嵯峨・嵐山エリア、日本京都観光ルート

嵯峨エリア、五山の送り火の一つ、鳥居形を見上げつつ、数多くの名刹で歴史ロマンを感じたり、伝統の街並みを散策したり。京都の夜空を送り火が照らす、8月16日。五山送り火の中で最後に点火される鳥居形は、嵯峨の曼荼羅山に位置しています。この嵯峨界隈は、北西へと延びる道の左右に名刹が点在。歴史ロマンが堪能できるエリアです。この道をさらに進むと、また異なる魅力に出会えます。愛宕神社の門前町と農村の両方の性格を持ち合わせて発展してきた「嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区」に指定された街並みが広がり、町家風民家や茅葺きの農家風民家が美しい自然を背景に立ち並んでいます。ここまで足を伸ばして、嵯峨の歴史を感じてみませんか。

嵐山エリア、ピンク、緑、赤・黄色、そして白、保津川、渡月橋、嵐山が織りなす季節の風景に心奪われる。桂川にかかる渡月橋越しに見る雄大な山々。春は一面の桜でピンクに染まり、夏はさわやかな新緑をまとい、秋は赤や黄など紅葉の複雑な色彩で彩られ、冬は美しく雪化粧。一年を通して、訪れる人の目を楽しませてくれる景勝地です。ここ渡月橋を散策の起点に、野宮神社から天龍寺北門を通り、大河内山荘へと抜ける約400メートルの竹林の小径をゆっくりと歩いたり、足腰に自信のある人は、嵐山の中腹にある大悲閣 千光寺まで山道を登り、景色を楽しんだり。通り沿いには飲食店や土産店が並び、渡月橋そばには甘味を味わえる店もあります。

嵯峨野
嵯峨野は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険しなどの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。

古来、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められたとされている。平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの絶好の遊猟、行楽地だった。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、その崩御後に外孫の恒寂入道親王(仁明天皇廃太子の恒貞親王)がこれを大覚寺として改めた。882年(元慶6年)に嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族・文人などによる山荘・寺院建立が相次ぐ事になる。藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだと伝えられ、時雨亭跡とされる遺跡が厭離庵、二尊院および常寂光寺に残っている。また、奥嵯峨の化野は、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地であった。

鎌倉時代中期の1255年(建長7年)に後嵯峨上皇が亀山殿(嵯峨殿)と呼ばれる離宮を造営し、1268年(文永5年)に出家して大覚寺を新たな御所とする(「嵯峨御所」)。大覚寺は後嵯峨上皇崩御後には引き続いて亀山法皇の御所となり、その子孫は大覚寺統と称された。南北朝時代に敵対していた南朝(大覚寺統)の後醍醐天皇の崩御の知らせを聞いた室町幕府の足利尊氏が嵯峨野に天竜寺を造営したのも、ここが大覚寺統ゆかりの地であった事による。こうした風景が大きく変わるのは、江戸時代初頭の1606年(慶長11年)に角倉了以が保津川を改修して大堰川を開いて以後のことである。嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが並ぶようになった。江戸時代の嵯峨の石高はほぼ2,400石で推移して公家領・門跡領による相給となっていた。明治以後に変遷を経て、1903年(明治36年)に葛野郡嵯峨村となり、1923年(大正12年)に嵯峨町となって、1931年(昭和6年)に京都市に編入された。その後、1970年(昭和45年)に新丸太町通が開通して以来、急速に発展した。野宮神社周辺の竹林が有名である。 明治の大合併により葛野郡太秦村に含まれることになった、藩政村時代の嵯峨野村にあたる地域(右京区嵯峨野○○町で示される地域)のことを指す場合もある。

