東海道広重美術館、静岡市、日本

静岡市東海道広重美術館(Shizuoka city Tokaido Hiroshige Museum of Art)は、旧東海道第16郵便町由井塾の本陣跡地にあります。 多川広重の江戸浮世絵芸術家の作品を中心に日本で初めての美術館です。 広重のコレクションには約1400点の風景の木版画やその他の作品が展示されています。東大堂の五十三駅、六甲台の六十九駅、江戸の百奇妙な眺めがあります。 浮世絵と現代美術を結びつけるキュレーション展を通じ、浮世絵の新しい文化を推進することを目指します。 江戸から現在まで、国際的に愛されている浮世絵作品の壮大さを楽しむことができます。

概要
平成6年、東海道の宿場町「由比宿」の本陣跡地である、由比本陣公園内に開館した東海道広重美術館は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(1797-1858)の名を冠した、日本で最初の美術館です。

収蔵品は、“広重・東海道三役”と異名をとる《東海道五拾三次》の「保永堂版」、「隷書東海道」、「行書東海道」の他、晩年の傑作《名所江戸百景》など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数えます。

常に新しい視点で、浮世絵芸術の素晴らしさを満喫していただけるよう、毎月展示替えを行い、所蔵品を中心にバラエティーに富んだ企画展を開催して参ります。

また講演会やギャラリートークなど、関連事業も随時実施致します。

展覧会
館内には「大展示室」「小展示室」の他、「浮世絵の基礎知識」「ガイダンスルーム」があります。 エントランスホールには、浮世絵版画摺りの技術をやさしく理解できる「版画体験コーナー」を設置するなど、“広重”や“東海道”をキーワードに、江戸文化への理解を深めて頂ける工夫がされています。 また「ミュージアムショップ」では、オリジナルグッズの販売もしております。

大展示室
東海道(蔦屋版東海道) 全54枚
広重が五十代前半のときに手掛けたシリーズ。版元蔦屋吉蔵から刊行されたことから通称「蔦屋版東海道」とよばれます。小さい判型ながら旅人や宿場の風景が丁寧に描かれ、当時の旅の様子が伝わってきます。

東海道五拾三次之内(保永堂版東海道) 全55枚
広重が三十七歳の頃に手掛けたシリーズ。版元保永堂から刊行されたことから、通称「保永堂版東海道」とよばれます。四季や気象の変化を巧みに織り込んだ街道や宿場の風景描写が評判を呼び、人気を博しました。

五十三次名所圖會(竪絵東海道) 全55枚
広重が五十九歳のときに手掛けたシリーズ。竪の構図で描かれていることから通称「竪絵東海道」とよばれます。広重が画業の最後に描いた東海道シリーズで、上空から斜めに見下ろしたダイナミックな構図が多く見られます。

収蔵作品

歌川広重 「東海道五拾三次之内」(保永堂版)
歌川広重 「東海道五拾三次」(狂歌入東海道)
歌川広重 「東海道五十三次之内」(行書東海道)
歌川広重「東海道」(隷書東海道)
歌川広重「東海道五十三対」
歌川広重・三代歌川豊国「双筆五十三次」
歌川広重「木曾街道 六拾九次之内」
歌川広重「名所江戸百景」
歌川広重「不二三十六景」  など

歌川広重
歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) – 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。

ヒロシゲブルー
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。

この鮮やかな青は日本古来の藍(インディゴ)の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり紺青である。木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。

ヒロシゲブルーは19世紀後半のフランスに発した印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因の一つともされてい

東海道往復旅行
天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。

この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある。 また、同作は司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)

肉筆画
版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。 有名なのが、俗に「天童広重」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、天童藩から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。 なお、広重の遠近法は印象派以後の画家、特にゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。