川崎大師への参拝者を運ぶ目的で建設された。
普通鉄道としては、1904年に甲武鉄道(現在のJR東日本中央本線)飯田町駅 – 中野駅間が、蒸気運転から一部移行する形で電化された。使用した電車は、台車や電機品がアメリカ製、木造車体は国産で、架線電圧は直流600 Vであった。電化と同時に自動信号機を設置し、5分から10分の運転間隔で電車を走らせた。この無煙化による快適性向上とフリークェントサービスによる利便性向上で沿線人口が増え、都市化が進んだ。この後、日本各地で鉄道敷設による郊外住宅の開発・発展が進む。
1905年、都市間の電車鉄道が東西で開通した。関東では上記大師電気鉄道の品川駅 – 神奈川駅間、阪神間では阪神電気鉄道の梅田駅 – 三宮駅間である。阪神電気鉄道は一部道路上を走る軌道扱いであるが、開通時からボギー台車を備えた高速電車を使用し、国鉄から多くの客を奪った。
元日本鉄道の保有路線であった山手線も、1909年に電車運転に切り替えられた(なお、環状運転化は1925年)。車両は単機運転ながらボギー台車の大型車で、使用する電力は国鉄自前の火力発電所から送られていた。
1910年には、関西地区で2社が電車運転を始めた。京阪電気鉄道は名前の通り京都と大阪の間(天満橋駅 – 三条駅間)に路線を敷設、1914年には電車で初めて「急行」を運転する。また、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄宝塚線・箕面線)梅田駅 – 宝塚駅・箕面駅間も開業。当初は満足な乗客数が見込まれなかったため(ミミズ電車とも揶揄されていた)、創設者の小林一三は乗客誘致のために宝塚温泉に少女歌劇を創設、現在の宝塚歌劇団である。
1911年、京成電気軌道(後の京成電鉄)が押上駅 – 市川駅間を開業。社名の由来となった、最終目的地の成田まで延伸したのは1926年であった。
1913年、京王電気軌道(後の京王電鉄)が笹塚駅 – 調布駅間で営業開始。
1914年、大阪電気軌道(後の近畿日本鉄道)の上本町駅 – 奈良駅間が開通。
この時期、私鉄のインターアーバン型路線の拡大・発展が顕著になりつつあった。小林一三が率いた阪神急行電鉄では、沿線開発や百貨店などの副業を路線敷設とセットで行うなど、現在の日本における鉄道経営のモデルを作り出している。また東武鉄道や参宮急行電鉄など、100 kmをゆうに超す長距離運転を行う会社、阪和電気鉄道や新京阪鉄道など、現在でも遜色ないほどの高速運転を行う会社も現れた。また都市交通機関としても、路面電車のほかに地下鉄(1927年、東京地下鉄道を初とする)やトロリーバス(1928年、日本無軌道電車が初)などが出現した。地方路線でも、1921年(大正10年)に初めてガソリン気動車が好間軌道で導入されるなど、近代化の試みは少しずつながら、進められた。

碓氷峠の電化
信越本線において碓氷峠を控える横川駅 – 軽井沢駅間(1997年廃止)11.2 kmは、67パーミルの急勾配と26箇所のトンネルがある、交通上の難所であった(国鉄の他線区の勾配は、板谷峠などごく一部を除き最大でも33パーミル)。1893年の開業以来、専用の歯車式アプト式蒸気機関車による運行が続いてきたが、連続するトンネル中での運転の困難さや増大する輸送量に対して、非力な蒸気機関車では対応できなくなることが重要問題とされるようになった。列車の運行を止めずに行った2年間の工事の末、碓氷峠は1912年より電気機関車による運転に切り替えられた。使用する電気機関車10000形(軸配置C・出力660 kW)はドイツから輸入され、電力は横川駅の近くに3,000 kWの火力発電所を建設して賄った。電化によって煙による機関士の苦労が解消し、1列車あたりの重量は126 tから230 tに倍増し、スピードアップにより列車の大幅な増発(36本/日→54本/日)が可能となった。

建主改従か改主建従か
1907年の鉄道国有化以後、産業の発展に伴い貨物の輸送量が増大し大正初期には貨物収入が旅客収入を上回るようになった。当時の東海道線は複線化が進んでいたものの一部に単線区間が残り、輸送力は限界に達していた。今後も伸び続けるであろう需要に対する抜本的対策として、『主要幹線を国際標準軌へ改軌する』という広軌改築案が、1910年に閣議へ提出された。一方で鉄道の利便性が広く認識された結果、鉄道未設置の地区においては新線建設の強い要望が次々と出された(当時の鉄道総延長は約8,000 kmで現在の半分程度であった)。国鉄は線路網の充実と既存路線の強化改善に取り組んできたが、大正時代に新線建築と既存幹線改善のどちらに重点を置くかについて、重大な政治問題に発展した。

