日本の鉄道の民営化

戦後、国内の輸送体制の根幹とされ、公共企業体と位置づけられた国鉄は、国家財政とは別の独立採算制であったにもかかわらず、運賃改訂や設備投資について国会審議を必要とする不自由な体制であった。

このシステムは戦後復興期にはスムーズに動いた。すなわち復興のための設備投資の必要性やその順番は明らかであり、低く抑えられた運賃も増え続ける需要によって充分賄われた。しかし戦後復興が終了した時期から、国鉄の財政は悪化しはじめた。まず東海道新幹線が開通した1964年に、それまでずっと黒字であった国鉄の収支が単年度ながら赤字を計上した。その後も赤字は続き、1967年には蓄積した黒字を食い潰して繰り越し赤字に転落した。国鉄は財政再建を目指し、1969年に第一次再建計画を策定したが赤字の拡大は止まらず、1971年には通常の企業活動に必要な支出だけで収入金額を超えてしまい「借金を返済できない事態(償却前赤字)」に陥った。

1971年から1972年にかけて、国鉄の現場では赤字改善のための生産性改善運動(通称:マル生運動)が行われた。これは経営危機に陥った民間企業であれば、当然実施すべき改善運動であるが、経営側の運営のまずさからマスコミに「不当労働行為」と指摘され、生産性の改善効果を生まずに終わってしまった。この問題はその後も長く労使間の大きなしこりとなって残った。その後種々の対策が検討されたが解決には程遠く、国鉄の赤字は増え続けた。抜本的対策として1980年頃から国鉄分割民営化案が検討され、1987年に国鉄は分割されたうえで民営化された。

国鉄再建への取り組み
国鉄の経営状況は一般企業とすれば、償却前赤字となった1971年には倒産に値するものであった。しかし政府と国鉄当局は国内交通の基盤である国鉄を潰す訳にも行かず、種々の救済策を実施した。

1960年代から問題となった赤字ローカル線については、1968年に赤字83線を国鉄諮問委員会が選定して頓挫したことを反省し、1980年制定の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)に基づき特定地方交通線として83線区3157.2 kmを指定し、1990年までに廃止・第三セクター鉄道への転換を実施した。一方、1976年と1981年には約5兆円に及ぶ借金の棚上げを実施した。1976年には平均50%の運賃値上げを行い、その後もしばしば値上げを行って増収を図ったが、利用者離れも起こって赤字は増大し続けた。

当時の国鉄は国鉄労働組合(国労)や国鉄動力車労働組合(動労)などの組合が利用客の不便を顧慮することなく、「スト権スト」や「順法闘争」のような政治的な活動を繰り返していた。順法闘争は利用者の反発を買い、1973年には乗客の怒りが爆発して暴動となった上尾事件が起こるなど、国鉄へのさらなる資金投入や運賃値上げは認められない状況に陥りつつあった。

1981年から開始された第二次臨時行政調査会の活動では国鉄再建が重要項目とされた。抜本的対策として、鉄道経営の自主独立を確立し、政治家の影響を排除する民営化案が浮上した。

1983年に出された答申には国鉄分割民営化が謳われ、同年に「国鉄再建管理委員会」が設立、分割民営化のための検討が行われ、1985年に10万人の合理化などを含む最終答申が出された。この間、国鉄当局も自助努力によって大幅な合理化を実施し、人員削減を可能にしていた。

また組合問題も職場が無くなるという危機感から、経営側と動労との関係は徐々に改善していき、一方で反対姿勢をとり続けた国労は組合員が抜けて少数派に転落した。そして1987年の分割民営化が実施された。

国鉄の分割・民営化
国鉄の経営破綻の対処策として、1986年11月28日に国鉄改革関連八法案が成立した。この法律に従って1987年4月1日に国鉄は分割民営化された。

