札幌市時計台、札幌、日本

札幌市時計台は、北海道札幌市中央区北1条西2丁目にある歴史的建造物である。重要文化財(1970年6月17日指定)。

正式名称を「旧札幌農学校演武場」と称する。現在の通称は「札幌時計台」、もしくは単に「時計台」と呼ばれ、たくさんの観光人が訪れる名所になった。

概要
三角屋根の上に大時計を載せた特徴的な外観の建築物である。

計画者は札幌農学校の2代目教頭であったウィリアム・ホイーラーであり、北辺警備に備えた訓練を目的として、安達喜幸をはじめとする北海道開拓使工業局による設計・監督の下建造された、バルーンフレーム構造の木造2階建(時計部分の塔屋を除く)である。屋根は鉄板葺き、高さは19.825m、延面積は約760m2である。

北海道大学の発祥の地であるため、同大学とは密接な関係にあり、1階の展示室では北海道大学附属図書館に所蔵されている資料が多く展示されている。この他、同大学のイベント会場としても使用されることが多く、現在でも「時計台サロン」などの市民公開セミナーなどが開催されている。また、1階売店では北大関連グッズも販売されている。

2階は貸ホールとしての機能も有しており、コンサートなどのイベントが頻繁に開催されている。

かつては札幌市の図書館として使われていたこともある。2008年(平成20年)から指定管理者制度を導入。

北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並び、札幌市中心部の有名観光スポットであり、札幌市のカントリーサインのデザインとしても使用される札幌市の象徴的建物である。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されるなど、札幌のみならず北海道の象徴とされる例も多いほか、北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われている。

壁面は白く塗られているが、1995年(平成7年)から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明した。壁は緑色に塗られていた時期もあり、白の塗装となったのは1953年(昭和28年)からである。上述の保存修理に際して、壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としている。

沿革
時計台は創建以来130余年この地にあって、札幌の街の歩みと市民生活の変化を見守ってきました。

時計台、正式名称は「旧札幌農学校演武場」

札幌農学校は、北海道大学の前身で北海道開拓の指導者を育成する目的で1876年(明治9年)年開校しました。演武場(時計台)はクラーク博士の提言により、農学校生徒の兵式訓練や入学式・卒業式などを行う中央講堂として1878年(明治11年)に建設されました。

北海道の開拓と札幌農学校の建設
明治維新後間もない1869年(明治2年)、明治政府内に開拓使が置かれ、北海道の本格的な開拓と札幌の街づくりが始まりました。1871(明治4)年、開拓次官の黒田清隆は北海道開拓の範を求めて欧米を視察し、開拓の範をアメリカ合衆国に求めることとし、同時に合衆国農務長官のホーレス・ケプロンに開拓使顧問として来日することを要請し承諾を得ました。

ケプロンは1871年7月に部下の技術者らとともに来日、開拓使顧問として北海道の開拓に係る様々な分野に渡り提言し指導を行いました。新天地を求めて本州から移住して来る各地の開拓民を積雪寒冷地の北海道に定着させるために、衣・食・住に関わる施策と産業をどのように振興するか提言したのです。その提言を基に開拓使は畑作、酪農、水産加工業、ビール醸造業の振興、洋風建築の導入等の施策を進めました。

また、ケプロンは開拓の指導者となる人物を養成する専門的教育機関の設置を強く求めました。この求めに応じ、黒田清隆は札幌に高等教育機関を設置すること、西欧の技術、学問を摂取するため教師を雇い入れることを政府に提言します。

1872年(明治5年)東京芝増上寺内に開拓使仮学校が開校し、札幌での開校に向けて準備が進められました。途中生徒全員の退校処分、再募集などの曲折の後1875年(明治8年)に札幌学校が開校、翌1876年(明治9年)に着任したクラーク、ホイーラーらの教師陣を迎えて、8月14日に札幌農学校が開校しました(8月14日は北海道大学の創学記念日となっています)。明治5年施行の学制に基づき設立された東京大学の開校(1877年4月)に先立つこと半年のことになります。

農学校の開校とクラーク博士
札幌農学校は現在の北1条西2丁目と北2条西2丁目にまたがる広さでした。西洋の知識と技術を習得するため、開拓使はマサチューセッツ農科大学長のW.S.クラーク、同校教師のW.ホイーラー、D.ペンハローを教師陣として招きました。