政治による決着
新線建設を優先すべきという方針は「建主改従」と呼ばれ、立憲政友会が主張していた。反対に主要幹線や大都市圏の鉄道の強化改善を優先すべしという方針は「改主建従」と呼ばれ、経済界・軍部・民政党が主張していた(もちろん民政党の議員も、自分の選挙区に路線を誘致する『我田引鉄』には熱心であった)。国鉄側では1908年 – 1911年と1916年 – 1918年の2回鉄道院総裁に就任した後藤新平が改軌を強く主張し、1917年には鉄道院工作局長の島安次郎らが中心となって横浜線で標準軌間への切り替え実験も実施して、改軌実行に備えていた。

しかし、1918年政友会の原敬内閣において国際標準軌への改築は見送られることが決定し、その後国鉄関係者は『狭軌のままの輸送力改善』に取り組むようになる。一方我田引鉄の動きとしては、1925年(大正14年)に公布された改正鉄道敷設法が挙げられ、多くの予定線が盛り込まれたものの、優先順位をどうするかなどの具体的なことが記されておらず、後に国鉄のローカル線敷設・廃止問題を引き起こす要因となった。

なお改軌に関する論争については、日本の改軌論争も参照のこと。

輸送力改善の施策
改軌によらない輸送力増強の施策として種々の項目が実施された。その中にはリンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取り替え(1925年)など、世界に例を見ない大規模かつ効果の大きいものもあった。これらの改善は1910年代から1920年代に行われ、その結果1930年代の『黄金時代』が到来することになる。以下、この時代に実行された施策を解説する。

幹線の複線化 – 主要幹線の東海道本線が1913年、山陽本線が1928年に全線複線化された。また東京や大阪の近郊区間には、並行する別線(電車線、いわゆる複々線化)が建設された。
急勾配区間の改良 – 最大規模のものとして、東海道本線の御殿場廻りから丹那トンネル経由への切り替えが挙げられる。勾配の改善によるスピードアップと共に、勾配用補機の連結・解結による停車も解消し東海道線の輸送力は大幅に向上した。
軌道強化 – レールの重軌道化(レールを重い頑丈なものに取り替えること)、バラストの砕石化(丸石よりも角のある石の方が石同士の噛み合わせが良いのでバラストに適している)等により重たい列車を高速で走らせることができるようになった。
リンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取り替え – 1925年7月17日、すべての貨物列車を運休させて、全車両の連結器を交換した(客車は夜間に取り替えて運転した)。交換した車両数は機関車約3,000両、客車約6,000両、貨車約25,000両であった。強度と安全性に優れ連結解結が容易な自動連結器に切り替えた結果、作業の迅速化と安全化、作業性の向上などが達せられた。
客車や貨車への空気ブレーキの設置 – 電車は早くから圧縮空気を使う空気ブレーキを使用していたが、蒸気機関車の牽引する客車は非力な真空ブレーキを使っていた(貨車にはブレーキの装備は無く、機関車と車掌車で制動していた)。列車への空気ブレーキの設置は1922年頃から始まり、1930年にはすべての客車が空気ブレーキに切り替わった。ブレーキ力の強化により運転速度を高くすることができた。貨車へのブレーキ設置は徐々に進展したが、未設置車は第二次世界大戦時まで残存した。
自動信号機の設置 – それまでは駅間単位の閉塞方式で、ひとつの駅間に1列車しか走れなかった。自動信号機を設置して閉塞区間を短くすれば列車運行本数を増やすことができ、増線しなくても大幅な輸送量増大が図れる。まず、1921年に横浜駅 – 大船駅間で腕木式自動信号機を設置、1925年以後に順次現在のような色灯式に取り替えられていった。
停車場の機能分化 – 鉄道が開設された当初は、ひとつの停車場が旅客扱い・貨物扱い・列車の編成組み換え・車両基地のすべてを兼ねていた。しかし輸送量が増えてくると、各々の機能を分化することが必要になった。例えば大阪駅は旅客扱いのみに特化し、貨物列車の走る線路は別線(北方貨物線)が建設され、大阪駅構内に貨物列車が入らなくなった。別線から引き込み線で梅田貨物駅が作られ、別線沿いに旅客車の車両基地(宮原操車場)が設けられた。少し京都寄りには貨物列車を編成する広大な吹田操車場が建設された。
幹線やトンネル区間の電化 – 1919年に、重点国策として「石炭資源の確保と河川の水力発電の開発」が決定された。当時の国鉄は蒸気機関車用に大量の石炭を使用しており、国策に沿って幹線やトンネル区間の電化を従来以上に進めることとなった。各区間の電化状況は次の節にて解説する。

