西京区,京都市,近畿地方,日本

西京区は、京都市を構成する11区のひとつ。桂川以西の西京区と、乙訓郡(向日市・長岡京市を含む)をあわせて、西山ともよばれる。 山科区と同時に誕生した、京都市で最も新しい区のひとつである。

京都市街地の西南方、桂川の右岸に位置する。周囲を右京区、南区、京都府向日市、京都府長岡京市、大阪府島本町、大阪府高槻市、京都府亀岡市に接する。面積59.20平方キロメートル。2009年3月現在の推計人口は約153,000人。

観光地として名高い嵐山、松尾大社のある松尾地区、桂離宮のある桂地区、勝持寺(花の寺)や大原野神社がある大原野地区は当区に属する。他にも苔寺として知られる西芳寺、西国札所の善峯寺などの著名社寺が多い。洛西ニュータウンも当区に位置する。西端の外畑、出灰地区は大阪府と接している。

当区はもと右京区の一部であり、昭和51年(1976年)に桂川右岸の地域が分区して成立したものである。区の北部から東部は昭和6年(1931年)、当時の右京区に編入された、旧葛野郡の松尾村、桂村、川岡村の区域である。区の南部から西部はもとの乙訓郡大枝村と同郡大原野村で、前者は昭和25年(1950年)、後者は昭和34年(1959年)、当時の右京区に編入されている。

歴史
古来より現在の西京区や右京区を含む地域には、渡来系の一族である秦氏が居住していた。この秦氏の氏寺的な存在が右京区の広隆寺で、祭祀が行われたのが松尾大社であると言われている。西京区の山田地区には秦河勝末孫の東家の墓が京都市街を見守るように立っている。秦氏は5世紀頃に桂川の治水工事を行っていたとの説があるが、西京区の桂川沿岸では洪水がたびたび起こったという。

行政区画としては桂村・川岡村・松尾村は葛野郡、大原野村・大枝村は乙訓郡と分かれて存在していた。

平安時代には桂女という女性の商人が洛中に行商を行った。丹波との国境の大枝には酒呑童子の鬼が居たと言われ、源頼光によって討伐されたという伝説がある。このほか当区内の由緒ある寺社と言えば藤原氏の祀社・春日神社(大原野神社)、善峰寺、樫原廃寺跡、西芳寺などがある。

京都に政権中枢があった室町時代には、将軍足利義満の時代に、将軍直属の軍勢として西ヶ岡土豪衆を中心に「奉公衆」が結成された。彼らは明徳の乱や応仁の乱など市街地が舞台となった合戦で活躍し、応仁の乱では細川勝元の指示で大内政弘を攻撃するなど、室町政界に参与した。

江戸時代には山陰街道が、現在の西京区域を横断するように敷かれ、沿道の桂、樫原、大枝は宿場町として栄えた。また山陰街道脇に八条宮(桂宮)初代の八条宮智仁親王が桂別業を造営した(後の桂離宮)。また、桂は保津川水運の発着所ともなった。

区の概要
京都市の西南部に位置し,京都の西の玄関口としての役割を担っている西京区は,昭和51年10月に,桂川を境界線として,右京区から分区して誕生しました。京都を代表する河川である桂川が区の東部をゆったりと流れ,西部には嵐山,小塩山などの西山連峰を有する,水と緑,自然が豊かな行政区で,区域の東側は右京区,南区,西側は亀岡市,大阪府高槻市,南側は向日市,長岡京市,大阪府三島郡島本町と接しています。

この間,洛西ふれあいの里などの福祉施設,文化,スポーツの拠点となる西文化会館ウエスティ,桂川地域体育館など,区民の様々な活動を支援する体制が整い,いきいきとしたまちづくりが進められるとともに,阪急洛西口駅や隣接する南区のJR桂川駅の開設をはじめ,国道9号京都西立体交差事業,京都第二外環状道路の整備など,都市基盤の整備も進められてきました。現在も,阪急洛西口駅付近の高架下空間の有効活用を行う阪急高架下洛西口~桂駅間プロジェクトや,善峰川や新川の改修工事等が進められています。