目的
巨額債務の解消と政治介入の排除
モータリゼーションの進展による地方での国鉄離れや、国が戦争引揚者の雇用対策として国鉄へ大量に採用させた職員の高齢化に伴う労働コストの上昇により(国鉄の賃金体系は勤続年数に応じて賃金が上がる年功序列型であった)、それまで黒字であった日本国有鉄道は、東海道新幹線の開業した1964年(昭和39年)から赤字に転落した。昭和40年代後半には、生産性改善運動である『マル生運動』の失敗などから、労使関係が悪化して順法闘争やスト権ストが発生した。

1949年(昭和24年)、鉄道省から分離され、独立採算制の公共企業体として発足した国鉄は、政治が国鉄収支についての経営責任を負わなくなった一方、運賃や予算、新線建設、人事など、経営の根幹ともいえる「重要な決定事項」については、国会の承認が必要だったために、政治の介入を強く受けた。

例えば、選挙対策やインフレーションの防止などを狙って、政府が運賃の値上げを中止させたり、民業を圧迫するという理由で、運輸業以外の他業種への参入が認められなかった。また、田中角栄首相の日本列島改造論や「我田引鉄」と言われた、政治家の選挙区に鉄道を誘致させる見返りに票を得る利益誘導のために、地方のローカル線の建設要求は強く、1980年(昭和55年)に新規建設が凍結されるまで、採算の見込めない赤字ローカル線の建設が続けられた。

日本鉄道建設公団の発足以降、こうしたローカル線の建設費用は国が負担していたが、営業開始後の赤字は国鉄の負担であった。さらに大都市部(特に首都圏)では、急激な人口集中によって鉄道通勤事情が極度に悪化しており、対策を求められた国鉄では「通勤五方面作戦」を展開するなどして輸送力の増強に努めたが、これに要する費用には、国からの補助金は殆どなく、国鉄の自己負担となっていた。新幹線の建設にも、巨額の費用が投じられ、建設費はそのまま国鉄の債務として積み上がっていった。運輸省(現・国土交通省)も、民営化に反対していた。

補助金が政府から交付されていたものの「焼け石に水」状態であり、昭和50年代からは、それまでの運賃抑制分を取り戻すように50%運賃値上げ、その後も毎年運賃値上げが行われたが、これは首都圏の路線や新幹線ですら利用者が減るなど、却って利用者が離れる結果を招いてしまい収支改善にはつながらなかった。

政府は1980年(昭和55年)に、「最後の自主再建プラン」と評された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を成立させ、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結、輸送密度による路線の区分(幹線・地方交通線・特定地方交通線)と、それに基づく措置(特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換、地方交通線への割増運賃の導入)といった施策を盛り込んだ。

その一方で、1981年(昭和56年)、鈴木善幸内閣は諮問機関として第二次臨時行政調査会(第二次臨調、土光敏夫会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。さらに1982年(昭和57年)2月5日、自民党は「国鉄再建小委員会」(三塚博会長)を発足させた。

第二臨調では、第四部会(加藤寛部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『現代』1982年4月号)、屋山太郎参与は「国鉄労使国賊論」(『文藝春秋』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提に活発に情報発信を行った。

1982年(昭和57年)7月30日、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は9月24日、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した。

自民党内でも、運輸族の加藤六月、田村元など、分割民営化反対論は少なくなかったが、同年11月27日に発足した中曽根内閣は、積極的に分割民営化を進めていくことになる。11月30日、国鉄再建監理委員会の設置を決め、1983年5月13日、国鉄再建監理委員会設置法が参議院で成立し、6月10日、正式に発足した(亀井正夫委員長)。国鉄内部では、松田昌士、葛西敬之、井手正敬らが分割民営化を推進し、松田らは「国鉄改革三人組」と称された。一方、分割民営化に反対する国鉄経営陣などは「国体護持派」と呼ばれた。