国鉄の電化の進展
国鉄の主要幹線の電化は、1914年の東京駅開業に合わせて建設された東京駅 – 高島町駅間が最初である。直流1,200 Vで電化された区間に、パンタグラフを装備した3両編成の大型電車を50両投入した、本格的なものであった。電車はアメリカのゼネラル・エレクトリック社の電装品を使用し、最高速度80 km/hの高速で走行した(それまでの電車は、せいぜい最高50 km/h程度であった)。当初初期故障が多発し、一旦蒸気運転で代行した時期があったが、その後は安定して使用され、1930年代に大量進出する高速電車群のルーツとなった。

次に電化されたのは東海道線の東京駅 – 国府津駅間(1925年)で、長距離列車のため電車ではなく、電気機関車牽引の列車とされた。電圧は1,500 Vに昇圧されたが、この電圧は現在のJRにも継承されている(なおこの電圧を初めて採用したのは、1918年の大阪鉄道である)。当時の日本では電気機関車の生産実績がほとんど無いため、この区間の電化に際してはイギリス、アメリカ、ドイツ、スイスからの輸入機と、日立製作所の自主開発機が採用された。輸入機としては、イギリス製のEF50形が有名だが、当初初期故障が多くこの機関車を安定して使用するための努力が電気機関車に関する技術力向上に役立ったなどと言われた。東海道線の輸送力強化の切り札として建設された丹那トンネルは難工事のために完成まで16年かかったが、1934年に複線電化の長大トンネルとして完成した。上越線の清水トンネルは碓氷峠を通らずに首都圏から日本海側へ向かう線路として建設された。着工は丹那トンネルより遅かったが、完成は早く1931年に単線電化のトンネルとして開通した。

第二次世界大戦前の黄金時代
1930年代には、国鉄の路線網が充実し幹線の輸送力強化の効果が出て特急列車の増発やスピード向上が行われた。都市間を結ぶ私鉄では国産の大型高速電車を投入して、蒸気列車をしのぐ高速運転を行った。機関車は貨物用機の決定版として1,115両生産されたD51形(軸配置1D1出力1,280馬力)と、急行旅客機C59形(軸配置2C1)が生産され、またEF52形等、電気機関車の本格国産化も始まった。D51を設計したのは島安次郎の息子で、後に新幹線建設に携わる島秀雄であった。

特別急行列車
特別急行列車、略して“特急列車”の名が使われたのは、1912年の東京・下関間直通列車が最初である。1929年、これに対し列車愛称を付けることになり、一般公募から東京・下関間の1等車・2等車特急に「富士」、同区間の3等車特急に「桜」が採用された。翌1930年、超特急と呼ばれた「燕」が運行を開始。それまでの特急は東京と大阪の間を11時間かかって走っていた(表定速度51.7 km/h)が、「燕」はその区間を8時間20分(表定速度66.8 km/h)で結んだ。「燕」は人気が高く、後には「不定期燕」も増発され、その後も東京・神戸間に特急「鴎」が設定されるなど、特急列車の増発が行われた。1940年の東海道本線下りダイヤでは、上記5本の特急のほか、急行列車として名古屋行き(1本)、大阪行き(3本)、神戸行き(3本)、下関行き(5本)が設定されていた。このうち、名古屋行き急行を除くすべての列車には食堂車が連結されており、「燕」・「富士」・「鴎」、そして下関行き急行列車のうちの1本には、豪華な1等展望車が連結されていた。

私鉄の発展
1930年までには、現在大手私鉄と呼ばれている鉄道会社の主要路線が開通している。現:相模鉄道以外は、この段階で既に電化されていた。私鉄の路線建設や経営に関しては、東武鉄道の根津嘉一郎、西武鉄道の堤康次郎、東京急行電鉄の五島慶太、阪急電鉄の小林一三など個性的な経営者が輩出し、鎬を削った。路線敷設の権利問題では種々の裏話もあり、「ピストル堤」(堤康次郎)や「強盗慶太」(五島慶太)など、物騒な通称で呼ばれた経営者もいた。

乗客誘致のため、沿線の宅地開発を行ったり、遊園地などの集客設備を作った例も多かった。阪神電鉄は1924年に甲子園球場を建設し、1935年にはプロ野球チーム大阪タイガース(後の阪神タイガース)を設立したが、ライバルの阪急電鉄は翌年阪急軍(後の阪急ブレーブス)を設立して対抗した。これらの施策は多くの会社で行われ、関西圏に多くの球団が存在する要因となった。