嵐山
嵐山は京都府京都市の観光地。国の史跡および名勝に指定されている。本来地名としては西京区(桂川の右岸)を指し、左岸は右京区嵯峨であるが、観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋周辺全域を一まとめに嵐山と称することが多いため、ここでは渡月橋周辺全域としての嵐山を扱う。 嵐山は桜や紅葉の名所である。日本さくら名所100選並びに日本紅葉の名所100選に選定されている。京都市街の西に位置し、平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地となっている。嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴になっている。なお渡月橋をはさんで上流が大堰川、下流から桂川と呼称が変わる。JR山陰線の北側には嵯峨野と呼ばれる観光地が広がっている。

元来は寺社めぐりや紅葉などの景観が観光の主体であった。1980年代には渡月橋の北側を中心にタレントショップが急増し、修学旅行生など若い観光客で賑わう一方で、雰囲気が破壊されるとの批判もあった。バブル崩壊後はこうしたタレントショップは減少し、現在はほとんど存在しない。1990年代以降、小規模な博物館の開館が相次ぎ、2004年(平成16年)には温泉が掘削された(嵐山温泉)。

2013年(平成25年)9月16日に大規模な水害に見舞われ、多くの旅館や売店が被災したが、紅葉シーズンに間に合うように復旧が進められ、10月初めまでにほとんどの施設が再開した。 大堰川の上流の保津川の流域では林業が盛んであり、かつては伐採した木材を京都の街に運ぶために川が使われた。嵐山はその終着点であり、現在では同じコースを遊覧船で下る「保津川下り」が亀岡市から体験できる。

観光スポット

京都府立嵐山公園
渡月橋を挟んで桂川上下流に広がる府立都市公園で、面積は10.6ヘクタール。明治末期に開かれた上流左岸の亀山地区と、清流の中州にある中之島地区、昭和になって開かれた下流左岸の臨川寺地区の三地区からなっている。府内随一の景勝地で四季を通じ観光客が絶えることはない。

渡月橋
渡月橋は、京都府京都市の桂川(大堰川)に架かる橋。渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。橋長155m、幅12.2m。車道は2車線で、両側に一段高くした歩道がある。観光名所であるとともに、桂川の両岸地域を結ぶ重要な交通路で、京都府道29号の一部となっている。また、南詰は京都八幡木津自転車道の起点となっている。現在の橋は1934年(昭和9年)に完成した鉄骨鉄筋コンクリート桁橋である。景観との調和を図るため意匠は木製の旧橋を受け継いでおり、橋面は中央部が約1m高い弓なりの形状で、高欄も従来の橋と同じ木造角格子式が採用された。観光パンフレットなどにはこの橋が写り込んだ写真が多用されるほか、映画やテレビドラマの撮影で多用されていることもあり、観光地としての嵐山を象徴する建造物ともなっている。

亀山上皇が詩に詠んだ嵯峨嵐山を代表するスポット、嵯峨野と嵐山を隔てて流れる桂川に架かる橋。承和年間(834 – 848)に僧道昌によって架橋したのが最初とされており、現在の位置には後年に角倉了以が架けたとされる。現在使われている橋は昭和9年(1934年)6月に完成したものである。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられた。嵐山を代表する観光名所であり、春と秋を中心に多くの観光客で賑わう。12月には嵐山花灯路で、夕方から夜にかけて橋がライトアップされる。

欄干が木造であることから、自動車が衝突した際に欄干を突き破って川底に落下したり、捨てられた煙草の火によって欄干が燃える事故が発生することがある。長らく橋には照明施設が無かったが、地元の任意団体である「京都嵐山保勝会」が関係機関の協力を得て橋の上流にあたる西高瀬川との分岐部にサイフォン式小型水力発電機を設置し、そこで得られた電力により、夜間帯にLED照明を用いて橋を照らしている。また、関西電力と相互に供給できる体制(系統連系)が採られており、逆潮流(同電力への売電)による利益は周辺の清掃などの活動資金に使われている。

嵐山‐高雄パークウエイ
保津峡展望台から見た景色です、四季の風に誘われて、ここは都の憩い道。嵐山と高雄を結ぶ10.7kmの有料道路です。山間に広がる自然の中にバーベキューコーナー、ドッグラン、遊園地、菖蒲谷池のボート乗り場などのレジャー施設や京都市内や保津峡を望む展望台があります。また、沿道の桜やミツバツツジ、紅葉、フラワーパークのコスモス園など、四季折々の景色をお楽しみいただけます。高雄三尾の散策にも便利な大駐車場を完備したレジャーエリアです。

嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線
嵯峨野観光線は、京都府京都市右京区のトロッコ嵯峨駅から京都府亀岡市のトロッコ亀岡駅までを結ぶ嵯峨野観光鉄道の鉄道路線である。日本初の観光専用鉄道である。 嵯峨野観光鉄道株式会社は、嵐山観光の定番。トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの7.3kmを約25分で結び、四季折々の保津川渓谷の美しさを満喫できる観光列車。トロッコ嵯峨駅では日本最大級の鉄道ジオラマ「ジオラマ京都JAPAN」や本物のSLを展示している19世紀ホールも併設しています。乗車券 (全車 指定席 )は 乗車日 の1ヶ月前からJR西日本のインターネット予約サービス「 e5489」および 京阪神エリアの一部の駅、全国の主な旅行会社で発売します。

嵐山通船株式会社
桂川・渡月橋上流の大堰川を営業エリアに、舟遊びの屋形船、夏には鵜飼見物船を運航。鵜飼見物船は7月1日~9月23日の19:00から(9月は18:30から)、舟遊びは基本、貸し切りで運航しており、船頭が竹竿1本で上流約1km遡り、乗船した所に戻ります。(約30分)。手漕ぎの貸しボートもある。京福電車、阪急嵐山すぐ。 

嵐山モンキーパーク いわたやま
嵐山の支峰・岩田山にある6000平方メートルの野猿公園。野生ニホンザルが130頭余り自然の状態でおり、野鳥や昆虫、植物などとともに自然を身近に観察し、体験できる絶好の場。京都市内が一望できる。

大河内山荘
大河内山荘は京都市右京区嵯峨にある日本庭園。時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園である。

京都・嵐山花灯路
京都・嵐山花灯路は、12月中旬に京都府の嵯峨、嵐山周辺地区に約2500基の行灯を点し、夜の散策を楽しむ趣向の2005年(平成17年)12月から始められた「灯り」をテーマとする観光イベントである。主催は京都・花灯路推進協議会。 嵐山から嵯峨一帯にかけて広がる歴史的、文化的景観を活かし多数の路地行灯や生け花の花をあしらうことで華やぎと陰翳を付与、日本情緒を演出することで京都の夜の新たな風物詩となることを目指し、冬季の観光客を呼び込むべく始められた観光イベントである。道の総延長距離は約5km。主催者の目指すテーマは「思わず歩きたくなる路」。

京都の夜の新たな風物詩を創出すべく地元観光業界が、2003年(平成15年)3月より東山地域において、「灯り」をテーマとする新たな観光事業『京都・花灯路』を始めた(京都・東山花灯路参照)。2005年(平成17年)12月からは当嵯峨・嵐山地域においても実施されるようになる。6年目の2011年にして来場者が100万人を突破し、102万1000万人となった。

小倉山
小倉山は京都市右京区にある標高296mの山。桂川の北岸に位置し、南岸の嵐山と相対する。雄蔵山や小椋山、隠椋山と称されることもある。小倉山の西麓と南麓は桂川(保津川、大堰川とも)が流れ、東麓は嵯峨野、北東麓は古くから葬送の地として知られる化野(現・嵯峨鳥居本地区)である。紅葉の名所で、歌枕としても有名。鎌倉時代の歌人藤原定家が、厭離庵近くの小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされる。現在、常寂光寺や二尊院、厭離庵など時雨亭跡とされる小倉山荘推定地が残されている。また、小倉山の周辺には「小倉百人一首文芸苑」として公園内等に歌碑が設置されている(亀山公園内に49首、二尊院南側の長神の杜地区に19首など)。

