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日本の鉄道の戦後の復興

日中戦争・太平洋戦争(第二次世界大戦)、戦後には敗戦のショックに伴う乗客の道徳荒廃等により、多くの設備・車両が破壊されたが、資材や労働力の不足により復興は遅々として進まなかった。しかし、復員列車や買い出し列車など旅客の需要は急増し、その一方で石炭不足から列車は戦時中より削減された。その結果、旅客需要に答えるために過度の運行をせざるを得ず、鉄道事故も相次いだ。だがそのような下でも、進駐してきた連合国軍に関する輸送は最優先で行う必要があり、当時の日本人には縁がないほど豪華な設備を備えた連合軍専用列車が、全国で運行されるようにもなった。

設備の疲弊
鉄道の線路や車輌は、一定の期間に定期的に整備を行わないと機能が低下する。整備には「人手」・「資材」・「資金」が必要だが、戦争中期以後男性は軍隊に招集されて人手が減り、資材も不足していた。また国鉄の収益の大部分は「臨時軍事費」という名目で国に徴収された一方で、配分された資材はまず貨物用機関車の大増産などに振り向けられていた。結果として、保有車両・地上設備に対しての必要な整備は満足にできていなかった。

戦災、補修不備といった要因を加重していくと、終戦後間も無い状況としては下記のような状態である旨が、国鉄より説明されている。

終戦後、国鉄は戦災の応急復旧に注力し、これを達成したが、資産の戦前の状態へ復元は、わが国産業の立上がりの遅れのため捗らず、ようやく産業が復興した頃には、国鉄は公共企業体として資金的に見放されたまま今日に至っているので、緊急取換えを要する資産が今なお約一五百億円残っている。代表的なものとして、脱線の主因をなす衰耗貨車約一万五千両(全体の一・五割)と折損の危険を孕む三十三万噸の減耗疲労した軌条を挙げることができる。

運転事故は終戦後激増して一時は戦前の八倍に達したが、近来四倍程度に減少した。
— 瀧山養(当時国鉄総裁室審議室調査役)「国鉄の現状と悩み真相を訴える」『世界』1954年7月

私鉄での損害は表から分かるように、専ら電車に集中している。

海外の旧植民地、占領地からの引揚者が数百万人にも達し、私鉄の活動の場であった都市部にも大量に流入した一方で、このような損害を受けていたため、通勤・通学輸送のための輸送力は極度に逼迫した(この点は国鉄も同傾向であった)。その後、朝鮮戦争勃発から占領の終了の頃になると終戦直後のような混乱は一息つくものの、数年後には高度経済成長が始まり、農村部から大都市への人口移動が加速されていく。このため、大都市の旅客輸送は再び逼迫の度を増していくことになるのである。

復興から躍進の時代

戦後の混乱と占領軍による鉄道管理

1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定し、中立国を通じて連合国側へ通告した。この日以後 陸海軍は武装を解除される。鉄道は軍需輸送の役目を終えたが、休む暇なく武装解除された多数の軍人や、都市への空襲を避けて田舎へ疎開していた人たちを故郷へ送り返す役目が始まった。終戦直後の大都市は食料等の物資が極度に不足し、人々は鉄道を使って郊外へ買出しに出かけた。しかし戦時中に充分なメンテナンスをされずに酷使された施設や車両、人員によって運転された列車は、常時には考えられないような事故を多発し多数の乗客が犠牲になった。

