下京区,京都市,近畿地方,日本

下京区は、京都市を構成する11区のひとつである。北辺を通る四条通の四条烏丸(烏丸通)から四条河原町(河原町通)までは京都府、京都市有数の繁華街となっている。 同区内に立地する京都駅は、京都市周辺部のターミナルであり、周辺には京都タワー・京都駅ビルなどを中心に商業施設が集まっている。

高度成長期に業務地化が進み人口が急減し、1980年代には高層マンションが増えたが人口は減り続けた。1995年以降都心回帰現象により人口が増加傾向に転じている。この時期には建物高さ規制を厳しくし、居住性を高めている。2005年に行われた国勢調査においても、隣接する中京区や南区などと並び人口増加区のひとつとなった。

区内の主要道路は東西に向かう四条通、五条通、七条通、塩小路通を含み、南北に向かう西大路通、千本通、大宮通、堀川通、烏丸通、河原町通。 鉄道の東海道駅も管轄内にあり、西日本旅客鉄道東海道本線、山陰本線、奈良線、湖西線、東海旅客鉄道東海道新幹線、近畿日本鉄道京線、京都市営地下鉄烏丸線はここで交易します。

歴史
現在の下京区範囲は令制国時代に山城国葛野郡、愛宕郡及び紀伊郡に分かれています。平安時代末期には、京の南側から「下」と呼ばれていましたが、次第に「下京」と呼ばれるようになりました。

1868年に江戸幕府を廃止した後、新たに設立された京都府に属します。1879年に京都府が郡区町村編制法を実施した時、京都府の下に上京区と下京区が設置されました。下京区の範囲は元々愛宕郡の坂廻、六波廻、建仁寺廻、霊山廻り、大黒町、三条縄手寺屋敷、都市町、東橋詰町、五条東橋詰町、河原田、三条条大橋東十五軒町、二町目、三町目、知恩院門前、五条下寺町、福田寺町、平居町、上生洲町、四条河原、五条河原、下京畑、葛野郡の三条新畑、迎堂巡り。

1889年に日本で市制が実施され、上京区と下京区は京都市に併設されましたが、上京区と下京区の行政区画は依然として保留されています。 1889年から1931年まで、愛宕郡今熊野村、清閑寺村、葛野郡大内村、七条村、朱雀野村、紀伊郡柳原町、東九条村、上鳥羽村、吉祥院村が続々と京都市に合併され、下京区に進出しました。東則は新たに東山区に設立することを画した。1955年、京駅及び東海道本線は南の区域で再編出され、南区が新たに設立されました。

区の概要
京都市街地の南寄りに位置し、東は東山区、西は右京区、南は南区、北は中京区に接する。面積6.82平方キロメートル。京都市制以前の明治12年(1879年)、京都府に「上京区」と「下京区」が設置された。明治21年(1888年)には愛宕郡の一部の村を編入。明治22年(1889年)、京都市制施行とともに京都市下京区となる。明治35年(1902年)、大正7年(1918年)、昭和6年(1931年)には葛野郡、紀伊郡の各一部の村を編入した。この間、昭和4年(1929年)、区の北部と東部の一部地域が分離され、新設の中京区・東山区に編入された。昭和30年(1955年)に南区を分区して以来、現在の境域となる。明治以降編入された愛宕郡・葛野郡・紀伊郡の旧村の区域は、現在は大部分が中京区・東山区・南区に属している。

区の東側には鴨川が流れて区境をなし、区の南端にはJR東海道本線(JR京都線・琵琶湖線)および東海道新幹線が走り区境をなしており、京都駅は当区に位置する。区内にはほかに京都タワー・東本願寺・西本願寺・京都鉄道博物館(梅小路蒸気機関車館)などの観光地がある。