校長は日本人の調所広丈でしたが、農学校の教育方針や授業科目など教育面でのすべては初代教頭であるクラーク博士が定めました。それは、農業実習、自然科学、人文科学の広範囲にわたる全人的な教育を行うものであるとともに、聖書による人格教育を授業に取り込むなど特色のあるものでした。

8月14日の開校式で演説したクラーク博士は、自分の教育方針として生徒に望むことは「be gentleman! 紳士たれ!の一語に尽きる。やかましい校則はいらない。全て自己の良心に従って判断行動し勉学に励みなさい」と訓示しました。開拓使との契約により、クラーク博士は8カ月の在任期間を終え翌年4月に帰国しましたが、多くの優れた卒業生を輩出したその後の札幌農学校の発展の基礎を築いた優れた教育者でありました。

演武場の構想
明治政府は「兵農一如」の考えのもと北海道内の各地に屯田兵村を開きました。屯田兵は北海道の開拓と軍事的防備の役割を担いました。このような北海道開拓の事情を背景に、クラーク博士は母校のマサチューセッツ農科大学の例に倣い、札幌農学校生徒にも兵式訓練の授業を導入しました。有事の際に農学校生徒が屯田兵の指揮官となるとともに、開拓の指導者として強い体力を養うことを目的としたものです。この訓練を行うための施設military hallの建設を博士は提言しました。

演武場の建設
博士の提言は明治政府、開拓使の考えとも一致し受け入れられることとなりました。

クラーク博士のあとを継いで2代目教頭となったホイーラー先生が基本構想図を作り、開拓使工業局主席建築技術者安達喜幸の設計、監督により、演武場が1878年(明治11年)10月16日に完成しました。1階は研究室、講義室、動植物や鉱物の博物標本室として使われ、2階が「演武場」として兵式訓練や体育の授業に使われるとともに中央講堂として入学式、卒業式、催事場として使われました。演武場は農学校生徒にとって新たな学業生活への一歩を踏み出す場所であり、また4年間の学業を無事に終了し学位の授与を受けて社会へ巣立つ晴れの場でした。

時計塔の設置
完成した当初の演武場には時計塔はなく、授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が屋根の上にありました。演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、塔時計の設置が決まったと言われています。

1878年10月25日、ホイーラー教頭はアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計商会に塔時計を注文しました。1879年(明治12年)6月頃札幌に到着した時計機械が予想以上に大きく、鐘楼に設置できないことがわかりました。時計塔の設置には大がかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも検討されました。しかし、ホイーラー教頭は演武場に塔時計を付けて札幌の標準時刻とすることの大切さを力説し黒田長官を説得しました。こうして完成間もない演武場に時計塔を造り直し時計機械が据えつけられました。校地内の天文台(観象台)で天体観測を行い時刻調整を行ったのち、1881年(明治14年)8月12日、塔時計は澄んだ鐘の音とともに正しい時刻を札幌の住民に知らせ始めました。

札幌市民の時計台
農学校時代の演武場では、時局講演会なども行われ市民の公会堂としても使われました。塔時計は1888年(明治21年)に札幌の標準時計に指定され、1里四方に響き渡った鐘の音は「農学校の大時計」として市民に親しまれてきました。

1903年(明治36年)に農学校が移転した際、演武場は当時の札幌区が借り受けました。

この頃から演武場は「時計台」と呼ばれるようになりました。

1906年(明治39年)、札幌区は時計台を買い上げるとともに、道路整備のため時計塔をつけたまま100m程南に曳家しました。農学校の寄宿舎があった位置にあたりますが、以後この場所が時計台の安住の地になります。

現在、創建時の元の場所に近い歩道上に、「演武場跡」の石碑が建っています(この碑は、1962年(昭和37年)一市民の奉志で建てられたもので、揮毫は農学校19期生星野勇三北海道大学教授の筆によります)。

時計台は、1911年(明治44年)から1966年(昭和41年)までは、太平洋戦争中とその後の一時期を除き、図書室・図書館や公会堂として読書、勉学の場、また文学、政治経済、学術などの講演会の場として、市民の教育、文化活動の中心施設の役割を果たしました。