1945年8月22日肥薩線列車退行事故、復員軍人多数を載せた列車が蒸気機関車の出力不足でトンネル内の上り坂で立ち往生。煙による窒息を恐れて機関士が列車をバックさせたが、息苦しさから客車から降りてトンネル内を歩いて逃げていた乗客を巻き込んだ。死者45名。
1945年8月24日八高線列車正面衝突事故、買出し客多数を載せた旅客列車同士が多摩川橋梁上で正面衝突し、両方とも川に転落。死者100人以上。
1945年9月6日中央本線 中央線笹子駅構内脱線転覆事故、笹子駅で列車が車止めを突破して転覆し死者60名。
その他東海道本線醒ヶ井駅付近を走行中のD52形蒸気機関車のボイラーが突然爆発した事故や、古いブレーキホースが破損して発生した近鉄生駒トンネルノーブレーキ事故(死者49名)などの大事故が続発した。また戦後に蒸気機関車の燃料である石炭が極度に不足したため、乗客は増えているのに1947年まで度々列車の大幅な削減が実行された。その結果 旅客車は大混雑した。当時の写真では客車のデッキにぶら下がったり貨車の上に載った乗客が写っている。そのような状況下でアメリカ軍が日本に進駐し、鉄道全般について占領軍による管理が始まった。

占領軍の方針として鉄道の修復を優先し新車の製造を抑えた。そこで不足している旅客用蒸気機関車を賄うため、戦時中に大量生産され戦後は余り気味となった貨物用機関車を改造した機関車が製造された(例D51形→C61形、D52形→C62形)。

進駐軍専用列車
1945年8月に進駐してきたアメリカ第八軍の第三鉄道輸送司令部が、日本の鉄道全般を管理した。司令部は全国各地の国鉄や私鉄の駅に Railway Transportatin Office (RTO) を置き、日本側に指示を出した。国鉄では状態の良い客車を集めて特別に整備し進駐軍専用に指定し、これら使用して東京から全国各地に向かって専用の定期列車を走らせた。東京や大阪の電車区間では国鉄・私鉄ともに1両から半車(1両の半分)を進駐軍専用に使用した。進駐軍指定車は窓下に白い帯を描いて日本人の乗る車両と区別した。RTOによる管理は1952年のサンフランシスコ対日講和条約発効まで継続した。

連合軍専用列車も参照。

大私鉄の分割と日本国有鉄道の発足
戦後GHQの指示により財閥解体が行われたが、鉄道分野でもこの流れに乗って戦時中に大合併した私鉄が1947年から分割され始めた。東京地区では大東急が東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄の4社に分かれた。大阪地区では近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離し、京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分かれた。一方、名古屋鉄道と西日本鉄道は戦前から戦中にかけて多数の私鉄が合併してできた会社だが、戦後もそのままの形が受け継がれた。

国鉄は鉄道省が直接管轄していたが、運輸通信省、運輸省を経て1949年4月1日に運輸大臣が監督権を有する公共企業体「日本国有鉄道」となった。この結果、国鉄の職員に対しては「国家公務員法」ではなく「公共企業体等労働基本法」が適用されることになる。この中途半端な体制は「一応企業の形になっているため国庫からの補助を受けにくいが、政治家の介入は阻めない」ものであり、将来大幅な赤字を生む禍根となった。同じ年に国鉄は行政機関職員定員法により当時598,157人いた職員を503,072人に減らすことが求められた。9万5千人に及ぶ人員整理(いわゆる首切り)は困難をきわめ、1回目の免職者が発表された7月3日の3日後の6日に当時の下山総裁が常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間で死体となって発見される事件(下山事件)に繋がった。下山総裁の死因については、当時から自殺説と他殺説があり、真相はいまだに謎である。不明瞭な事件は続いて、7月15日には三鷹事件(死者6名)、8月16日には松川事件(死者3名)が起こった。いずれも列車事故であるが、人為的な犯罪の可能性が高いとみなされ、この三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件と呼ばれている。

鉄道の復興
1950年に勃発した朝鮮戦争による特需で日本の経済復興が始まった。東海道本線の電化は1949年にそれまでの沼津駅から浜松駅まで、1953年に名古屋駅まで伸び、1956年に全線が電化された。東海道本線には展望車や特別2等車等の豪華な車両を連ねた特急「つばめ」・「はと」が運転され、夜行列車には寝台車が復活した。