北東麓には愛宕神社一の鳥居、化野念仏寺が、東麓には祇王寺、滝口寺、二尊院、清涼寺(嵯峨釈迦堂)、常寂光寺、落柿舎、野宮神社、天龍寺、大河内山荘など著名な名刹・史跡が数多くある。また、小倉山南端付近には亀山公園(京都府立嵐山公園)があり、展望台からは保津川が一望できる。

亀山公園
亀山公園は、京都府京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある公園。正確には京都府立嵐山公園の一部(亀山地区)であるが、公園内の高台に亀山天皇を含む3天皇の火葬塚にちなんで、亀山公園と通称される。周辺はいわゆる嵐山地区であり、四季を通じて観光客が多く、特に桜と紅葉の季節は賑わう。小倉山の南麓に位置し、東隣は天龍寺、北隣は大河内山荘があり、嵯峨野めぐりのルートのひとつにもなっている。

嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線のトロッコ嵐山駅が近く、園内の展望台からトロッコ列車の走行を含め保津川の風景を見ることができる。また、亀山公園北端には小倉山山頂へ続く整備されていない登山道への入口がある。

竹林の小径
空を覆う竹林が整然と立ち並ぶ、野宮神社から天龍寺北門を通り大河内山荘へ抜ける約400メートルの道。手入れされた竹林が道の両脇に続く、京都を代表する観光名所。平安時代には貴族の別荘地だったと言われており、晴れた日には木漏れ日が心地よく、また太陽のない日は昼でも薄暗くなる。初冬には竹林の両側がライトアップされる「嵐山花灯路」が開催される。

嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区
「鎮火の神」として広く信仰を得ている愛宕神社の門前町と農村の両方の性格を持ち合わせて発展してきた町並み。「むしこ窓」を持つ町家風民家、茅葺きの「くずや」と呼ばれる農家風民家が美しい自然を背景にして建ち並んでいる。愛宕神社一之鳥居近くにある京都市嵯峨鳥居本町並み保存館(tel 075- 864-2406)には、この辺り一帯の昭和初期の町並みを再現した模型が展示されていて、当時の生活の様子を知ることができる。

名所・旧跡

天龍寺
天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることからこの名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

よって、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。また、2,500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまでいわれている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

天龍寺庭園は、世界遺産である曹源池庭園は優美な王朝の大和絵風の伝統文化と宋元画風の禅文化とが巧みに融け合って独特の美しさを完成している。池の奥の山ぎわに岩石を組んで渓流が池におちる滝をあらわし、これに鯉魚石を配し、登龍門の故事になぞらえている。その前の自然石の橋、三尊形式の岩島、浮嶋のような岩のたたずまいなど、嵐山の遠景を借景に方丈からの鑑賞を意識して作庭され、四季を通じて絶賛されるところである。

宝厳院
宝厳院は京都府京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院で天龍寺の塔頭。山号は大亀山。庭園や建物は時代劇の撮影に使用されている。寛正2年(1461年)、細川頼之が聖仲永光を開山に招聘して創建。当時は現在の京都市上京区にあった。応仁の乱(1467年 – 1477年)に巻き込まれて焼失し、天正年間(1573年 – 1591年)に再興された、明治時代 河川工事のため、寺域が買い上げられ、天龍寺塔頭の弘源寺内に移転した。平成14年(2002年)、天龍寺方丈南側の現在地を購入して移転、再興した。

鹿王院
鹿王院は京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院。山号は覚雄山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義満、開山(初代住持)は春屋妙葩。 鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺という寺の塔頭(禅寺等で歴代住持の墓塔を守るために建立される寺院)であった。宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでいる。