また、ターミナル駅へのデパート併設は1920年の阪急梅田駅が最初で、その後各私鉄のターミナルに次々とデパートが設置されるようになった。

鉄道国有化による買収が終了した後も、小規模ながら私鉄が国有化される事例があった。多くは改正鉄道敷設法に記された路線に該当するという理由によるものであったが、第二次世界大戦中には戦時買収私鉄として、国策上必要な産業用路線を有する路線も国有化対象になっている。残存私鉄においても、戦時体制の下では地域ごとに集約する方針が1938年(昭和13年)の陸上交通事業調整法により定められ、東京急行電鉄(大東急)や近畿日本鉄道(近鉄)のような巨大会社も出現した。

高速電車
各私鉄は、自分の路線に合った特徴ある電車を開発し乗客を誘致した。それまでの電車は、短距離の運転のみに使われる前提で製造されたため、3扉ロングシート車が主体であったが、この頃建設された観光路線や都市間の長距離路線に使われた電車には、2扉クロスシート車が充当された。以下当時の2扉クロスシートの高速電車を列記する。

東武鉄道は、日本を代表する観光地の日光へ直通する東武日光線にデハ10系電車を投入した。
京阪電気鉄道のバイパス線として作られた新京阪鉄道のP-6形電車は、京都府の山崎駅付近で超特急「燕」と競争した。
参宮急行電鉄の2200系電車は、大阪市から伊勢へ長躯 (137 km) した。
阪和電気鉄道(現在の阪和線)はほぼ同じ区間を走る南海電気鉄道の後発であったが、モヨ100形電車等の高速電車を採用し、大阪の阪和天王寺駅と阪和東和歌山駅の間をノンストップで走らせて、戦前の最高表定速度である81.6 km/hを記録した。
これらは後に名車と称えられることになる画期的な車両であった。私鉄との激戦となった東海道本線京阪神間では、鉄道省(国鉄の当時の運営組織)は流線型の52系電車を製作し、高速運転をする「急行電車」(急電)を設定して私鉄に対抗したが、これは現在同地域で設定されている、「新快速」と同じ性格の列車であった。

地下鉄と路面電車
この頃、大都市の高速輸送機関として地下鉄が建設されるようになった。東京では、1927年に東京地下鉄道(後の東京メトロ銀座線)が上野と浅草の間を電車で結び、1935年には新橋駅まで延長した。大阪では、大阪市営地下鉄が1933年に梅田 – 心斎橋間(後の御堂筋線)で開業し、1935年に難波駅、1938年には天王寺駅まで延長した。

地下鉄はその後、大都市に不可欠な交通機関として発達してゆく。なお、戦前に都市交通機関として開業した地下鉄路線は前記二都市のもののみであったが、郊外私鉄が地下線を採用して都心部に乗り入れたというものでは、1925年開業の宮城電気鉄道(今の仙石線)を初として、関西圏を中心にいくつかの路線が開業していた。

都市内の交通機関としては路面電車が発達した。京都(1895年)、名古屋(1898年)、東京(1903年)、大阪(1903年)等の大都市はもとより、北は旭川から南は那覇までの地方中核都市にも路面電車の軌道が敷設された。

弾丸列車
1940年1月16日の「鉄道会議」で可決された「東京・下関間新幹線増設に関する件」は、東京から下関まで国際標準軌間の別線(複線)を建設する内容で、東海道本線と山陽本線の抜本的改善を目指すものであった。この計画は一般に弾丸列車と呼ばれた。

路線経路は現在の東海道新幹線と山陽新幹線に相当するが、現在の新幹線が国内の人的輸送に特化した電車であるのに対し、弾丸列車は下関から朝鮮半島や中国大陸への人や物資の輸送を考慮したもので、旅客以外にも高速貨物列車・荷物列車などを設定することにしており、機関車牽引を想定していた。また電化区間は一部のみで、蒸気機関車の使用も予定しており、旅客列車の最大速度は電化区間で200 km/h、非電化区間で150 km/hとされた。

この計画の推進には、当時中国大陸で戦火(日中戦争)を拡大していた、軍部の意向も強かったと言われている。建設工事は同年8月に新丹那トンネルと日本坂トンネルから着工されたが、第二次世界大戦で日本側の劣勢が明らかになった1943年に、日本坂トンネルと新東山トンネルを除く他の工事は中断された。この2トンネルは1944年に完成して在来線に使用され、戦時輸送や戦後の復興に貢献した。

外地の状況
第二次世界大戦前に日本が領有していた朝鮮・台湾・樺太などの鉄道も日本の手によって建設された(それぞれ、大韓民国の鉄道・台湾の鉄道・日本統治時代の南樺太の鉄道を参照)。また満州においては、日露戦争で権益を得て設立された南満州鉄道が現地の開発を進め、「あじあ号」のような豪華列車も走らせた。