両国国技館、東京、日本

両国国技館は、日本の東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。

プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。

沿革

初代国技館
先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。

1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興業との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。

設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、3,000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20,000人以上ともされていた。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで、優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。

二度の再建
1917年(大正6年)11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により午前2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額約120万円、(回向院 約12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。

新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年(大正9年)1月15日に完成・開館式を挙行した。1920年(大正9年)9月1日に再建興行したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年(大正13年)1月に愛知県名古屋市で本場所が行われたこともある。

2代目新国技館
1985年(昭和60年)1月場所より使用されている現在の国技館は2代目であり、国鉄バス東京自動車営業所(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は、地上2階・地下1階で、総工費150億円は全て自己資金で賄った。建設計画発表から3年の歳月で1984年(昭和59年)11月30日に完成。翌年1月9日、盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。その場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。

蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり、昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。春日野理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていて、のちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおり、その場所はあの双葉山関が安芸ノ海関に敗れ、七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日、たまたま翌日の取組表をもらいに行って、”双葉散る”の場面を目撃しているんですよ。まあ、座ブトン、灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それで、またいつか両国で相撲を、という思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたい、という夢を描いたのは、横綱の現役時代なんですよ。毎日、両国の春日野部屋を車で出て、蔵前国技館へ車で向かう途中、旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなって、さびれていく様を見るにつけ、ようし、私が…という思いがつのっていったんです」と述べ、”両国帰還”の姿勢を鮮明にする。

春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど国鉄が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。1980年(昭和55年)2月、春日野理事長、高木文雄国鉄総裁、鈴木俊一都知事、内山榮一台東区長、山崎榮次郎墨田区長の五者会談が都庁で開かれ、新国技館の建設と蔵前国技館跡地の処分について決着を見た。同年7月12日の理事会で新国技館の建設を正式に決定、1982年(昭和57年)2月に国鉄と協会との間で土地の売買契約が成立し、1983年(昭和58年)4月27日に着工した。

大相撲の本場所、引退相撲、NHK福祉大相撲などで協会自らが使用するほか、設計段階より多目的に使える構造として構想されていて、新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦(2014年、2018年、2019年を除く)に使用され、1991年(平成3年)から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年(平成4年)からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。

施設
電光掲示板に、その取組の決まり手が表示出来るようになっている。
電光掲示板の老朽化により2015年(平成27年)9月場所を前に30年ぶりに新装され照明が節電効果のあるLEDに変更された。この他に、決まり手の表示がモノクロ液晶パネル式(ドット表示)からLCD式(画面表示)に変更され、決まり手の文字も明朝体から相撲字に変更された。また従来では表示できなかった珍手など全92種類が表示できるようになった。

吊り屋根は伊勢神宮の御神木で建造されている。2本のワイヤーで上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。総重量は屋根の裏に備え付けの照明機材を含めて6.25トン。

やぐらと土俵はエレベーター式の昇降型、枡席は一部が可動型となっており、相撲以外のイベントにも対応出来るようになっている(やぐらは天井近くまで上がり、土俵は地下に沈む)。

地下には国技館サービスの統括する焼鳥工場があり、お土産用の焼き鳥を調理・製造している。以前は相撲の興行中のみ稼動しており、従業員の大半は別に職があり、興行中はアルバイトとして働いていたが、現在では、本場所の開催期間以外でも稼動しており、JR東京駅やJR新宿駅など、一部のJRの駅の駅弁販売店で販売されている。焼鳥である理由は、材料である鶏が「二本足で立ち、手を着かない」ことから、相撲界で縁起物とされているため。。使用されている鶏は岩手県産。この験はちゃんこ鍋でも担がれている。

大相撲興行中、枡席において伝統的に喫煙が認められていたが、健康増進法第25条(受動喫煙防止規定)により、2005年(平成17年)の1月場所から全面禁煙となった。

1階には相撲博物館、地下1階には相撲診療所があり、博物館は本場所やイベントなどの行われていないときには入館無料である。また、診療所は力士・協会員の診療・定期健康診断を行うほか、一般の患者も受け付けている。

屋根上の金色の部分の側面は、8分割で開閉可能である。

正面は西北西の方角を向いており、東方は北北東、西方は南南西、向正面は東南東と実際の方角とは一致していない。

原則として力士のエレベーター利用は禁止されており、エレベーター脇にはそのことを記した張り紙がしてある。

旧国技館は当時東洋一の規模の建物として称えられており、イルミネーションの美麗さには定評があった他、菊花大会や水害の避難場所としても活用された。

相撲博物館
相撲博物館は、日本の国技といわれる相撲の資料を収蔵した施設である。

概要
初代館長を務めた酒井忠正が長年にわたって収集した資料を基礎に、国技としての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年(1954)9月、蔵前国技館の完成と同時に開館しました。昭和60年(1985)1月、両国国技館の開館に伴い移転し、現在に至っています。

東京都墨田区の国技館内にあり、公益財団法人日本相撲協会が運営している。初代館長となる酒井忠正が収集したコレクションを母体として発足し、以降は随時資料の寄贈等を受けて収蔵点数を増加させている。

入場料は無料だが国技館に併設しているため、国技館で本場所や有料の催し物がある際は、国技館の入場券をもっている者しか来場できない。それ以外の開館日には誰でも入場することができる。出入口は相撲協会事務所付近と、国技館正面エントランスの2か所に設置されているが、国技館で催し物が無い時はエントランス側の出入口は閉じられる。休館日は土曜・日曜・祝日(本場所中は毎日開館)及び年末年始となっている。

展示期間中に、ガイドツアーが行われることもある。また、過去の史料も保管しているので、その閲覧も依頼すれば、閲覧できるものもある。

活動
錦絵や番付、化粧廻しなど相撲に関する資料を収集、保存し、展示により公開しています。展示室が1室のため常設展示ではなく、年6回の企画展示により様々な資料をご覧いただけるよう努めています。また、相撲を日本固有の文化ととらえ、歴史などの調査・研究を行っています。