室町時代の記録である『花営三代記』や、開山伝の『宝幢開山知覚普明国師行業実録』によると、宝幢寺の建立経緯は次のとおりである。足利義満は康暦元年(1379年)のある夜、「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢如来を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」との夢告を受けた。そのため、義満は自らの帰依する禅僧・春屋妙葩(普明国師)を開山として一寺を建立することとし、康暦2年(1380年)完成した。当初の寺号を興聖寺といい、後に宝幢寺(詳名は大福田宝幢禅寺)に改称したという。鹿王院は、嘉慶元年(1387年)、開山の春屋妙葩の寿塔(生前に造る墓)を守る塔頭として創建されたものである(春屋の死去は翌嘉慶2年・1388年)。宝幢寺は禅寺十刹の第5位に列せられる大寺であったが、応仁の乱で廃絶。塔頭の鹿王院のみが残った。鹿王院は寛文年間(1661年 – 1673年)、酒井忠知(徳川四天王の一人である酒井忠次の子)によって再興され、忠知の子である虎岑玄竹が中興開山となった。

常寂光寺
常寂光寺は、京都府京都市嵯峨にある日蓮宗の寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれる。平安時代に藤原定家の小倉山荘「時雨亭」があったと伝わる地である。

安土桃山時代末の文禄5年(1596年)に小笠原秀政の母で日野輝資の養女である延壽院が開基となり、日蓮宗大本山本圀寺第16世日禎が隠棲の地として当山を開いた。その常寂光土のような風情から常寂光寺の寺号が付けられたとされる。歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以とその従兄弟の角倉栄可である。境内は第2世日韶(日野輝資の子)の時代に小早川秀秋らの助力を得て、整備が行われた。

常寂光寺庭園は、常寂光寺山門から仁王門、本堂へと続く山道は、秋には約200本の紅葉のトンネルとなる。伏見城の客殿を移した本堂西には細長い小池があり、さらに多宝塔、歌僊詞へと続く。山内には山草園があり、百種余りの野草が見られる。3月上旬の盆梅展、5月上旬の牡丹展、7月下旬の花蓮展などの季期の花の特別展示有り。

清凉寺
清凉寺は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山と称する。嵯峨釈迦堂の名で知られる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算である。宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台、真言、念仏宗を兼ね、室町時代より「融通念仏の道場」として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ。

二尊院
二尊院は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。山号は小倉山。寺号は華台寺。詳しくは小倉山二尊教院華台寺、二尊敎院蕐臺寺と称する。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。また、小倉あん発祥の地として伝わる。

御園亭は、後水尾天皇の皇女、賀子内親王の御化粧之間であったものが二条家に与えられ、その後、二尊院に移築され、現在はお茶室として拝観できます。皇女が使われていたお部屋とあって、繊細な吹き寄せ二重格子の天井など上質な趣が漂います。「御園」とは御所の庭を意味しており、茶室から覗く美しい庭を眺めながら、ゆったりとした時の流れに身を任せてください。

滝口寺
滝口寺は、京都市右京区にある浄土宗の寺院。山号は小倉山。本尊は阿弥陀如来。元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いで今日に至る。明治時代の廃仏毀釈により一時廃寺となるが、昭和の初期に再興された。『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られている。また、新田義貞の首塚もある。

祇王寺
祇王寺は、京都市右京区の奥嵯峨にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる往生院の旧跡。本堂内には本尊の大日如来のほか平清盛と四尼僧の木像が安置され、境内には清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔が建立されている。苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事。

寺号は、平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子の祇王に由来する。『平家物語』『源平盛衰記』によれば、若い仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われた祇王(21歳)が、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)と共に尼となったのが嵯峨の奥、往生院の庵で、のちに“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前(17歳)が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、四人で念仏三昧の余生を送ったという。

祇王寺の庭園は、小さな茅葺きの草庵が緑の苔に覆われた美しい庭。晩秋には一面に紅や黄の落葉が散り敷き、格別の風情がある。

化野念仏寺
化野念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺院。山号は華西山。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が当地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したのに始まるとされる。その後、法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。

本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建された。境内の約8,000体という夥しい数の石仏・石塔は、1903年(明治36年)頃に化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。賽の河原にちなんで西院の河原と名付けられた。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。

