仏教の興隆、飛鳥時代-奈良時代、東京国立博物館

6世紀半ば、欽明天皇の時代に百済から釈迦金銅仏、経論、幡がもたらされ、しばらくして百済から仏教寺院や仏教美術に関わるさまざまな技術者が来日しまし た。日本の文化は仏教の受容とともに飛躍的に進歩して、奈良時代には東大寺の大仏鋳造が国家的事業として営まれるまでに至ります。

古代の仏教美術として、飛鳥時代の仏像やさまざまな仏具に加えて、興福寺鎮壇具の金銅鋺、瑠璃玉や砂金の他、法隆寺の行信や藤原広嗣の夫人の願経などを展示します。

この陳列では、古代の仏教美術として、奈良時代のさまざまな仏具、興福寺鎮壇具、舎利容器に加えて、飛鳥時代の摩耶夫人および天人像をはじめ、奈良朝写経の名品である大字の註楞伽経や、細字の報恩経などを展示します。

那智山経塚から出土した金銅仏である銅造観音菩薩立像や、蘇我氏の系譜に連なる石川石足の菩提を弔うために書写された仏説弥勒成仏経などを展示します。

飛鳥時代
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。

天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。

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奈良時代
中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。

こうした南都六宗と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた権現であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。

東京国立博物館

東京国立博物館は、わが国の総合的な博物館として日本を中心に広く東洋諸地域にわたる文化財を収集・保管して公衆の観覧に供するとともに、これに関連する調査研究および教育普及事業等を行うことにより、貴重な国民的財産である文化財の保存および活用を図ることを目的としています。

平成19年4月1日からは、東京国立博物館の所属する独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所が統合され「独立行政法人国立文化財機構」が発足しました。新法人のもと貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を、より一層効率的かつ効果的に推進していきます。