長距離私鉄でも優等列車が復活した。鉄道の復興は進み、戦前を超えるレベルに達した。技術的にも 旅客車の構造が改良され、近代的な電車が開発され、ディーゼルカーとディーゼル機関車が進出した。将来の電化方式として交流電化が検討され実用化された。

優等列車の復活
私鉄では近畿日本鉄道が1947年に「名阪特急」を復活させたが、国鉄の特急復活第1号は1949年に東京大阪間を走った「へいわ」である。「へいわ」は翌年由緒ある「つばめ」と改名し姉妹列車「はと」とともに東海道線2往復体制を形成した(それまでの特急列車は「定員制」で座席は乗車してから係員に指定されたが、「つばめ」と「はと」は座席の台帳管理を行い、切符購入時に駅員が台帳管理者に電話で連絡して座席を指定するシステムとなった)。その他の地区でも急行列車や準急列車の復活や新規設定が続いた。東武や小田急などの観光地へ向かう私鉄も、特急電車を復活させた。

客車の鋼体化と軽量客車
明治大正期の客車は、鋼製の台枠の上に木造の車体を載せた構造であった。即ち車両として必要な強度は車両の床に相当する台枠が受け持っており、壁や屋根は木造家屋並みのもの。この構造は安全上から見ると脱線転覆した場合に木造車体がバラバラに壊れるため、乗客の被害が大きくなる問題があった。

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壁や屋根まで鋼製にした客車は1927年頃から少しずつ生産されたが、古い木造客車は戦後も大量に残存していた。1947年2月25日に起こった八高線列車脱線転覆事故はブレーキ故障が原因といわれている事故だが、土手から転落した木造客車がバラバラに壊れた結果、死者184名という大事故になった。
事態を重視したGHQの指示により、木造客車の鋼体化が進められ、1957年までに完了した。台枠のみに強度を持たせたままでの鋼体化は重量が嵩むのが問題となる。そこで重量対策として1953年頃から電車やディーゼルカーを含むすべての旅客車について、壁や屋根の外板にも強度を受け持たせその分台枠を軽量化する「セミモノコック」構造が取り入れられ、軽い車体が製造できるようになった。1955年に製造された10系座席車は台車の軽量化も行われ、軽量客車と呼ばれた。1958年に登場した20系客車は東京と九州を結ぶ寝台特急「あさかぜ」用として作られた車両で、乗り心地改良のため台車に空気バネを採用し、冷暖房を完備して快適性を向上させると同時に騒音の入り口となる窓を固定化して静粛性も改善した。20系は運行中に編成の分割・併合を考慮しない固定編成であり、空調や食堂車で使う電気量が増大した対策としてディーゼル発電機を装備した電源車を連結した。この車両は当時の寝台車の水準を超えた装備から「走るホテル」と呼ばれたり、車体側面を青色に塗られたことからブルートレインと呼ばれて人気を博した。

それまでの客車の乗降扉は走行中も手動で開閉できたが、20系には走行中に乗降扉をロックする機構が装備された。これは、1956年に盲目の音楽家宮城道雄が刈谷駅付近を走行中の客車から転落死した事件に鑑み、客車の安全性向上を図ったものといわれている。また20系より後に生産された客車の乗降扉は、電車同様に自動化された(電車は戦前から自動扉を備えていた)。

高性能電車の登場
戦前の高速電車は大馬力モーターを吊り掛け式に装備するもので、スピードは速いが力行時の騒音や微振動が大きく長距離優等列車には不適切と考えられていた。1950年に完成した湘南型と呼ばれた80系電車も同じ構造であるが、加速性・高速性に優れ、乗降デッキを備えて一応の快適性を持たせ、ブレーキの改良で16両編成運転を実現し、電車による長距離運転の定着に貢献した。

