Originally posted 2020-12-16 09:31:13.
左京区は、京都市を構成する11区の内の一つ。京都府京都市北東部に位置する。 「左京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て左側の意。天皇は南面して高御座に座っていたので左は東になる。そのため北を上にした現代の地図上では右にありながら左京と呼ばれる。本来左京といえば平安京のうちの東側(洛陽または洛中)のことであったが、京都市の行政区として生まれた左京区は鴨川左岸の洛東(洛外)地域に当たる。現在はその後の市町村の統廃合により、さらに外縁の旧愛宕郡部を中心としたかなり大きなものとなっている(右京区が旧京北町と合併するまでは、京都市全11区の中で最も大きい面積の区であった。また当区の面積だけで大阪市全域よりも広い)。
有名な寺社としては東山慈照寺(銀閣寺)・南禅寺・下鴨神社・平安神宮がある。また北部には鞍馬寺・貴船神社・三千院・岩倉具視幽閉跡・修学院離宮などがある。またかつては八瀬、大原から大原女と呼ばれる山菜売りの女性が行商に来ることもあった。また、北白川には花の行商を生業とする白川女が存在していたが、現在は存続していない模様である。他に北白川の山間部には、白川砂と言う特産品もある。
旧庁舎は1931年建設で吉田中阿達町1番地 に所在していたが、老朽化に加えて手狭となったことから、2011年5月22日に旧京都簡易保険会館跡地となる現在地へ移転となった。その際に別に立地していた左京区保健センターも新庁舎に入居している。なお、旧庁舎の跡地は京都大学の東一条館となっている。
京都市佐京地区の角や路地には、小さなお店、小さな本屋さん、小さなコーヒー屋さん、小さな食料品店がたくさんありますが、それぞれが佐京の活力を感じさせてくれるようです。 取り替える独特の雰囲気。 坂崎左京地区には文化施設がたくさんあり、アートギャラリーやコンサートホールのほか、ウサギ神社や平安神社に囲まれています。
歴史
1929年(昭和4年)に上京区から分区して成立。京都市の東北部を占め、区域は南北に長い。東は滋賀県大津市に接し、南は三条通を挟んで東山区、山科区に、北は南丹市、滋賀県高島市に接している。このほか隣接はしていないものの、区の最北端部と福井県大飯郡おおい町は5km程度しか離れていない(ただし直通する道路はない)。区南部には川端通、東大路通、白川通などの通りが南北に走っている。
区南部は住宅地や文教地区になっている一方(岩倉地区などの北寄りの地域は市街化調整区域に指定されているため、高層建築物などの大規模開発が制限されている影響で、田畑も多く残る)、区北部は山間地で林業が盛んである。
地域区分
左京区基本計画などでは区全体を北部、中部北、中部南、南部の4地区に区分している。北部地区(または北部山間地域)は北山の農山村である。中部北地区は京都盆地の北に点在する小盆地の集合である。中部南地区は京都盆地の北東角に当たり、かつては近郊農村だったが近代以降は住宅地化している。南部地区は鴨川の東岸であり、古くから京都中心部と密接な関わりを持つ地域である。
より細かい地域区分としては元学区に基づくものがある。国勢統計区もほぼ元学区に基づいている。また南部の一部を除いて京都市に合併する以前の旧村名、字名などが公称町名の一部として残っており、これに基づいて区分されることもある。
吉田
吉田は、京都府京都市左京区南部の地名(広域地名)。ここでは「吉田」を冠称する左京区内の各町の総称として用いる。左京区の南部に位置し、吉田山(神楽岡)を中心とする丘陵部、およびその西側の台地一帯からなる。北は今出川通を挟んで田中・北白川、東は浄土寺・黒谷町(金戒光明寺(黒谷寺))、南は岡崎・聖護院、西は鴨川を挟んで上京区に接する。境域はかつての京都府愛宕郡吉田村(郡区町村編制法による)、および京都市編入(1889年)後の上京区吉田町の村域にほぼ相当する。この境域のかなりの部分が吉田神社を中心とした吉田山の緑地、および京都大学吉田キャンパスが占めていることから、住宅地であると同時に、学生向けの定食屋・喫茶店などが多く立地する学生街としての性格も併せ持っている。一部を除き小学校区は第四錦林学区、中学校区は近衛学区に属する。
北白川
北白川は、京都府京都市左京区の東部に存在する地域(広域地名)である。ここではおおよそ、左京区内の「北白川」を町名に冠する地区の総称として用いる。かつては志賀越道(山中越)の街道集落として栄え、明治時代からは白川の水車を利用した工業も発達する。その他特産品としては花崗岩およびその加工物としての白川石、白川砂が著名。またかつては花の栽培・行商も盛んであり、その行商人は「白川女」(しらかわめ)と呼ばれていた。現在は高級住宅地としての趣が強い。
左京区の東に位置し、おおよそ東を東山、西を高原通、南を今出川通、北を東鞍馬口通に囲まれた一帯。西部は京都大学のある吉田および田中、南部は浄土寺、北部は一乗寺、東部は銀閣寺前町および銀閣寺町、さらに県境に位置するため、滋賀県大津市とも隣接する。また、厳密には南東部、大文字山(如意ヶ嶽)山中で鹿ヶ谷とも隣接している。かつての愛宕郡白川村である。
南部、西部は白川による「北白川扇状地」と呼ばれる谷口扇状地帯となっており、主に黒雲母花崗岩砂礫で形成されている。東山の西麓(京都側)では最も規模の大きな物であり、東大路通あたりまでが範囲に含まれる。また、追分町近辺は縄文時代には低湿地帯であったと推察されている。