愛宕念仏寺
愛宕念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。本尊は厄除千手観音。別名千二百羅漢の寺。愛宕山愛宕神社参道の山麓の入り口に位置する「嵯峨野めぐりの始発点」として知られる。 天平神護2年(766年)、称徳天皇により今の京都・東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに愛宕寺として創建された。寺名の由来は山城国愛宕郡に初めて建てられた寺院だからだという。

平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたようである。醍醐天皇の時代、すでに荒れ寺となっていたところ、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失、廃寺となってしまった。その後、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。念仏上人と呼ばれていた千観が当寺で念仏を唱えていたことから、当寺はその名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1980年(昭和55年)には、10年がかりの仁王門の解体修理が始められた他、本格的に境内の復興に着手している。翌1981年(昭和56年)からは一般の素人の参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められた。当初は500体が目標だったが、10年後には1,200体に達した。

大覚寺
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。嵯峨天皇には孫にあたる淳和天皇の皇子恒貞親王を開山(初代住職)とした。

大沢池は、大覚寺の名勝大沢池。庭湖とも呼ばれ、平安前期の様式を伝える現存する日本最古の人工林泉。堰堤には楓、桜、松が植えられ、心経宝塔を水面に映す。「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と藤原公任によって百人一首に詠まれた名古曽の滝跡がある。

嵯峨七ッ塚は、嵯峨大覚寺境内の大沢池から東へ広沢池に至るまでの間には、田園風景が広がっている。その田園の中に小規模な円墳が点在している。今は6基しかないが、かつては7基あったことから嵯峨七ッ塚と呼ばれている。古墳は農道に接した所や田園の中にあり、囲いもない為すぐ近くまで行くことが出来るが、全て民有地の為みだりに古墳の上に上がったりしないこと。

松尾大社
松尾大社は、京都府京都市西京区嵐山宮町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 京都盆地西部、四条通の西端に鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられた。中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社である。

境内は、神体の松尾山の麓に位置する。本殿は室町時代の造営で、全国でも類例の少ない両流造であり国の重要文化財に指定されている。また多くの神像を有することでも知られ、男神像2躯・女神像1躯の計3躯が国の重要文化財に、ほか16躯が京都府指定有形文化財に指定されている。そのほか、神使を亀とすることでも知られている。

松尾大社の庭園は、重森三玲の手になる現代の庭で、上古の庭は古代の神の依り代である磐座を再現する試み。ほかに、遣水を主体とした曲水の庭、池泉様式の蓬莱の庭。

嵯峨・曇華院の日光
鹿王院西側にある曇華院の日光椿。曇華院は応仁の乱以後、後奈良、後西、光格天皇の皇女が相次いで入寺、竹の御所と呼ばれた門跡尼寺である。中庭を区切る渡り廊下にそって、高生垣のように育つ大樹。(非公開)

名古曽滝跡
名古曽滝は、離宮嵯峨院の滝殿庭園に設けられたもので、「今昔物語」では百済河成が作庭したものと伝える。水は早くから枯れ、石組みだけが残った。大正11年国定指定名称に指定され、平成6年からの発掘調査で中世の遺水が発見され、平成11年に復元が完了した。

落柿舎
落柿舎は嵯峨野の臍というべき地にひっそりと佇み、茅葺屋根の閑雅でどこか懐かしい佇まいを慕って、今も昔も訪れる人の絶えない、日本文学の大切な史跡である。芭蕉がその門人の中でも最も信頼を寄せていた去来(1651~1704)の営んだ庵であり、その閑寂な風情と去来の篤実を愛した芭蕉は、合わせて三度も来庵、とりわけ元禄四年の初夏には長く滞在し、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡った。その記録は名作『嵯峨日記』として遺されている。以来落柿舎は「俳諧道場」として世に聞こえ、今も風雅を愛する多くの方々に親しまれている。

厭離庵庭園
厭離庵にある庭園。書院南庭は一面の苔に数本の楓、蹲踞、燈籠を配している。豪華な紅葉。茶室時雨亭は茅葺き屋根が美しい。露地の杉苔は山里の風情。

甲塚古墳
山下庭園資材の敷地内にあるため、庭木の栽培が行われている。径38 m、墳丘の高さは現在5.5 mの円墳。南に向って開口している両袖式横穴石室がある。玄室奥壁近くには後世のものと思われる祠が祀られている。市内で入れる古墳の一つですが、敷地内での事故やけがなどの責任は負いかねますのでご了承ください。