しかし、中曽根はなおも慎重であった。実質的に自民党のキングメーカーになっていた、田中角栄は民営化は容認したが、分割には反対していたからである。国鉄経営陣や国労は、田中を頼り、非分割民営化を落としどころにしようとした。1985年(昭和60年)1月10日、国鉄が国鉄再建監理委員会に提出した「経営改革のための基本方策」はそうした内容だった。しかし、内容は事前に分割民営化派に漏れており、メディアからは厳しい批判を受けた。経営側は秋山光文資材局長に命じて、非分割民営化を主張する極秘資料を作らせ、国会議員やメディアなどに配布した。また、「改革派」の井手を1984年9月21日に東京西鉄道管理局に、松田を1985年3月15日に北海道に左遷し、分割民営化派を抑え込もうとした。

2月6日、中曽根首相は塚本三郎(民社党)の質問に対し、国鉄案を「親方日の丸」と答弁し、「けじめをつけなければならない」と処分を匂わせた。田中角栄の権力は、竹下登の造反で動揺しており(創政会)、自身が2月27日に脳梗塞に倒れたことも、分割民営化論を勢いづかせた。1985年12月に発足した第2次中曽根改造内閣では、前記の自民党国鉄再建小委員会会長だった三塚博を運輸大臣として入閣させている(1986年の衆参同日選挙に伴い退任)。1986年5月27日、国鉄の太田知行常務理事は、朝日新聞記者に「オフレコ」だとして、「国鉄改革三人組」や亀井正夫を非難し、非分割民営化の根回しはしてあると述べた。この発言は葛西に漏れ、さらに屋山太郎を通じて中曽根に通報された。中曽根はこれを見て、仁杉巌総裁以下、分割民営化に反対する国鉄首脳陣8人の更迭を言い渡した。6月21日、表向きは自発的に仁杉らを辞職させ、後任の国鉄総裁に杉浦喬也を据えた。「国鉄改革三人組」などで左遷された者は本社に呼び戻され、国鉄経営陣は分割民営化推進派が勝利を収めた。

それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪だるま式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、1982年8月2日の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、1985年(昭和60年)のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止した。

巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに日本国政府からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。

国鉄の累積債務は、37兆円に達していた。意図的な虚報であるという主張も、分割民営化に反対した労働組合側からなされているが、利払いだけでも年1兆円を超えるなど、実際にはバブル景気で急激に土地価格が上昇した時期に、保有資産を売却しても到底債務を解消できる額ではなかった。

地域密着経営による鉄道の再生
国鉄の輸送シェアは1960年には約50%を占めていたが、長年に渡り全国で画一的な輸送による地域ニーズとのミスマッチや技術革新の遅れ、さらに相次ぐ値上げや道路網整備による自家用車の普及、航空・高速バスの発達などにより、1985年には約23%と半分以下にまで低下した。

余剰人員整理
国策で戦争引揚者を大量に雇用した結果、高い人件費率が問題になり、国鉄再建監理委員会は、新会社は18万3千人体制にしなければならないとした。1986年4月時点で、国鉄職員は約27万6千人であり、9万3千人が「余剰人員」と見込まれた。

このうち、約7万人が希望退職に応じた。希望退職者には、公務員や特殊法人、民間企業、他鉄道会社などへの再就職が斡旋され再就職した。その結果、民営化時には約20万6000人が採用された。新会社を不採用となり、国鉄清算事業団に送られたのは7千人あまりであった。不採用となったのは、余剰が深刻な北海道・四国・九州で地元採用を要求した者(地元採用要求や、白紙回答が国労の方針でもあった)、国鉄経営陣によって「昭和五十八年度から六十一年度までの間に停職処分二回以上、または停職六ヶ月以上の処分を一回でも受けた者、それ以外に採用基準に適合しないという理由がある者」とされた者などであった。

公務員のキャリアに相当する幹部採用者は約1600人いたが、JR各社に引き継がれたのは約1100人であった。

国労の解体
「国鉄改革三人組」が実権を握った国鉄は、各労組に労働協約である「雇用安定協約」を締結するために「労使共同宣言」を提案した。さらに、雇用安定協約を破棄した国労は雇用不安から組合員の脱退が相次いだ。1986年4月13日、「真国鉄労働組合」(古川哲郎委員長)が分裂し、動労、鉄労の協力の下、結成大会を開いた(真国労は革マル派系組合員だったとされる)。