地域の北東部は白川と京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線(志賀越道、山中越えなどと呼ばれる)に沿った山間部であるが、西部、南部は平坦な土地である。東山(特に比叡山、大文字山)の山裾に拡がる地域で、地域内に瓜生山(うりゅうざん、うりゅうやま。標高301m)と呼ばれる山が存在する。
洛外(平安京の外)であるため、照高院御殿跡の他には特に著名な史跡が多いというわけではないが、縄文時代の遺跡や石器、縄文土器も見つかっており、居住地としての歴史は長い。また、京都盆地の東端に位置する郊外であり、1880年代ころは、四条や寺町京極へ出かけることを「京へ出る」と表現していた。
特産品として白川砂という、花崗岩質の白い砂があり、庭園など向けに使用されている。また、古くは「白川女」(しらかわめ)と呼ばれる、女性による花の行商の風土が存在した。
下鴨
下鴨は、京都盆地北東部の賀茂川(鴨川)と高野川が合流する地点の北側に広がる地域である。京都市左京区に属する。 日本の首都が平安京に移る前から賀茂氏一族が住んでいた地域であり、賀茂氏の氏神であった賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)のうち、下鴨神社の周辺を指して下鴨と呼ばれるようになった。中世には下賀茂とも呼ばれていた。上賀茂・下鴨神社の社領であったため近代に入るまで仏教寺院が建てられたことはなく、のどかな農村地帯であった。
江戸時代以降は愛宕郡蓼倉郷下鴨村に属していたが、1918年(大正7年)に京都市上京区に編入された。後に上京区が分割されたため左京区に属することになった。1934年(昭和9年)には北大路通が整備されるとともに京都市電北大路線が高野まで開通して交通の便が良くなり、これを契機として住宅地の開発が進んだ。また、大正から昭和初期にかけて京都府立植物園、京都府立大学、洛北高校、京都府立総合資料館、松竹京都撮影所(後に太秦へ移転)などが建てられ文教地区ともなっている。
岩倉
岩倉は、京都府京都市左京区南部に位置する地域。ここでは「岩倉」を町名に冠する京都市左京区の各町を包括する広域地名として用いる。 山林部が大半を占める左京区全体で見れば南半部に位置するが、京都市中心部(市街地)からはやや東北に離れた近郊地域である。北方の若丹山地と南方の松ヶ崎丘陵(宝ヶ池周辺の丘陵地)に囲まれた岩倉盆地を中心とする地域で、鉄道や主要道路に沿って形成された小市街地が盆地の中心部になっている。盆地中央部を岩倉川、西部を長代川、東部を長谷川、南部を花園川が流れ、これらを併せた岩倉川は東接する上高野地域に入って高野川に合流する。
第二次世界大戦後の急速な開発の進展により、近郊住宅地および文教地区として知られるようになったが、大部分が第一種低層住居専用地域となっているため、農地や山林部も市街地の周辺にはまだまだ豊かに残っている。境域はかつての京都府愛宕郡岩倉村にほぼ一致する。
大原
大原は、京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された。
名所旧跡
慈照寺
慈照寺は、京都府京都市左京区銀閣寺町にある、臨済宗相国寺派の仏教寺院。相国寺の境外塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府第8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
山号は東山。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。
平安神宮
平安神宮は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。 社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現である。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。1895年(明治28年)に完成、本殿は1976年(昭和51年)1月1日未明に出火した火災により焼失。1980年春に再建。
南禅寺
南禅寺は、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ
吉田神社
吉田神社は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 正式には「斎場所大元宮」(さいじょうしょだいげんぐう)という吉田神社の末社である。現代ではいくつかある末社のうちの一つの扱いであるが、明治に入るまでは吉田神社の信仰の中心であった。
吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。
賀茂御祖神社
賀茂御祖神社は、京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 国際連合教育科学文化機関の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。 本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。 神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。 御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。