そのころ、アメリカで新しい電車の開発が進んでいた。これは小型高速モーターをカルダン式に装備し、ブレーキにはモーターを発電機として使用する発電ブレーキを空気ブレーキと同期動作させるものである。日本においてこのシステムを本格導入した電車の第1号は1954年に完成した営団地下鉄の300形電車で、真っ赤な車体に銀のサインカーブをあしらった白帯を巻き、3つの両開きドアを並べた斬新な意匠の車体であった。優等列車としては1957年に登場した小田急SE車(3000形電車)が中空軸平行カルダン方式と連接構造の軽量車体の採用により、スピードと乗り心地の両方ともに優れた画期的な電車となった。この電車は完成直後の9月に国鉄の函南駅と沼津駅の間の試験走行で、当時狭軌最高速となる145 km/hを記録した。翌年登場した151系電車は国鉄初の電車特急「こだま」に使用されたが、台車に空気バネを採用、複層窓と浮き床構造により騒音振動をシャットアウトし、全列車完全冷暖房による快適な旅行を提供した。この電車は1959年7月に藤枝駅と島田駅間の高速運転テストで最高速度163 km/hを記録した。この記録は電車による高速運転の可能性を広げ、将来の新幹線運転に繋がるデータであった。

ディーゼルカーとディーゼル機関車の登場
当時未電化区間の旅客車は蒸気機関車が牽引していたが、乗客からは不快な煤煙に対する苦情が強くなってきた。特に勾配区間の長大トンネル内では、状況によっては機関士が窒息死することもあった。

そこで国鉄では、1975年までに蒸気機関車を廃止して他の動力に切り替える方針(動力近代化計画)を立て、これを「無煙化」と呼んだ。当時主要幹線は順次電化される予定であったが、亜幹線以下の路線の電化はコスト的に見合わないことから、無煙化の手段としてディーゼルカーとディーゼル機関車の導入が検討された。ローカル線用の気動車は戦前に少数の単機運転用ガソリンカーが製造されたが、戦争中の石油事情の悪化により使われなくなっていた。戦後再度使われ始めたが、減速機は歯車を運転士が手動で切り替える方式であった。この方式は2両以上を連結して運転する場合、各車に運転士を配置し汽笛等で合図しながら歯車を切り替える必要があり不便であった。複数の動力車をひとりの運転士で運転できる(総括制御)方式として、ディーゼルエンジンで発電機を回してモーター動力によって走行する電気式と、トルクコンバーター(液体変速機)で減速する液体式が比較検討され、コストや整備性の面で優れた液体式ディーゼルカーを採用することになった。実用化の第1号は1953年から製造されたローカル線用のキハ45000形(後のキハ17形)で、引き続き1956年に日光線の準急用としてキハ55系が作られた。液体式はその後日本のディーゼルカーの駆動方式として定着した。

ディーゼル機関車は戦前にドイツ製の小型機関車を輸入してテストした程度で実用化されていなかった。亜幹線の無煙化対策として試作的要素の強いDD50形(1953年)の後、DF50形が1957年から生産され始めた。両形式ともディーゼルエンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動する電気式を採用。エンジンは国内で鉄道用大馬力エンジンの経験が無いため、ドイツの技術協力を得て日本のメーカーで生産したものを搭載した。これらの機関車は蒸気機関車と比べてパワーアップしたわけではなく、やや非力な存在であった。1962年から国産エンジン2基を搭載し液体変速機を採用した(強力な)DD51形が量産され、無煙化が進んだ。

交流電化
鉄道用モーターは回転速度や負荷の大きな変化に対応する必要があるため、直流モーターが適している。そこで鉄道で使用する電気は、電圧600 V – 1,500 Vの直流が採用されていた。