また,京都大学桂キャンパス内にナノテクノロジーやバイオ技術などの研究について産学連携をより一層推進する拠点となるローム記念館が平成17年5月にオープンするとともに,京大桂ベンチャープラザも整備され,最先端の研究の事業化を促進し,起業家の支援や産学共同研究の場となることを目指す「桂イノベーションパーク構想」の推進が図られました。

一方で,野菜づくりを中心とした都市型近郊農業が盛んで,全国的に有名なたけのこや柿のほか,なすの収穫量も市内で最多となっています。また,大原野では花き団地を作り,花苗などの生産が行われています。

名所旧跡
嵐山の法輪寺や松尾大社,華厳寺(鈴虫寺),西芳寺(苔寺),西山山麓の勝持寺(花の寺)や大原野神社,善峯寺など,歴史ある寺社が数多く存在しています。 また,桂川沿いには江戸初期に造営された桂離宮があり,旧山陰街道沿いには「西京樫原界わい景観整備地区」に指定されている歴史的な街並みが広がっています。

桂離宮
桂離宮は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。 桂離宮は京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置する。ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かる。

桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」といった)である桂殿が営まれていたという。また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいる。この地は風流な観月の名所としても知られていた。桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。こうした地にある桂離宮には、観月のための装置という意味合いがある。それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった。

桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている。昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した。

西芳寺
西芳寺は、京都市西京区松尾にある臨済宗の仏教寺院。天龍寺の境外塔頭だったが、現在は離脱して単立寺院。庭園は約120種の苔に覆われ、苔寺の通称で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。 伝承によれば、西芳寺のある場所は飛鳥時代には第31代用明天皇の皇子である聖徳太子の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという。

奈良時代に至って、第45代の聖武天皇の勅願を得た行基が別荘から寺へと改めたと伝える。当初は法相宗寺院で「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした。畿内49院の一つであった。 平安時代初期の806年には第51代平城天皇皇子である真如法親王が草庵を結び修行をしたという。また真言宗開祖である空海が入山し、黄金池にて放生会を行ったという。 鎌倉時代には摂津守の中原師員(摂津氏の祖)が再興し、西芳寺と穢土寺に分けられた。招かれた法然によって浄土宗に改宗され、本尊は金泥にされたという。 その後に親鸞は愚禿堂を建立して寺に滞在している。 鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼が桜堂を建立したが、建武年間に再び寺は荒廃している。

松尾大社
松尾大社は、京都府京都市西京区嵐山宮町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 京都盆地西部、四条通の西端に鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられた。中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社である。

境内は、神体の松尾山の麓に位置する。本殿は室町時代の造営で、全国でも類例の少ない両流造であり国の重要文化財に指定されている。また多くの神像を有することでも知られ、男神像2躯・女神像1躯の計3躯が国の重要文化財に、ほか16躯が京都府指定有形文化財に指定されている。そのほか、神使を亀とすることでも知られている。

華厳寺
華厳寺は、京都府京都市西京区にある臨済宗の寺院。山号は妙徳山。本尊は大日如来。鈴虫を四季を通して飼育しているため、通称「鈴虫寺」と呼ばれている。 様々な種類の竹を集めた庭園や、わらじをはき、願い事を一つだけ叶えるという「幸福地蔵」、僧侶による参拝者への茶菓のもてなしと鈴虫説法なども有名で、京都市内の寺院の中でも特に積極的な拝観者招致策を展開し、成功した例としても知られる。

享保8年(1723年)、鳳潭によって創建される。鳳潭は学僧として知られ、華厳宗の復興を志して当寺を創建した。慶応4年(1868年)、慶厳が入寺して臨済宗に改められた。 寺の所在地はかつての最福寺の旧地である。最福寺は平安時代末期、源義家の後裔の延朗上人によって建立されたもので、現在も華厳寺の東方に「谷ヶ堂」という小堂が最福寺の旧跡として残されている。

法輪寺
法輪寺は、京都市西京区にある仏教寺院。山号は智福山。宗派は真言宗五智教団に属する。 名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として親しまれ、奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。古くは『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。十三詣りや針供養、うるし祖神の寺としても著名である。さらに境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。

寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺として建立したとされる。その後、天長6年(829年)、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、貞観10年(868年)、寺号を法輪寺と称したという。 室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、元治元年(1864年)の禁門の変により、再度罹災している。

勝持寺
勝持寺は、京都市西京区大原野南春日町にある天台宗の寺院。山号は小塩山。本尊は薬師如来。花の寺として知られる。西国薬師四十九霊場第42番札所。 勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置し、大原野神社に隣接する。大原野神社の別当寺であった。大原野神社は延暦3年(784年)、長岡京遷都時に、奈良の春日神社(現・春日大社、藤原氏の氏神)の分霊を祀ったものである。

勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。寺伝では白鳳年間(672年 – 686年)役小角の創建と伝えられる。その後延暦10年(791年)最澄が再興して小塩山大原寺と称し、仁寿年間(851 – 854年)千観によって再興されたという。 応仁の乱で焼失し、天正年間(1573年 – 1592年)に再建された。江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。

地蔵院
地蔵院は、京都市西京区山田北ノ町にある臨済宗系の単立寺院。山号は衣笠(藤原)家良に由来する衣笠山。本尊は地蔵菩薩。周囲を竹林で囲まれていることから竹の寺の通称で知られる。 この場所は、もともと衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良が山荘を営んでいたところで、寺は1368年(応安元年)、室町幕府管領を務めた武将の細川頼之が尼僧妙性から土地を買取り、寄進したことにによって創建された。細川頼之は碧潭周皎(宗鏡禅師)に帰依して出家した。当寺の実質的な開山は碧潭周皎であるが、碧潭は法兄である夢窓疎石を勧請開山としている。

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南北朝時代には勅願寺となって寺運も興隆したが、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失し寺運も衰えた。 江戸時代までは境内にわずか2つの末寺が残っているだけだったが、1686年(貞享3年)方丈が復興し、寺観が整備された。江戸期には天龍寺に属した。 もとは臨済宗に属していたが、1968年(昭和43年)に独立して単立寺院となっている。 なお、一休宗純は6歳で出家するまで母と共にこの寺で過ごしたと伝えられており、2017年には「一休禅師母子像」が境内に建立されている。

浄住寺
浄住寺は、京都市西京区にある黄檗宗の寺院。山号は葉室山。本尊は如意輪観音。京都洛西観音霊場第三十番札所。 鉄牛禅師によって再興されて以来、黄檗宗では本山に次ぐ寺格を有していた。左右対称で回廊を擁する伽藍や、方丈庭園等、本山である萬福寺を意識した設計がなされた。よって、鉄牛禅師を祖とする長松派(萬福寺塔頭長松院)の筆頭寺院にあたる。 近年まで完全非公開だったが、2015年4月25日、精浄文化研究部主催の企画以来、公開される機会が増加した。

寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願寺として創建されたといい、円仁(慈覚大師)を開山とする。当時は常住寺と号した。 1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し、浄住寺と改められた。中興開山は奈良西大寺の叡尊。葉室家の菩提寺として栄えた。 1333年(正慶2年)4月の六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍の戦乱により全焼した。 1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)の応仁の乱の兵火で荒廃し、1567年(永禄10年)にも全焼した。 1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院となった。 1689年(元禄2年)葉室孝重による再興という説もある。 1697年(元禄10年)に現在の本堂や寿塔が再建された。 方丈は伊達綱村による寄進で、幼少時の遺館。 明治時代には一時無住となり衰微したが復興された。 2006年(平成18年)に1333年(正慶2年)2月作成の浄住寺境内絵図が、 2007年(平成19年)には1591年(天正19年)8月2日付豊臣秀吉寺領安堵状ほか4点の中世文書が発見された。 2010年(平成22年)開山鉄牛道機遺掲の石碑が境内に建立された。

善峯寺
善峯寺は、京都市西京区にある善峰観音宗(天台宗系単立)本山の寺院。山号は西山。本尊は十一面千手観世音菩薩。西国三十三所第20番札所。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街や比叡山を一望できる。 寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が自作の千手観音像を本尊として創建したという。その後、長元7年(1034年)には後一条天皇により勅願所に定められ、「良峯寺」の寺号を賜った。