津崎村岡局の銅像
この銅像は、幕末の勤王家津崎村岡局の像で、昭和3年(1928)建立。村岡局、名は矩(のり)子。天明6年(1786)嵯峨の生まれ。尊王攘夷派の公卿近衛忠ひろに仕え、村岡局と名のった。村岡局は志士相互や志士と公卿との連絡にあたり、特に夫や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため安政5年(1858)安政の大獄がおこると、村岡局も捕えられたが、その後北嵯峨の直指庵に隠居、付近の子女の教育につくした。村岡局は維新の女傑といわれるが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年88才で没。

小督塚
右京区嵐山渡月橋の大堰川(桂川)の左岸少し上流にある小督局を弔う五輪石塔。琴の名手小督は高倉天皇(1161-81・応保1―治承5)の寵愛をうけるが建礼門院(清盛の娘)の嫉妬で2度も御所追放。塚の場所は最初の隠棲地。東山区の高倉天皇陵のそばにも小督局を弔う宝篋印塔がある。市バス嵐山すぐ。

中院山荘跡
この地から東に鎌倉時代のはじめの和歌の名手僧蓮生の中院山荘があった。蓮生の俗名は宇都宮頼綱といい、下野国(栃木県)の豪族で鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争にまきこまれるのをさけて出家し実信房蓮生と名のった。後に上洛して法然上人、ついで善恵上人証空に師事しこの地に山荘を営んだ。蓮生とも親交のあった藤原定家が蓮生の依頼により山荘の障子に貼る色紙に書いた天智天皇以来の名歌が、「小倉百人一首」のもとになったと言われている。

大河内山荘庭園
この庭園は昭和初期の映画俳優大河内伝次郎(1898~1962)が百人一首で有名なここ小倉山からの雄大な風光に魅せられ、30年に渡り丹精こめて、こつこつと造りあげた優美な庭園です。桜や楓が多く植栽された園内からは、嵐山に保津川の清流、比叡山や京の町並みなども眺められ、四季折々に趣があります。

美術館・博物館

嵐山ハイブリッド美術館
画家である雅龍大が築70年の日本家屋を和洋折衷なモダン空間に改築。「ハイブリッド」は雑種という意味で、油絵、墨絵、そして着物、音楽・・・・と文化・芸術が混ざった小さな手づくり美術館。館長の雅龍大と息子の雅龍山の作品20数点を展示しており、また新作が描き上がれば不定期に作品の入れ替えが行われる。

嵯峨嵐山文華館
百人一首の歴史と日本画の粋を伝えるミュージアム、古来歌枕として詠まれてきた嵯峨嵐山。当館は、この地で誕生したと伝えられる百人一首の歴史やその魅力と、日本画の粋を伝えるミュージアムです。二階は120畳の大広間ギャラリーとなっており、大堰川を借景として取り込んだ眺めはまさに日本画の世界のようです。美しい自然とともに、誰もが日本の美を身近に感じ楽しめるよう、シーズン毎に心ときめく企画展をお届けいたします。

京都嵐山オルゴール博物館
奥嵯峨鳥居本は愛宕神社の門前町としての性格と農村としての性格を合わせ持ち発展してきた町であり、茅葺き屋根の農家風民家や町家風民家が周囲の美しい自然景観を背景に並ぶ情緒有る町並みが残っています。昭和54年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。当館はこの鳥居本の雰囲気をよく残す伝統的な町家風民家を復元整備し、町並み保存館として公開しました。