詩仙堂
詩仙堂は、京都市左京区にある、江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡。国の史跡に指定されている。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺という。 寛永18年 (1641年)、丈山59歳の時に造営され、丈山は寛文12年 (1672年)、90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。 「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行くと、石段の上に「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は3階建の「嘯月楼」となっており、その右手 (西側) には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋がある。このうち嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築で、他は後世の改築である。
庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春 (5月下旬) のサツキと秋 (11月下旬) の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水 (そうず) と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。
曼殊院
曼殊院は、京都市左京区にある天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、開山は是算である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。紅葉の名所である。 他の天台門跡寺院と同様、最澄(767年 – 822年)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃に北山(現・京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現・京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。
寺伝では延暦年間(782年 – 806年)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。円仁、安恵らを経て、天暦年間(947年 – 957年)、是算国師の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したという。曼殊院ではこの是算を初代としている。
修学院離宮
修学院離宮は京都市左京区修学院の比叡山麓にある皇室関連施設。17世紀中頃(1653年(承応2年) – 1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。宮内庁京都事務所が管理している。 修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。見学には、事前に宮内庁京都事務所に、郵送・直接申請あるいはインターネットを通じて申し込んで許可を得る必要がある。また18歳未満の者の見学は不可である。
なお、修学院離宮の「修学院」は離宮の名称でなく、離宮の所在する地名の旧称、すなわち(山城国愛宕郡)修学院村(現在の京都市左京区修学院などを含む)を意味し、その名はかつてこの近隣に所在していた寺院に由来するものである。
赤山禅院
赤山禅院は、京都市左京区にある天台宗の寺院。延暦寺の別院(塔頭)の一つ。本尊は泰山府君(赤山大明神)。京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たるため、方除けの神として古来信仰を集めた。拝殿の屋根の上には御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。紅葉の名所でもある。また、「修学院歴史的風土特別保存地区」の指定を受けている。
開創は、仁和4年(888年)。「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により安慧が、唐の赤山にあった道教の神・泰山府君(赤山大明神)を勧請して建立したのが赤山社(後に赤山禅院に改称)である。しかし、安慧は貞観10年(868年)に没しており、仁和4年(888年)の創建には疑問が残る。 比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
宝が池公園
宝が池公園は、京都府京都市左京区にある公園。園域は宝が池を中心に国立京都国際会館、グランドプリンスホテル京都に隣接する。 宝が池は江戸時代宝暦年間に農業用のため池として作られた人工池で、もともと湧水があった深田の東側に堤を作ってせきとめたものである。1855年(安政2年)に拡張工事が行われ、現在の広さとなった。明治までは単に溜池、北浦溜池などと呼ばれ、1911年(明治44年)に発行された文書に宝池の名が初めて出ている。宝が池の名前の由来には水不足に苦しんでいた松ヶ崎にできた溜池は宝のように思われた、池の形が分銅形でお金にたとえられた、宝暦年間にできたものだから、などの諸説がある。
