コレクションの常設展、三重県立美術館

三重県立美術館 は、に中部・東海地区初の本格的な美術館として開館した、日本の近代洋画のコレクションが充実している。

第1室 中澤弘光にちなんで―特集展示
1.明治大正の水彩画
中澤は《夏》などの油絵で知られていますが、一方で日本水彩画会の創立会員となり、水彩画の手引書を刊行するなど、この分野においても活躍しました。ここでは、松坂出身の岩橋教章による明治初期の水彩画や、中澤と同時代に活躍し、同じく日本水彩画会員であった石川欽一郎らの作品をご紹介します。

2.1920年代のヨーロッパ
1922(大正11)年、約半年間のヨーロッパ遊学を果たした中澤は、すでに48歳になっていました。しかし、当時のヨーロッパは第一次世界大戦が終結し、パリを中心に文化の花開いた良き時代で、日本からも数百人もの芸術家がこの地を訪れました。

3.静物画とモチーフ
絵画の重要なジャンルのひとつでもある静物画。その選ばれる対象物は、その画家の個性とも密接につながっていると言えるでしょう。今回は、ご遺族から寄贈いただいた、鈴木金平が使用した実物モチーフも合わせて展示いたします。

ルイニ模写について
中澤がベルギーの画家ロドルフ・ウィッツマン(Rodolf WYTSMAN)の模写をした明治時代の中頃以降から大正期にかけて、西洋の名画を中心とした模写が活発に行われました。日本には、まだ手本となる西洋の作品がほとんどなかったこと、印刷の複製技術がまだ未熟であったことなどから、黒田清輝や久米桂一郎らによる現地での模写でさえ、技法研究の資料として重宝されました。このルイニによるキリスト降誕図の模写は、長原が黒田のルーヴル美術館での模写をもとにふたたび模写したものと考えられています。

第2室 19世紀以前の西洋美術―緻密な表現を中心に

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 「アレクサンドリアの聖カタリナ」1645-50頃
フランシスコ・デ・ゴヤ 「アルベルト・フォラステールの肖像」1804頃
ウィリアム・ブレイク 「ヨブ記」(版画)1825
クロード・モネ 「橋から見たアルジャントゥイユの泊地」 1874
ピエール=オーギュスト・ルノワール 「青い服を着た若い女」1876頃
パブロ・ピカソ 「ロマの女」1900
サルバドール・ダリ 「パッラーディオのタリア柱廊」1937
マルク・シャガール 「枝」1956-62
ベン・ニコルソン 「パロスの木」1968

第3室 蕭白と月僊

曾我蕭白
曾我蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) – 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。

蕭白の特徴は、部分の細密で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆な把握にある。構図における大胆な空間把握、顔料の性質を熟知した上になりたつさまざまな独創に支えられた鮮やかな彩色は、相共に強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了しまたおののかせる。江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた蕭白の絵は、仙人、唐獅子、中国の故事など伝統的な画題を、同じく正統的な水墨画技法で描いていながら、その画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。

当時、蕭白の作品は、同時代の円山応挙や池大雅、与謝蕪村ほどではないにしろ、一般の人々に受け入れられていた。蕭白の贋作が多いのは、贋作者のモチベーションを刺激しただけでなく、それだけ蕭白の人気が高かった裏付けともいえる。明治時代以降は評価が低かったが、1968年『美術手帖』誌で連載された辻惟雄の「奇想の系譜」で取り上げられたこと等がきっかけとなり、江戸時代絵画史に異彩を放つ個性的な画家として近年再注目されている。

なお、蕭白については、「異端」「奇想」という側面のみがもっぱら強調され、偏った評価を生んでいたとの反省をふまえ、より多様な視点からの研究が必要だとの指摘もある。

横尾忠則の作品には蕭白の作品を下敷きにして描かれたものがある。『群仙図』から触発されて『消された記憶』、『雪山童子図』からは『二河白道図』などが制作されている。

明治時代には忘れられており、多くの作品が失われたり破損したりしていた。そのため、ウィリアム・スタージス・ビゲローによってこうした作品の多くがボストン美術館に持ち込まれることになり、現在は同美術館が最大の蕭白コレクションを所有している。

月僊
月僊(げっせん、元文6年1月1日(1741年2月16日) – 文化6年1月12日(1809年2月25日))は、江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。

尾張国名古屋の味噌商の家に生まれる。7歳で得度、玄瑞の名を与えられて浄土宗の僧となる。10代で江戸に出て増上寺に入ると増上寺46世の妙誉定月に眷顧され、定月から一字を貰い受けて「月俸」と号した。仏門修行の傍ら、雲谷派に連なり「雪舟十二代画裔」と自称した桜井雪館に画を学ぶ。その後上洛して知恩院に住し、円山応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立した。

山水・人物を得意とし、人物の形影が寂寥としていることを特長とする。誰に乞われても必ず画料を取ったので「乞食月僊」と世に知られたが、「画料を官に納めてその利子でながく貧民を救う(月僊金)などの活動」をしていた。知恩院の貫主に懇願されて、1774年(安永3年)伊勢国宇治山田(現在・三重県伊勢市)の寂照寺を再興するために入山。画名が高まり画を請う者が絶えず、巨万の富を積みさらに銭をむさぼること甚だしいため、譏る人も多かった。しかしのちに寺の伽藍・山門を建て、経典を購入して倉におさめ、山道の改修・天明飢饉の施米・宮川架橋・文化年間の伊勢大火罹災者の救済などに尽くす姿を見せ、人はみなその功徳に服すようになったという。死に臨んで遺言し、窮身永代救済に千五百両を奉行所へ寄託する。京都妙法院、愛知県岡崎市昌光律寺・寂照寺、三重県立美術館などに作品が残されている。門下に立原杏所・亜欧堂田善・村松以弘などがいる。

『列仙図賛』(3巻、天明4年(1784年)刊)、『耕織図』『月僊画譜』などの作品がある。

三重県立美術館
三重県立美術館は三重県津市にある美術館である。1982年に中部・東海地区初の本格的な美術館として開館した。2003年には柳原義達記念館が開館した。日本の近代洋画のコレクションが充実している。

美術館のあり方の特徴は、それが単なる象牙の塔に留まらず、常に社会に積極的に働きかけようとすることにあります。

企画展開催に際しての広報活動、美術講演会、ギャラリートークや美術セミナー、遠隔地の人々を対象にした移動美術館、美術館ニュース『HILL WIND』の発行などを行っています。

美術館活動の成果が最も目につくかたちをとるのは、作品の展示においてです。とりわけ美術館の真価が問われるのは、その常設展示によってです。本館の常設展示は年間4期に分けて、日本近代絵画を中心に、現代に至る美術の流れを系統的に捉えることを目指しています。また企画展示室では独自のテーマによる自主企画展を催すとともに、より広い観点での共同企画展を行っています。