名所旧跡

京都タワー
京都タワーは、京都府京都市下京区にある塔である。京阪グループの京阪ホテルズ&リゾーツ株式会社が運営している。 京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立っている。台座となっている京都タワービルを含めた高さは131メートルあり、京都市内では最も高い建造物である。 1953年(昭和28年)、京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討されていた。またこの土地は国際文化観光都市たる京都の表玄関、京都駅の真正面に当たる物であり、それに相応しくまた公共性に富む土地活用が求められていた。京都商工会議所主催の懇談会で株式会社物産観光センター(のちに株式会社京都産業観光センター)の設立が決まり、翌1959年4月11日、創立した。

当初は屋上に展望台などを作る程度は検討されていたものの、巨大なタワーを建てる事は想定していなかった。だが検討の結果、建物の内部にあまり影響を与えずにタワーを建築出来る事が判明し、山田守(建築家)の設計管理および京都大学工学部建築学教室棚橋諒教授の構造設計により建造されることとなった。この際、単なる鉄骨による無骨なタワーでは京都の表玄関には相応しくないとして、白い円筒状の優雅なデザインが採用された。建築には日本で初めて、炭酸ガス半自動溶接機が大々的に使用されたという。

2014年(平成26年)の開業50周年に向けたエレベーター改修工事や外壁の塗り直しのため、展望室や台座のビルにあるレストランなどは2012年(平成24年)12月2日から2013年(平成25年)3月まで休業となり、4月1日からリニューアルオープンしている。なお、このリニューアルを機に、レストランは喫茶・軽食も提供するラウンジに営業形態を変更した。なお工事期間中も、ホテルや土産店の営業は続けられていた。

タワー上層部に楕円形の展望台(有料)が設置されており、内部は2層構造となっている。双眼鏡も置いてあり、無料で使用できる。 外観は、タワー部はミルキーホワイト色を基調とし、展望台およびその上部の一部分に赤色が用いられている。また、タワービル部にはグループ会社である京阪電気鉄道(京阪)により、京都駅からJR東福寺駅を経由して祇園・清水方面への利用を促す広告などが設置されている。 外観塗装色については法規制があり、白と赤となっている。これは地上高60メートルを越える建造物に該当するため、高輝度航空障害灯を設けない場合は紅白縞模様(鉄塔や煙突と同じ)とする必要があるためである。

京都駅
京都駅は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅である。

政令指定都市であり近畿圏の主要都市のひとつであり、また年間を通じて膨大な観光客を受け入れている京都市の玄関となる中心駅であり、国内外の観光客にとって京都観光の拠点となっている。東海道新幹線の全列車が停車するほか、JRには北陸・山陰・関西空港・南紀方面、近鉄には奈良・橿原神宮・伊勢志摩方面など、各地を結ぶ特急列車が発着する。JRについては在来線特急の発着種類が日本一多い駅である。観光客はもちろん、京都市内あるいは各線乗換利用の通勤通学客も多く、1日平均の乗降人員が各社合計で70万人の日本で有数のターミナル駅である。第1回近畿の駅百選に選定された。1997年に完成した現在の駅ビルは梅田スカイビルなどの作品で知られる原広司の設計。駅周辺は商業施設や観光客向けのホテルが多数集積しているが、京都市の中心繁華街である四条河原町とは距離がある。そのため主に駅前のバスターミナルを発着する多数の路線バスが四条河原町や市内に点在する観光地などを結んでいる。

西本願寺
西本願寺は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山。正式名称は龍谷山 本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。 文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、大坂天満から現在の堀川六条に寺基を移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り、現在の「大谷本廟」となっている。 慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され、本願寺が正式に西(本願寺派)と東(大谷派)に分立する。この時、江戸幕府内では当時の門主准如(顕如の三男)が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。とは言うものの元来、教如は石山合戦以来の自らの派を有しており、宗派内部は既に分裂の状態にあった。

分立当初は准如の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の「本願寺」は「信淨院本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺を「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺は「西本願寺」と通称されるようになった。

東本願寺
東本願寺は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派(以下、大谷派)の本山である。東本願寺の名は通称で、正式名称は「真宗本廟」。「東本願寺」という通称は、堀川七条にある「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置することに由来している。