この池を市民の憩いの場として利用するために宝が池公園が作られた。比叡山と国立京都国際会館を借景として楽しむ遊歩道とボート遊びが出来る本体部と、山を越えて市営地下鉄松ヶ崎駅側にある運動公園、子供向けの遊戯施設がある「こどもの楽園」と、本体部とこどもの楽園を結ぶ「いこいの森」部分から成り立つ。 四季を通じて花の名所であるように設計されており、特に春の桜の時期は非常に混雑する。野鳥観察の施設もあり京都市内とは思えないほど自然に溢れている。また、池の周囲の遊歩道では近辺の市立小中学校のマラソン大会が恒例行事となったり、ジョギングをする者も少なくない。
国立京都国際会館
国立京都国際会館は、日本の国際会議施設の一つ。京都府京都市左京区岩倉に所在し、宝が池公園に隣接する。運営は、公益財団法人国立京都国際会館。日本で最初の国立の会議施設であり、ここで京都議定書が採択された。 敷地面積156,000m2。建築物は、日本人建築家・大谷幸夫の設計による代表作である。
実相院
実相院は、京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗派は単立、開山は静基(じょうき)。本尊は不動明王(鎌倉時代作の木像)。門跡寺院の1つである。岩倉実相院門跡とも呼ばれる。かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。 鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、上京区今出川小川(現・実相院町)に移転する。その後応仁の乱を逃れるため文明6年(1474年)、園城寺の別院・大雲寺に隣接する塔頭成金剛院の跡地である現在地に移転する。しかし室町時代末期までに多くの堂舎が戦火で焼失した。
江戸時代初期に室町幕府将軍であった足利義昭の子義尋と古市胤子との子である義尊が入寺し門主となっている。なお、弟の常尊は円満院門主であり、また母の胤子は義尋没後に後陽成天皇の後宮となって子をもうけ、後に聖護院門主道晃法親王となったので天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡はすべてこの兄弟が門主に就任し、統括している。
三千院
三千院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。 京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。
三千院の境内は、境内南を流れる呂川と北を流れる律川という2つの川に挟まれている。呂川・律川の名は声明(仏教声楽)の音律の「呂」と「律」に由来する。境内南側には往生極楽院の正門にあたる朱雀門、西側には御殿門があるが、拝観入口は後者である。御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である政所の入口にふさわしい重厚な門構えである。前述の石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆の築いたものである。
門から入り、大玄関から拝観順路に沿って進むと、客殿、宸殿、及びこれらを囲む庭園があり、庭園内に往生極楽院が建つ。その庭園にはわらべ地蔵が数体佇んでいる。 そこから歩いていくと弁財天が祀られており、さらに石段を上って奥の院へ進むと金色不動堂、さらに上ると観音堂がある。このほか、律川沿いには阿弥陀石仏(売炭翁石仏)や、御殿門を入った南側には写経場の円融房(えんにゅうぼう)と収蔵庫兼展示施設の円融蔵がある。
寂光院
寂光院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院で尼寺。山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は聖徳太子と伝わる。平清盛の娘・建礼門院徳子が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られている。 寂光院の草創について明確なことはわかっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされる。当初の名称は玉泉寺で太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖・良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。
現在、当院では史料がなく詳細が分からないため、建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍(信西の息女、証道比丘尼)を第2代の住職としている。阿波内侍は「大原女」のモデルとされる。
阿弥陀寺
阿弥陀寺は、京都市左京区大原の北側に位置する古知谷(こちだに)にある浄土宗の寺院。山号は光明山。院号は法国院。古知谷阿弥陀寺ともいう。
1609年(慶長14年)3月、弾誓(たんぜい)上人が開山した念仏道場である。弾誓は尾張国の出身で、9歳で出家後、諸国を行脚して修行の後、この地に来た。開山から4年後の1613年(慶長18年)5月23日、弾誓は当寺で62歳で示寂した。弾誓は体質を樹脂化したうえで自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられる。当寺の本堂脇の巌窟内の石棺には弾誓の遺骸(即身仏)が安置されている。日本で最南端かつ最西端の即身仏とされるが、明治初年に現在の石棺に収められた後は一切公開されていない。体の保存状態が良くなかったことが原因と考えられているが、詳しい理由はわかっていない。石棺にはすぐ近くまで行くことができる。