長久3年(1042年)、後朱雀天皇の命で洛東鷲尾寺にあった仁弘法師作の千手観音像を当寺に遷して新たな本尊としている。また、白河天皇より本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、二王門、鎮守七社の堂社を寄進されている。 鎌倉時代初期の建久3年(1192年)には、慈円が住したこともあり、後鳥羽天皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれ、室町時代には僧坊の数は52を数えていた。 だが、応仁の乱に巻き込まれて伽藍の大半が焼失した。江戸時代になってから江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が大檀那となって、現存する観音堂・鐘楼・護摩堂・薬師堂・経堂・鎮守社などが再建されて復興を遂げた。

大原野神社
大原野神社は、京都府京都市西京区大原野にある神社。二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 奈良の春日社(現在の春日大社)から勧請を受けたもので、「京春日かすが)」の別称がある。その春日大社、京都の吉田神社と並んで、「藤原氏の氏神三社」のひとつに数えられる。

京都盆地の西縁、西山山地の一峰にあたる小塩山の麓に広がる大原野の地に鎮座する。 平安京以前に由緒をもつ古社で、延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。その最初の鎮座地については諸説あり、延喜式神名帳に記載される入野神社(大原野上羽町)が有力とされる。 嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営。貞観3年(861年)以降皇后の参拝が再々あり、また円融天皇、一条天皇が度々行幸されるなど、藤原氏のみならず朝廷からも特別な崇敬をうけ、平安時代に二十二社に列した。

室町時代末の戦乱で社領を減らし、応仁の乱後はその祭祀も中絶したが、江戸時代の後水尾上皇のころより復興、幕末の慶応元年に至って官祭も復興され、明治4年に官幣中社に列せられた。 藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるようにと当社に祈願し、祈願通りになると行列を整えて当社に参詣することが通例となっていた。貞観18年(876年)、清和天皇の女御となった藤原高子(二条の后)が当社に参詣した際、右近衛権中将で高子のかつての恋人であった在原業平がその行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠んだ。

正法寺
正法寺は、京都市西京区にある真言宗東寺派の寺院。山号は法寿山。本尊は千手観音。西国薬師四十九霊場第41番札所。 この寺は、754年(天平勝宝6年)唐から日本へ渡来した智威大徳が修行した坊に始まるとされ、その後延暦年間(782年~806年)最澄がこの地に寺を建立したと伝えられ、弘仁年間(810年~824年)空海が入寺したという。慶長年間(1596年~1615年)戒律の僧志徹が復興し、大原野の出身で江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の帰依を得た。

樫原廃寺跡
樫原廃寺跡は、京都府京都市西京区樫原にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。京都市西南部の長岡丘陵東麓に位置する。7世紀半ば(飛鳥時代後期)に建立され、平安時代中期に廃絶したと考えられる。寺名が判明しなかったため地名をとって名付けられた。現在では、復元された八角塔(基壇)を中心に周辺一帯が史跡公園となっている。

1967年(昭和42年)に、市営住宅の建設に伴い発見され発掘調査が実施された。この時、花崗岩の礎石が見つかり八角塔(八角形の瓦積み基壇の塔)跡の存在が確認された。八角塔を中心に南側には基壇を持つ中門跡が検出され、南面(中門の左右)には回廊、東面・西面には築地が巡っていた跡も確認された。遺構の検出状況と現状の地形から、中門・塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺と同様の伽藍配置であったと推定される。遺存状況が極めて良く、国内では発見例の極めて少ない八角塔が検出され、建築史上重要な寺院跡として、1971年(昭和46年)3月1日に史跡に指定された。その際、八角塔の基壇が復元され、周辺一帯が史跡公園として整備保存された。

さらに、1997年(平成9年)には、指定地域の北方で民間の宅地開発に伴い発掘調査が実施され、寺域北辺を画する回廊跡と掘立柱建物3棟が検出され、続いて実施された確認調査では塔の北側に建物基壇が検出された。これまで明らかでなかった寺域の北辺と伽藍の一部が明らかとなり、これらの地域を含む一帯が史跡に追加指定された。