しかし一般の発電所から供給される電気は数万 – 数十万Vの交流であるため、鉄道会社は一定区間毎に変電所を設置して電圧を下げ、直流に変換して使用している。電気の性質として、交流は電圧の変更が非常に容易であること、電気を送る際には電圧が高いほど大きな電力を送ることができること、送電の際の電力ロスは高電圧ほど少ないことがある。すなわち架線に高電圧の交流を流し、車上で使用電圧まで下げて使うことができれば、所要の変電所の数を減らすことが可能になる。交流電化は第二次世界大戦中にドイツで検討され、戦後その技術がフランスに引き継がれて実用化された。日本の国鉄でも将来の電化方式として交流電化を採用する方針が採られ、1955年から仙山線の北仙台駅と作並駅の間の実験線で試作電気機関車を使った実験を行った。この実験は成功し、1957年から始まった北陸本線の電化は交流60 Hz2万 Vが採用され、電気機関車ED70形が生産された。この機関車は、車内で電圧を下げた後、整流器で直流に変換し、直流モーターを駆動させる方式であった。この後の国鉄は北海道、東北、北陸、九州地区を交流で電化し、新幹線も交流電化とした。

第二次世界大戦後の黄金時代
1955年以後、日本は高度経済成長期に入った。経済活動は年を追って活発になり、国民の所得が増えた。ビジネス客や観光客が増え、大量の物資が国内を動くようになった。鉄道は増え続ける旅客や貨物を運ぶために輸送力の強化が続けられ、国鉄や私鉄には新型車両が次々と投入された。

東海道線の電車特急「こだま」は110 km/hの高速で東京-大阪間を6時間半で結んだ。「こだま」はスピードと快適性で人気を博したため、客車編成の「つばめ」と「はと」(東京-大阪7時間半)も1960年に電車化されて「こだま」の仲間入りをした。1958年に東京以北で最初の特急列車「はつかり」が蒸気機関車牽引の客車で走り始めたが、1960年に初のディーゼル特急キハ81系に切り替えられた。ディーゼル特急は翌年に改良型のキハ82系が特急「白鳥」として登場した。82系は非電化区間の花形として、四国以外の各地で特急列車として活躍した。私鉄では近畿日本鉄道が2階建て特急電車「ビスタカー」を増備し、小田急や名古屋鉄道では運転席を屋根上に設けて、乗客に前方展望を提供する「ロマンスカー」や「パノラマカー」をそれぞれ投入した。

貨物列車は高速化の要求が強くなり、EF60形やその改良型であるEF65形では100km/h以上の速度での運転が可能であり、「たから号」や「とびうお号」などの特急貨物列車牽引のほかに寝台特急の牽引機にも充当された。

経済の発展につれて「より広い住まい」への要求が強まり、各地で鉄道会社と自治体がタイアップして大都市郊外に大規模な宅地が造成され(いわゆる「ニュータウン」)、アクセス手段として新線が建設された。この時期の特徴として、「鉄道会社によるプロ野球球団の運営」が上げられる。戦前からの老舗の阪神タイガースと阪急ブレーブスに続いて、国鉄スワローズ、近鉄バファローズ、南海ホークス、西鉄ライオンズが登場し、地域住民との一体化と乗客確保や社員の士気鼓舞に一定の役割を果たした。

国鉄では指定席を連結した優等列車が増え、従来の台帳と電話による座席指定システムが限界に達し、1960年にコンピューターによる座席指定システムマルス1が東京地区に導入された。最初は下りの第一こだまと第二こだまのみの対応であった。東海道新幹線の開業時の指定券は台帳方式であってかなりの混乱があったが、翌年(1965年)に新幹線もマルス対応となった。1965年に国鉄は指定券を取り扱う窓口を分離してみどりの窓口とした。1970年に座席指定業務はすべてコンピュータ化され、台帳作業は無くなった。