鞍馬寺
鞍馬寺は、京都府京都市左京区鞍馬本町に所在する寺である。1949年(昭和24年)までは天台宗に属したが、以降、独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山(くらまやま)。鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)によって開山されたという。本尊は、寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。 京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国三十三箇所第19番札所である。
寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少の弟子であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。
『今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音菩薩を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたものであろう)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀』延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。
貴船神社
貴船神社は、京都府京都市左京区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。
貴船山と鞍馬山に挟まれた、森林鬱蒼とする山峡に鎮座する。社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、京の市中を潤す鴨川の源流とも考えられた。水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたといい、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。これが現在の絵馬の原形となったため、貴船神社が「絵馬発祥の社」といわれる。さらに木または紙に描かれた馬の絵によって代用されるようになり、江戸時代に入って個人が小型の絵馬を神社に奉納する習慣が広くする流行するにいたった。
無鄰菴
無鄰菴は山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭。「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がないことによる。 あるいは『論語』「徳不孤必有鄰」 “徳は孤ならず、必ず隣あり” にあるかもしれない。
第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。本項では主にこの第三の無鄰菴について説明する。
禅林寺
禅林寺は、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。通称の永観堂の名で知られる。山号を聖衆来迎山と称する。紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。 空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033年 – 1111年)の時に念仏の寺へ変化を遂げる。永観は文章博士の源国経の子として生まれた。11歳で禅林寺の深観(花山天皇皇子)に弟子入りし、東大寺で南都六宗のうちの三論宗を学ぶ。三論宗には奈良時代の智光以来の浄土教の思想があるが、浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に戻るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、東五条の悲田院の近くの薬王寺に阿弥陀像を安置して、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。
京都会館
ロームシアター京都は、京都府京都市左京区岡崎最勝寺町にあるコンサートホールである。正式名称は京都会館(きょうとかいかん)。
京都市の所有で、開館時の設計は前川國男。1960年(昭和35年)に開館。2012年より一部の改築および改修が行われた。それに伴いネーミングライツ(命名権)による現名称に改称し、2016年1月10日にリニューアルオープンした。
思古渕社
思古渕社は、京都府京都市左京区久多中の町にある神社である。志古淵神社とも称される。旧社格は村社。 七シコブチのひとつ。創祀年代は不詳であるが、天福元年(1233年)の『久多□(「荘」カ)田代注進状』には既にこの地に鎮座していた記録が残る。
文化伝統
京都市美術館
京都市美術館は、京都府京都市左京区岡崎の岡崎公園にある美術館。1933年(昭和8年)開館。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目に開館した。 京都市内にある国公立の博物館・美術館4館 で構成する「京都ミュージアムズ・フォー」の1つである。