嵯峨美術大学・嵯峨美術短期大学附属博物館
平成13年京都嵯峨芸術大学設立を機に、本部キャンパス内に建てられた。学生の創作意欲を刺激するため、また大学を地域の人々に開放し多くの人々との交流を深めるため設立され、展覧会は広く一般にも公開している。嵯峨美術短期大学時代から所蔵している、大学で教鞭をとられていた先生方の作品、郷土玩具、貿易扇の扇面画、卒業生作品などを中心に展覧会を行うほか、企画展も開催している。

清凉寺霊宝館
毎年春季(4月~5月)、秋季(10月~11月)に特別公開。1階には平安・鎌倉時代作の棲霞寺本尊阿弥陀三尊像(国宝)、本堂釈迦如来両脇侍文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像(重要文化財)、釈迦十大弟子像10体、四天王立像4体、兜跋毘沙門天立像1体などの仏像を安置。2階には、前述の本尊釈迦如来立像(国宝)の胎内に納められていた文物が随時展示されている。このほか「宋画十六羅漢図」(模写)などの宝物も展示。

博物館 さがの人形の家
古都京都を代表する美しく、みやびな御所人形。人形の王様といわれ緻密で重厚な嵯峨人形。その他、とても小さくて可愛い芥子人形や賀茂人形や楽しいからくり人形など展示しています。一口に人形といっても何種類もあります。美しい珍しい、おもしろい、さまざまな人形達の工芸美を楽しんでください。

松尾大社お酒の資料館
展示-酒ができるまでの行程をわかりやすく解説し、古くから伝わる酒造道具の展示をはじめ、また現代全国各地の一流の陶芸家によるさまざまな窯の酒器やお酒に関する展示。又、季節に応じ、折々のイベントを開催予定。

福田美術館
渡月橋が最も美しく見えるロケーションで、「誰もが感動できる」日本画を展示。所蔵品は琳派、円山応挙・長澤蘆雪などの円山四条派、伊藤若冲や与謝蕪村、近代は竹内栖鳳や上村松園といった京都画壇や横山大観など幅広い時代の有名画家を網羅した日本画のコレクションで、年4回の企画展示を行います。「たとえ日本画に詳しく無い方が見ても、感動を覚えるような」わかりやすい作品が多数。蔵をイメージしたギャラリーは、高透過率のガラスを使用した展示ケースと、最先端の照明システムによって、日本画を観賞するのに最も適した環境となっております。また、大堰川と渡月橋が最も美しく見える絶景カフェ「パンとエスプレッソと福田美術館」も併設。デザインにこだわったオリジナルのミュージアムグッズも人気です。嵐山の絶景とともに日本美術をお愉しみいただけます。

想い出博物館
嵯峨野の散策路に相撲取りのような大きなキューピーが突然現れる。それが想い出博物館の入口。懐かしい音楽が流れる館内の1階には、江戸から現代にかけてのオモチャ約5000点が展示されている。江戸の童が遊んだ画面が クルクル回るからくりのかけ画オモチャ、文明開化の明治には時代を象徴する機関車や自動車が、大正には日本の現代のキャラクターの元祖・正チャンやのんきな父さんが愛嬌をふりまいている。昭和の初めのキューピー人形や平和カルタ、ミッチー・皇太子ご成婚記念着せかえ、夢の超特急新幹線のブリキのオモチャ…等、まさにオモチャは時代を映す鏡であることがつぶさに感じとられる。ノスタルジックでドラマチック。楽しさがいっぱい詰まった博物館だ。

行事・祭典

嵯峨祭
大覚寺嵯峨菊展
嵐山斎宮行列
観月の夕べ
うるし祭り
電電宮大祭
重陽の節会
夕霧供養
十三まいり
火焚祭<車折神社>
華道祭
芸能上達祈願法要
御身拭式<清凉寺>
嵯峨お松明式
嵐山もみじ祭
嵯峨大念仏狂言
愛宕古道街道灯し
八朔祭
大念仏狂言
重陽祭<車折神社>
千灯供養
京都・嵐山花灯路
針供養
大祓<松尾大社>
御田祭
春季大祭<遍照寺>
嵐山鵜飼
嵐山灯籠流し