さらなる輸送力強化
経済の急成長につれて主要幹線の輸送力が不足してきた。国鉄は主要幹線の複線電化工事を進めたが、東海道本線については抜本的改善策が必要となった。国鉄総裁の十河信二は技師長に招聘した島秀雄と協力して、国際標準軌を採用した高速電車新幹線の建設を決め、その完成に力を尽くした。高度経済成長は大都市への人口流入を促し、東京地区と大阪地区の通勤客がさらに増加した。通勤電車の混雑解消のために、国鉄では5路線を複々線化する「通勤五方面作戦」を策定し、建設に着手した。また関東の私鉄各社と国鉄は、通勤電車を直接地下鉄に乗り入れる「相互直通運転」を開始した。一方関西地区では相互乗り入れは少なく、輸送量増加に対してターミナル駅の大規模な拡充が行われた。

新幹線の完成
1960年代に入ると、東海道本線の輸送量は限界に達した。東京駅から西に向かって毎日60本以上の優等列車が走り、そのすき間をたくさんの貨物列車とローカル列車が埋めた。この事態解決の手段として、新規に国際標準軌による別線を建設し高速電車を走らせる「新幹線」計画が策定された。この計画は1959年3月に国会で承認されたが、世界の鉄道が未経験の「時速200 kmを超える定期列車」という高い目標にもかかわらず、5年後の1964年に完成させるという短期間の計画であった。このため実際の路線の一部を前倒しで完成させ、そこで試作車両を実際に走らせて車両や施設の確認試験を実施し、その結果に基づいて本番用の車両や施設の構想を固めてゆくという方式がとられた。この試験線は神奈川県西部にモデル線として建設され、一般にも公開された。当時、時速200 kmで走る新しい鉄道に「夢の超特急」というフレーズが付されたが、十河信二総裁と島秀雄技師長の指導と国鉄職員の努力の結果、1964年(東京オリンピック開催の年)に東海道新幹線が開業した。開業当初は東京-大阪間に4時間かかったが、翌年路盤が安定するのを待って3時間10分に短縮した。新幹線の開業によって在来線(東海道本線)の昼行長距離列車の需要は無くなり、貨物列車とローカル列車が走る路線となった(十河と島は新幹線の開業前に建設費の暴騰の責任を取って辞任し、開業セレモニーには招待されなかった)。

通勤輸送の強化
経済の発展につれて大都市への人口流入が続き、通勤客が増えた。1960年には東京地区の通勤電車は乗車率が300%を超える(総武線312%など)路線があった。この混雑解消のために国鉄は「通勤五方面作戦」を作成した。すなわち混雑のひどい「東海道本線」、「中央本線」、「総武本線」、「東北本線」、「常磐線」の5線を複々線化する計画である。地価が暴騰しつつある都市部の増線工事で、各線とも膨大な工事費を使って完成された。東京地区の私鉄と国鉄は、営団地下鉄や都営地下鉄と提携して、地下鉄の路線に郊外からの通勤電車がそのまま乗り入れる「相互直通乗り入れ方式」を策定して乗客の利便性向上とターミナル駅の混雑緩和対策とした。相互乗り入れは1960年に京成電鉄が都営地下鉄に乗り入れたのが最初で、1962年の東武鉄道の地下鉄日比谷線乗り入れ等が続いた。

「相互乗り入れ」は大阪では阪急電鉄の堺筋線乗り入れ以外は進展せず、乗降客の増加対策として阪急電鉄の梅田駅(1973年完成、9線10面)、南海電鉄の難波駅(1980年完成、8線9面)などの大規模ターミナルが作られた。阪急梅田駅は自動改札を全面的に採用した駅の嚆矢となった。また京阪電気鉄道と近畿日本鉄道は市内中心部へ路線を延伸して、地下鉄との乗り換えの便を図った。

戦前の地下鉄は東京と大阪だけであったが、1957年の名古屋を皮切りに、札幌(1971年)、横浜(1972年)、神戸(1977年)、京都、福岡(何れも1981年)、仙台(1987年)などの大都市でも地下鉄が開通した。 地下鉄よりも輸送量の少ない路線に対応した新しい都市交通機関として、1964年に浜松町駅と羽田空港間に東京モノレールが開通した。

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