コレクションは明治以降 – 1990年(平成2年)頃にまで至る日本画、洋画、工芸作品などが中心。主な展覧会はこれらコレクションを年数回テーマを変えて展示換えする常設展のほか、各種公募展、大学の卒業展などがある。また、新聞社主催の大規模展覧会が集客の核になっている。
2020年のリニューアルに伴い京セラが命名権を取得し、2020年(令和2年)3月21日の再オープンに先立ち2019年から京都市京セラ美術館の呼称を用いている。なお、伏見区の京セラ本社にある京セラギャラリー(旧称:京セラ美術館)とは異なる。
京都国立近代美術館
京都国立近代美術館は、京都市左京区岡崎の岡崎公園内にある、独立行政法人国立美術館が運営する美術館である。
日本の近代美術史全体に配慮しながら、京都を中心に関西・西日本の美術に比重を置き、京都画壇の日本画、洋画などを積極的に収集、展示し、河井寛次郎の陶芸、染織など工芸作品のコレクションも充実している。 現在の建物(新館)はプリツカー賞建築家槇文彦による設計で1986年(昭和61年)に竣工した。
立陶板名画の庭
京都府立陶板名画の庭は、京都市左京区下鴨にあり、古今の名画を陶器の板に転写して展示している、屋外美術館である。 陶板画は、原画を撮影したポジフィルムを元に、写真製版技術により陶製の板に転写し焼成したものである。その性質上、変色や腐食が起こらないので、屋外にあっても永く保存することが可能である。どの絵も複数の陶板で構成されている。
この種の美術展示施設としては、世界初のものである。 展示されている絵画は世界の名画8点が選ばれており、内4点は元々1990年の国際花と緑の博覧会の為に制作され、安藤忠雄の設計によるパヴィリオン『名画の庭』に展示されていた。残り4点は、この施設の為に作られたものである。 制作は、大塚オーミ陶業株式会社の信楽工場で行われた。 これらの陶板画は、堺屋太一の企画発案により、所有者であったダイコク電機取締役、栢森新治より京都府に寄贈されたもの。 オープンエアの建物は、安藤忠雄の設計により平成6年(1994年)3月に完成した。
京都府立図書館
京都府立図書館(きょうとふりつ としょかん)は、京都府京都市左京区岡崎成勝寺町にある京都府立の公共図書館である。日本で初めての公立の公開図書閲覧施設である京都集書院を前身とし、1909年(明治42年)に現在地である岡崎の地に開館した。 建物は鉄筋コンクリート構造であり、地上4階と地下2階からなる。延床面積は7,477 m2である。
1階には京都関連資料、日本文学関連資料、大活字本、地図が配架されている。また、利用者登録や図書の貸出・返却を行うためのカウンターがある。2階はマルチメディア閲覧室であり、音声・映像資料の利用や、インターネット、新聞、マイクロフィルムの閲覧が可能である。また、学びあいや議論の場にできるナレッジベースと呼ばれるスペースがある。地下1階には図書・雑誌が配架されており、調査相談、書庫内資料の利用、複写のためのカウンターがある。また、集密書庫と自動化書庫が設けられている。
京都工芸繊維大学
京都工芸繊維大学は、京都府京都市左京区松ヶ崎橋上町に本部を置く日本の国立大学である。1949年に設置された。
1949年(昭和24年)、旧制の京都工業専門学校・京都繊維専門学校を母体として設立。永らく工芸学部と繊維学部の2学部体制であったが、2006年(平成18年)両者を統合して「工芸科学部」が発足した。国立の工科系単科大学であり、電子工学、機械工学、情報工学、生物学、化学などの先端科学技術分野から繊維学、建築学、デザイン学まで幅広い分野において、ものづくりを基盤とした「実学」を目指した特色ある教育研究を行っている。中でも、「科学」と「芸術」の融合を強く意識したカリキュラムは国内の学術研究機関としては異色だっており、産学協働においては、特に博士課程においてイノベーションを起こせる人材育成に力を入れ、多数の海外大学や外国人デザイナーとも連携している。その要となるのが2014年に設立した「京都デザインラボ」(D-lab) である。芸術系の学域を持つ工科大学として、有機的な教育カリキュラムによる「科学と芸術の融合」を掲げ、感性豊かな国際的工科大学を目指している。
並河靖之七宝記念館
並河靖之七宝記念館は、京都府京都市東山区にある博物館。明治期から大正期に活動した日本の七宝焼き作家・並河靖之の作品を保管・研究・公開するとともに、作者ゆかりの建造物や庭園を保存し、もって工芸文化の向上に資することを目的としている。
京都市東山区の北端近く、三条通の一筋北に位置する、並河靖之の七宝の作品と工房跡を公開している展示施設である。 日本国外では「七宝といえば”Namikawa”」として、東京の濤川惣助とともに、その名が認められてきた七宝作家・並河靖之の邸宅兼工房として建築された建物を改装し、靖之の作品130点余りを所蔵。 邸内には、「植治」こと七代目・小川治兵衛の作になる庭園が残されている。
川島織物セルコン
株式会社川島織物セルコンは、主に呉服商から室内装飾に始まり、今日ではインテリア商品や内装材などを製造する繊維会社。本社は京都市左京区。前身は京都の名門インテリアメーカー「川島織物」と神戸のインテリアメーカー「セルコン」。
また、織物文化館を併設しており、染織品をはじめ、精緻で優美な帯や美術工芸織物、さらに日本で最初に室内装飾織物を手掛けた史資料が数多く所蔵されており、織物文化の歴史を知ることができる。