大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派 の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定 される。 東本願寺(真宗本廟)は、包括宗教法人である「真宗大谷派」に包括される単位宗教法人(被包括宗教法人)ではなく、法人格を有していない。大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。)

渉成園
渉成園は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。東本願寺の東方約150メートルに位置し、ほぼ200メートル四方の正方形をなす。面積3.4ヘクタール。西は間之町通、東は河原町通、北は上珠数屋町通、南は下珠数屋町通に接する。 名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。また、周囲に枳殻が植えてあったことから、「枳殻邸」とも通称される。 昭和11年(1936年)12月、国の名勝に指定される。 9世紀末に嵯峨天皇の第12子・源融が奥州・塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地とされる。付近に今ものこる塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りという。 寛永18年(1641年)、徳川家光から東本願寺に寄進される。 承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される。

以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられるなど、東本願寺の飛地境内地として重要な機能を果たした。また、延宝6年(1678年)から宝暦4年(1754年)の間は、西隣に接して東本願寺の学寮(大谷大学の淵源)が置かれた。 園内には、全敷地の6分の1を占める広大な印月池をはじめとする頼山陽撰の十三景が広がり、大書院の閬風亭や、漱枕居・縮遠亭・代笠席の3茶室、第二十一代嚴如(大谷光勝)の持仏堂であった園林堂等、瀟洒な諸殿舎が点在する。殿舎内部には、石川丈山や狩野永納、棟方志功等の作品が残る。 庭園は作庭時の姿を残すが、安政5年(1858年)・元治元年(1864年)の2度の罹災により焼失する。現在の殿舎は、慶応元年(1865年)から明治初期までに再建されたもの。7000㎡を超える広い池は「印月池」といい、古くは高瀬川の水が引かれていた。明治に入り琵琶湖疏水が開通すると、東本願寺の火防噴水用に蹴上から専用の鉄管で疎水の水がひかれ、この水が渉成園にも引き込まれた。

佛光寺
佛光寺は、京都府京都市下京区にある真宗佛光寺派の本山。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 – 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺を遥かにしのぐ勢力があった。「仏光寺」と新字体で表記されることもあるが、正式表記は「佛光寺」である。 承元元年(1205年)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞は越後国に配流された(承元の法難)。

寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。なお、佛光寺の親鸞伝絵のうち古い作品には京都に帰った後に(興正寺を建立せず)伊勢神宮に参詣した後に関東に向かったとするものも存在しており、(後述の)荒木門徒の間では一旦京都に帰還した後に関東に向かったとする伝承が古くから存在していたとする見方もある。

五条大橋
五条大橋は、京都府京都市を流れる一級河川鴨川に架設された橋。 五条通(国道1号・国道8号)の一部として供されている。また、橋の付近の鴨川は下京区と東山区の境界になっている。 橋上からは東山の山々を望むことができる。

古くから、洛中から鴨川東岸への、特に清水寺参詣のための便として架橋されていた。当時は現在地ではなく松原橋にかかっていた木橋で、当時の姿が描かれた屏風には鴨川の中央部には水神様を祭る祠が有る中州を介して二つの橋に分かれていた。 現在の五条大橋は五条通りの拡幅により1959年 (昭和34年) 3月に架け替えられたものである。橋の高欄は石造となったが、擬宝珠はもとの形のものが十六個左右に取り付けられている。

角屋
角屋は、もと京都・島原花街(現・京都市下京区)で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)である。建物は国の重要文化財に指定され、1998年より「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。