国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はないとされた。法律上、旧国鉄と新会社は無関係であり、旧国鉄を退社して新会社に応募した者とされた。。

地元以外のJR採用や政府機関、特殊法人、民間企業への採用を拒否し、国鉄清算事業団に行った約7000人のうち、国労組合員は70.8%だった。残りは全動労、動労千葉の組合員だった。清算事業団は1990年に解散したが、本州JR採用や公務員、民間企業、他鉄道会社への就職を拒否し続けた1,047人が残った。その多くは国労組合員であった。国労、全動労、動労千葉は中央労働委員会に救済申立を行い、救済命令が認められると、JR各社はこれを不服として中央労働委員会に異議申立をした。中労委も、全てでは無いが救済命令を出したので、JR各社は「国鉄とJRは無関係」として中労委を訴え、最高裁でJR側の勝訴が確定した。しかし、旧国鉄の法的責任については訴訟が続き、2010年(平成22年)、民主党の鳩山由紀夫内閣のもと、和解金として一世帯あたり2200万円支払うことで一応の決着が図られた。なお、国労執行部は政治決着後、訴訟に加わった組合員を追放してしまった。

国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を主張した。政府側は、ヤミ休暇・ヤミ休憩・ヤミ超勤手当・カラ残業・酒気帯び勤務の常態化、服装規定違反などに代表される「民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境や職員厚遇の維持である」と訴え、マスメディアは、相次いで国労批判のキャンペーンを張った。

一方、“国労排除・解体の為の分割民営化”という名目に対して、本来こちらこそが先に上げた“巨額債務の解消の為の分割民営化”に対する正当化の為の口実にされたとする見方もある。

分割方法
全国一元の組織の国鉄を地域ごとに分割することは、1つの会社の経営規模を小さくして地域密着を図るためであった。

分割に際して考慮された事項は以下の通りである。

1つの大都市において異なる会社へ直通する列車をできるだけ作らない。
特急列車のように都市間輸送を行う列車をできるだけ同一会社に含むようにする。
1つの路線をできるだけ1社で管轄する。
3社以上の会社を経由する列車をなるべく少なくする。
通過列車・通過旅客数のできるだけ少ない場所を境界点とする。
一方、考慮しないとされたことは以下の通りである。

上下分離方式を採る。
既存の鉄道管理局の境界で分割する。
新幹線を別会社にする。
都市交通のみを別会社にする。
様々な分割地点を案として出しながら、分割される会社の経営規模や要員数などを算出して検討が行われた。特に複雑に線路が絡み合い運行系統が設定されている本州については、2分割、3分割、4分割、5分割など分割する数についても検討され、それぞれにさらに分割点を様々に変えた検討がなされた。分割数を増やすと境界が増えて問題となることや、直通旅客数の多い東海道新幹線を途中で分断しづらいこと、鉄道工場や指令所を共用している東北新幹線と上越新幹線も分割しづらいことなどが勘案され、東京本社の本州東部(甲信越以東)と大阪本社の本州西部(東海・北陸以西)に2分割とする案が決まったが、超ドル箱路線の東海道新幹線が本州西部会社帰属になると本州東部会社の収益が本州西部会社を下回ると判断されたため、最終的に本州西部会社と予定されていた地域のうち東海道新幹線を含む東海地方及び、本州東部会社に予定されていた地域のうち山梨県・長野県のそれぞれ南部地域を名古屋本社の別会社とする案が実施されることになった。

さらに、異なる会社へ直通する列車の乗務員の交代、車両の保守管理の担当、車両使用料の精算、運賃の計算と精算、担当する車両基地の割り振り、設備の分割と使用経費の分担など様々な問題に対して、新たなルールの制定が必要となった。