自然空間
京都市動物園
京都市動物園は、京都府京都市左京区岡崎にある京都市立の動物園である。正式名称ではないが「岡崎動物園」と呼ばれることもある。周囲には平安神宮、南禅寺、ロームシアター京都、京都市京セラ美術館、京都府立図書館がある。
京都府立植物園
京都府立植物園とは、京都市左京区にある植物園。 日本で最初の公立植物園として、1924年(大正13年)1月1日に開園した。1946年(昭和21年)から12年間は連合国軍に接収され閉園を余儀なくされたが、1961年(昭和36年)4月に再開した。
園内には観覧温室のほか、正門花壇、はす池、ばら園など20ほどのエリアがあり、面積24ヘクタールの広大な敷地にテーマ別に約12000種類、約12万本の植物が植えられている。日本の四季の花が見られる花壇や洋風庭園、熱帯植物を集めた温室がある。北半分は半木の森と呼ばれる自然に近い森を利用した生態植物園などがある。
岡崎公園
岡崎公園は、京都府京都市左京区岡崎にある都市公園(総合公園)である。1895年開催の内国勧業博覧会の跡地に開かれた公園。 京都市美術館、京都国立近代美術館、ロームシアター京都、京都市勧業館、岡崎グラウンド、京都府立図書館、京都市動物園、平安神宮など、京都の文化・観光・産業施設が集まっている。公園の南端、西端には、琵琶湖から引かれた琵琶湖疏水の水路とインクラインがある。
この広範なエリアをしばしば岡崎公園と呼ぶが、狭義には、同名の公園が平安神宮の南側にあり、テニスコートが隣接している。京都市は2015年に、観光案内所として大宮交通公園に保存されていた京都市電1800形電車1860号を移設し、同年12月5日より「岡崎・市電コンシェルジュ」として運営している。また、同年9月より、再整備計画として、岡崎公園の中央を南北に通る神宮道の二条通〜冷泉通間の車道をプロムナード(歩行者天国)化した。
勧業館
京都市勧業館は、京都府京都市左京区にある、イベント会場である。通称:みやこめっせ。1996年(平成8年)に建てられた建物は川崎清の設計で、平安建都1200年記念事業の一つとして建設された。また、館内は常設展示(京都伝統産業ミュージアム、日図デザイン博物館)とイベント用の複数の展示場、会議室などがある。展示場の延べ面積は京都府で最大。
前身の京都市立勧業館は、1937年(昭和12年)10月に竣工、1991年(平成3年)11月30日に閉館した。その後建て替えが行われ、現在の建物は1996年(平成8年)5月8日に完成式が行われた。「みやこめっせ」という愛称は、平安建都1200年記念事業として公募した結果、2685点の応募の中から選ばれた。 岡崎公園の勧業館としては、1911年移築の第一勧業館、1913年建設の第二勧業館に遡ることができる。現在の施設は、1934年の室戸台風により倒壊した第二勧業館の跡地に建てられている。
哲学の道
哲学の道は京都府京都市左京区にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。 永観堂付近にある熊野若王子神社前の冷泉通若王子橋を南端として始まり、東山山麓の琵琶湖疏水に沿って銀閣寺西の今出川通銀閣寺橋を北端として続く約1.5kmの散歩道。幅員は広くないが、沿道に多くの樹木が植わる。沿道の横には、熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れ、疏水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉と四季折々に景色が変化する自然の美しい区間で、京都で最も人気のある散歩道として訪れる人が多く、桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。近年は廃業した喫茶店に住み着いた多くの猫が有名になりつつある区間でもある。それより北側は両側が住宅地となり、疏水の両岸に桜並木が植えられている。歩道も東側にもある場合があるが、よく整備されているのは西側だけである。日本の道100選にも選ばれている。
哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。寄贈の経緯は画家として大成した関雪が、京都に対する報恩を考えた際によね夫人が桜を植えてはどうかと発案をした事による。当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、佐野藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。代替わりをした今でも桜並木の名称として「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれている。
交通
左京区は京都における北陸への玄関である。古来より鯖街道と呼ばれる海産物の運送ルートが何本も走っていた。現在でも国道367号線は京都と福井を結ぶ幹線道路である。
鉄道網としては、1989年(平成元年)10月5日の京阪鴨東線開業により、区内のほぼ全体から大阪方面へのアクセスが格段に良くなったほか、1997年(平成9年)6月3日には京都市営地下鉄烏丸線国際会館駅が延伸開業し、主に岩倉・松ヶ崎地区から京都駅をはじめ市内中心部、および近鉄京都線沿線へ結ばれるようになった。
一方、区内のバス路線網は京都市営バス(区内には烏丸営業所錦林出張所あり)または京都バス(区内には高野営業所あり)が主に担当している。