角屋の建物は木造2階建て、屋根は切妻造、桟瓦、こけら及び銅板葺き。揚屋町の通りに東面して建つ。通りに面する表棟と、中庭を挟んで西側に建つ奥棟からなり、両者は玄関部分で接続して1棟となっている。表棟は格子造で間口31.5メートルに達する。建立年代は、古い部分は角屋が六条三筋町から移転してきた寛永18年(1641年)頃とみられるが、その後たびたび増改築を経ている。角屋には延宝年間(1673 – 1680年)の板絵図が残り、この頃までに表棟と奥棟の主要部分は完成していたものとみられる。天明6年(1786年)に隣地を購入して屋敷地を南側へ広げており、2階の「扇の間」などは天明7年(1787年)の増築である。他にも増築・改造があり、間取りは複雑になっている。

輪違屋
輪違屋は、京都府京都市下京区の花街、島原の置屋兼お茶屋である。現在も営業を続けている。 創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。 かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。

建物は昭和59年(1984年)に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的である。いずれももともとは当主の部屋であった。傘の間の傘には「高」(正確には髙島屋のマークの「高」の字体と同じ)の文字が入っているがこれは当主の姓が「高橋」だったということに由来する。 1階には近藤勇書の屏風が、2階には桂小五郎書の掛軸がある。

浅田次郎小説およびテレビドラマの『輪違屋糸里』で有名だが、糸里が輪違屋にいた との記録は輪違屋側にはない。 「維新の名花」といわれた「桜木太夫」を抱えていたのはここである(糸里が「桜木太夫」となる小説・ドラマでのエピソードはフィクショ

柳原銀行
柳原銀行は、明治期に京都府柳原町(現京都市下京区)で設立された私立銀行。被差別部落の住民により設立された日本で唯一の銀行であり、皮革業者等を取引先に抱えた。

1899年(明治32年)に、柳原町(崇仁地域)の町長経験者でもあった明石民蔵らによって設立された。その後、事業地域も京都市内全域に拡がり、1920年(大正9年)に山城銀行に改称した。しかし、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌時に取り付け騒ぎが発生して休業に陥り、その後破産に至った。 現存する建物は、商店などに転用された後、1994年(平成6年)に京都市登録有形文化財に登録され、1997年(平成9年)に柳原銀行記念資料館として開館している。

文化伝統

京都鉄道博物館
京都鉄道博物館は、京都府京都市下京区観喜寺町に、2016年4月29日に開館した鉄道博物館である。西日本旅客鉄道(JR西日本)および公益財団法人交通文化振興財団が運営する。 2014年(平成26年)4月6日に閉館した交通科学博物館の収蔵物の一部と、2015年(平成27年)8月30日に閉館した梅小路蒸気機関車館の収蔵物を展示し、梅小路蒸気機関車館を拡張・リニューアルを行い、2016年(平成28年)4月29日にグランドオープンした。 京都鉄道博物館の開館工事にあたり、蒸気機関車の解体検査や修理に特化した専用検修庫(第2検修庫)を新設した。第2検修庫では、蒸気機関車を吊り上げることができるクレーンを設置し、作業風景を外から見学できるよう、施設の一部はガラス張りになっている。

全体で展示面積は約31,000m2で、開館時点においては、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道博物館(埼玉県さいたま市大宮区)や東海旅客鉄道(JR東海)のリニア・鉄道館(愛知県名古屋市港区)を面積・展示車両数で上回り、日本最大の鉄道博物館である(2018年7月の鉄道博物館の増床により、面積では日本最大の座を明け渡している)。 当館の収蔵車両にはいわゆる「トップナンバー」と呼ばれる、製造第1号車が多く収蔵されているのも当館の特徴である。 また、梅小路蒸気機関車館時代から引き続き、構内施設の一部は車両基地(梅小路運転区)としての機能も保持している。また、営業線扱いの展示引き込み線には標識類も設置されている。

龍谷大学
龍谷大学は、京都府京都市伏見区深草塚本町67に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。 寛永16年(1639年)、西本願寺13代宗主良如が、本山阿弥陀堂の北に僧侶の教育機関として設立した学寮を起源としている。 建学の精神(校訓・理念・学是)は、真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする。2012年、「You, Unlimited」が大学のブランドスローガンとして制定された。