会社間の実際の分割場所は、境界駅の場内信号機外方(駅から見て外側)となった。1つの駅の設備についてはすべて1つの会社で担当するという考え方としたためである。東海道本線来宮駅についても丹那トンネルの中にある東海道本線上りの場内信号機が境界であり、その内方(東京方)がJR東日本、外方がJR東海となるが、トンネル構造物は分割できないため、トンネル全体をJR東海が管理している。なお、東海道本線米原駅は下り場内信号機をJR東海とJR西日本の境界とすると複雑になりすぎることから、東京方下り第一閉塞信号機が境界である。また、亀山駅については、JR東海の管轄駅であるが、駅構内西側にある亀山機関区はJR西日本の路線となる関西本線亀山駅以西を担当していたため、JR西日本に帰属することになった。これは、廃止予定であった伊勢機関区が、この地域におけるJR東海の車両基地を維持するために一転して存続となるという副次的な効果をもたらした。

経過
左翼陣営が結束して反対。1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった(分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのようなテロまがいによる運行妨害は批判した)。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。1986年7月6日に実施された衆参同日選挙で、国鉄などの三公社五現業の民営化を公約に掲げた自由民主党が圧勝し、日本社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、分割民営化が事実上決まった。

労働組合では、元から労使協調路線であった鉄労が早々に民営化を容認したが、それ以外の組合では意見が割れる事になる。動労は当初は民営化に反対していたが、スト権スト以降の国労との亀裂や、衆参同日選挙で分割民営化が事実上決まったことから松崎明委員長の「協力して組合員の雇用を守る」という方針の下で、民営化賛成に転じることになる。その中で国労は民営化賛成派と反対派が対立し、意見が一致しなかった。

国労は1986年10月9日に臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産総連を結成した。この修善寺大会をきっかけに国労は内部崩壊を起こし、力を大きく失った。鉄産総連結成は、JRに採用されるための次善の策として、社会党側の働きかけもあったとされる。一方で、全面対決一本槍の六本木体制や国鉄の労使関係に失望し、職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは分割民営化までの間に国鉄そのものを退職した人を含めて20万人以上の組合員が脱退、合理化により職員(社員)の総数も大幅に減少しているものの少数組合に転落した。国労は労働組合の原点である、末端組合員の生活や雇用不安を無視し、イデオロギー闘争に終始したことで結果的に自滅した。

上記の通り、分割民営化議論に先立って1980年に成立した国鉄再建法に基づき、当時すでに輸送密度の低い不採算路線の廃止が進められていた。1981年より、3次にわたって廃止対象となる特定地方交通線の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、1983年の白糠線を皮切りに、45路線が廃止(バス転換)、36路線が第三セクター化、2路線が私鉄に譲渡され鉄道として存続した。この措置は分割民営化が正式に決定されても継続され、民営化後の1990年、宮津線の第三セクター・北近畿タンゴ鉄道への転換、鍛冶屋線、大社線の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「赤字83線」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。この路線の整理は分割民営化とは無関係に始まったものであったが、民営化会社がこれらの不採算路線をほとんど引き継がずに発足する結果をもたらした。しかし、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現伊勢鉄道)が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず、独立した路線名を持っていない他の線区の支線であったがために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない」との声もあった。なお、既存の民間運輸事業者に譲渡された2路線(下北交通大畑線、弘南鉄道黒石線)はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線も2006年4月全廃の北海道ちほく高原鉄道を皮切りに神岡鉄道・三木鉄道・高千穂鉄道が利用者の減少に伴う赤字の増大や自然災害による被災などを理由に全線廃止、のと鉄道は路線の大半を廃止している。黒字を計上しているのは大都市圏に近く条件に恵まれた愛知環状鉄道などごく一部に限られており、各社に給付された転換交付金も金利低下による運用益の減少などで大きく目減りしている。

1986年11月には、国鉄改革関連8法(日本国有鉄道改革法、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律、新幹線鉄道保有機構法、日本国有鉄道清算事業団法、日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法、鉄道事業法、日本国有鉄道改革法等施行法、地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立し、法的に分割民営化する準備が整った。

このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が1986年5月 – 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道従業員としての雇用を維持していくために異動した。また、多数の余剰人員が当時人手不足が深刻化していた私鉄、民営バス、民間企業などに受け入れられている。