1963年(昭和38年)11月に制定された札幌市民憲章の前章で、『わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です』とうたわれ、時計台は札幌のシンボルとして、また市民のふるさと意識の象徴として愛され続けてきました。

1961年(昭和36)札幌市の有形文化財第1号に指定されたのち、1970年(昭和45年)、「北海道における明治洋風木造建築の代表的なもので、北海道開拓史上記念すべき遺構の一つ」として国の重要文化財に指定、1996年(平成8)には環境庁の「日本の音風景百選」に選定され、さらに2009年(平成21年)、塔時計は(社)日本機械学会より第32番目の「機械遺産」に認定されました。

建物の構造
時計台は、開拓使が建設した明治初期の木造洋風建築として、札幌農学校農園模範家畜房・穀物庫(現在、北海道大学第2農場内)、豊平館(現在、中島公園内)、開拓使工業局庁舎(現在、北海道開拓の村内)とともに札幌市内に僅かに残る貴重な歴史的建造物です。

外壁を下見板張(羽目のイギリス下見)とし、装飾の少ない外観は「カーペンター・ゴシック」とも呼ばれています。時計塔が後から付けられたため、正面の姿は「頭でっかち」でバランスが悪いとも言われますが、逆にこの独特の姿が親しみを感じさせるものとなっています。

時計台の柱組は太い柱を使っていないと考えられていましたが、先の修理工事における調査の結果、柱、梁、桁に太い木材を使った日本在来の軸組工法により近い構造であることがわかりました。しかし、2階演武場は洋風の小屋組を使用し、両側の壁の広がりを防ぐために細い鉄管(tie bar)で緊結し、柱、梁を用いずに広い空間を生み出しています。2階空間の印象から、アメリカ中・西部開拓期に流行したバルーンフレーム構法を取り入れたと考えられています。

時計台は、西欧の建築スタイルがアメリカ経由で伝わったいわゆるコロニアル建築の系譜につながりますが、構造的には国内では類例の少ない建て方となっています。これは、開拓使が招聘した欧米の技術者や農学校教師には建築専門家が居なかったことから、安達喜幸らの開拓使技術者が、欧米の「スタイルブック」(様式図集)などを基に独学で洋風建築技術を摂取し、設計施工していったことを物語っています。大工の棟梁として高い木造建築技術を持っていた安達喜幸たちですが、洋風建築技術を取り入れていくその苦心はひとかたのものではなかったことがうかがえます。

時計台の鐘が130余年経た今も正確に時を告げているのは、建物と時計塔に大きなゆがみが生じていないことによります。振子式の塔時計は、時計が据えつけられている床が水平でないと時刻が狂い、止まってしまいます。時計台の建築を手がけた安達喜幸らの素晴らしい技術による賜物と言えます。

時計の仕組み
時計台の時計は昼も夜も休むことなく動き続け、鐘は毎正時、時刻の数だけ鳴り、1日156回鳴ります。

時計の動く力のもとは、重りが下に下がる力で、この力が歯車を回転させます。しかし、そのままでは歯車は連続的に回るだけなので、この歯車の回転を一定のリズムで少しずつ回す必要があります。この役割を果たしているのが、振り子の規則正しい左右への往復運動を利用した脱進機(アンクルとガンギ車)と呼ぶ装置です。アンクルの先端がガンギ車と呼ぶ歯車の歯の先に一回一回入り込んだり、離れたりすることで歯車を少しずつ回しています。

逆に、アンクルの先端が離れるとき、ガンギ車の歯の先でアンクルの先端が左右に少しずつ押されています。この押される力が振り子に伝わり、振り子が止まらずに左右へ揺れ続けることができます。

時計台の2階ではハワード社の別の振子式塔時計を動かしています(鐘を打つ装置はついていません)。ご覧になり時計の動く不思議な仕組みを確かめてください。

展示案内
平成7年から10年にかけての改修工事が終了し、資料館として整備しました。

2階は明治32年札幌農学校卒業生として初めて博士号を授与された佐藤昌介、南鷹次郎、宮部金吾の学位授与祝賀会の時の講堂の情景を再現しています。夜間は音楽会、講演会、結婚式などのホールとして貸し出しをしています。

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