龍谷ミュージアム
龍谷ミュージアムは、京都府京都市下京区にある、日本初の仏教総合博物館である。世界遺産 西本願寺の御影堂門前に2011年に開館した。開設および運営は龍谷大学。

龍谷大学の創立370周年事業の一環として、親鸞の750回忌にあたる2011年(平成23年)4月5日に開館した。3階展示室のテーマは「日本の仏教」で、龍谷大学が所蔵する国宝・重文を含む仏教関連作品を公開する。2階展示室のテーマは「アジアの仏教」で、大谷探検隊のコレクションのほか、NHKの協力により新疆ウイグル自治区トルファンにあるベゼクリク石窟寺院第15号窟の回廊を原寸大で再現展示する。

祇園祭
京都祇園祭は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。

祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭と後祭の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 – 16日・後祭:7月21日 – 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。

宵山は旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。

祇園祭の大きな特徴であり魅力の1つは、山鉾が華麗な織物や染物、金物、彫刻など様々な素晴らしい工芸品類で飾られている点です。古今東西の美の結晶ともいえる山鉾の美術装飾を細見し、祇園祭の奥深さの一端に触。

自然空間

梅小路公園
梅小路公園は、京都府京都市下京区観喜寺町、八条坊門町、梅小路頭町にまたがる市営の都市公園(総合公園)である。 指定管理者制度に基づき、公益財団法人京都市都市緑化協会が運営管理している。公園南部は平清盛の邸宅西八条第に該当する。 1990年(平成2年)3月に移転した日本貨物鉄道(JR貨物)梅小路駅(現在の京都貨物駅)の跡地に、平安遷都1200年を記念して作られた京都市営の総合公園である。面積117,133m2、開園は1995年(平成7年)4月29日。

芝生広場、中央広場、いのちの森、朱雀の庭、緑の館、すざくゆめ広場、市電ひろばなどの施設がある。広大な敷地が各種行事(緑化フェア、サーカス、京都音楽博覧会など)に利用されることもある。土日、祝日にはすざくゆめ広場と市電ひろばの間を結ぶ線路で明治時代の京都市電の車両(「チンチン電車」の名で案内されている)の保存運転が行われている。 公園の北東側には京都水族館があるほか、公園西側の山陰本線(嵯峨野線)を挟んだ反対側にはJR西日本が運営していた梅小路蒸気機関車館があった(後述の京都鉄道博物館に拡張・改装するため、2015年8月30日に一旦閉館した)。

この公園で開催された「第11回全国都市緑化フェア」会場の最寄駅として、1994年9月23日から11月20日までの約2か月間のみ緑化フェア梅小路駅が設置されたこともある。

京都水族館
京都水族館は、京都市下京区にある梅小路公園内の水族館。2012年(平成24年)3月14日に開業した内陸型水族館であり、日本初の完全な人工海水利用型水族館である。

使用率100%で人工海水を利用した日本初の水族館であり、また、日本最大級の内陸型水族館である。京都駅に近い梅小路公園の核となる施設の一つで、オリックス不動産が公園の一部と隣接地を京都市から借用する形で、指定管理者として管理・運営している(総合管理業務は大京グループ内ビル管理事業会社のオリックス・ファシリティーズ株式会社が、運営業務はオリックス水族館株式会社が行う)。

地元を流れる鴨川に生息する国の特別天然記念物・オオサンショウウオを始め、ゴマフアザラシやケープペンギンなどを含む動物約250種・総数約1万5000匹を展示している。水槽総容量は約3,000 t。全水量中の約90%に及ぶ必要海水量は、設計と建設を手掛ける大成建設の高性能濾過システムによって生み出される人工海水で全て賄う。 建築物は地上3階建て・塔屋1階建て、建築面積5,948.25m2、延べ床面積10,974.29m2、最大収容人数5,000人。建築費は約60億円(総投資額は非公表)。初年度は200万人の入場者を目指している。