地蔵寺
地蔵寺は、京都市西京区桂春日町にある浄土宗の寺院。山号は久遠山。本尊は地蔵菩薩。京都六地蔵めぐりの寺のひとつである。 1157年(保元2年)平清盛により創建されたという。

天皇の杜古墳
天皇の杜古墳は、京都府京都市西京区御陵塚ノ越町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている(史跡「乙訓古墳群」のうち)。 京都盆地西縁、桂川右岸の山裾に築造された古墳である。中世期から文徳天皇(平安時代の第55代天皇)の陵と伝承されており、古墳名の「天皇の杜」や周辺地名の「御陵」はそれに由来するという。現在までに墳丘を良好に遺存し、1988-1989年度(昭和63-平成元年度)には発掘調査が実施されている。

墳形は前方部が広がらない柄鏡式の前方後円形で、前方部を南南東方に向ける。墳丘は2段築成。墳丘長は約83メートルを測るが、これは京都市内では最大級の規模になる。墳丘表面では葺石・埴輪列(円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されている。墳丘周囲に周濠は巡らされていないが、周濠様の兆域区画が認められている。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかでない。 この天皇の杜古墳は、古墳時代中期初頭の4世紀末頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、考古学的には桂川右岸を治めた有力者と見られている。 古墳域は1922年(大正11年)に国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備・開放されている。

自然空間

嵐山
嵐山は京都府京都市の観光地。国の史跡および名勝に指定されている。 本来地名としては西京区(桂川の右岸)を指し、左岸は右京区嵯峨であるが、観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋(とげつきょう)周辺全域を一まとめに嵐山と称することが多いため、ここでは渡月橋周辺全域としての嵐山を扱う。 嵐山は桜や紅葉の名所である。日本さくら名所100選並びに日本紅葉の名所100選に選定されている。京都市街の西に位置し、平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都の代表的な観光地となっている。嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴になっている。なお渡月橋をはさんで上流が大堰川、下流から桂川と呼称が変わる。JR山陰線の北側には嵯峨野と呼ばれる観光地が広がっている。

元来は寺社めぐりや紅葉などの景観が観光の主体であった。1980年代には渡月橋の北側を中心にタレントショップが急増し、修学旅行生など若い観光客で賑わう一方で、雰囲気が破壊されるとの批判もあった。バブル崩壊後はこうしたタレントショップは減少し、現在はほとんど存在しない。1990年代以降、小規模な博物館の開館が相次ぎ、2004年(平成16年)には温泉が掘削された(嵐山温泉)。

2013年(平成25年)9月16日に大規模な水害に見舞われ、多くの旅館や売店が被災したが、紅葉シーズンに間に合うように復旧が進められ、10月初めまでにほとんどの施設が再開した。 観光シーズンになると渋滞が激しく道路交通が麻痺してしまうため、乗用車の乗り入れ規制や、郊外に格安または無料の駐車場を整備しそこからバスで運ぶパーク・アンド・ライドの実験が行われた。

大堰川の上流の保津川の流域では林業が盛んであり、かつては伐採した木材を京都の街に運ぶために川が使われた。嵐山はその終着点であり、現在では同じコースを遊覧船で下る「保津川下り」が亀岡市から体験できる。

ポンポン山
ポンポン山は、京都府京都市西京区と大阪府高槻市の境界に位置する標高678.7mの山で、西京区及び高槻市の最高峰である。山頂の二等三角点は西京区に所在する。古くは加茂勢山と呼ばれていた。北摂山系に属する。 山頂わきを東海自然歩道が通過しており、一年を通じて登山者/ハイカーが多い。

また、1月1日の初日の出の際には、山頂で日の出を迎えようとする登山者が特に多い。 山頂はベンチやテーブルの設備もあり、休憩に適しているが、樹木の成長により、一時展望がほとんど無くなっていた。登山道は東海自然歩道の南側である高槻市の神峯山寺・本山寺からの道と、北側の京都市西京区の善峯寺からの道、高槻市出灰からの道、大阪府三島郡島本町の大沢から釈迦岳山頂を通過する道がある。

小塩山
小塩山は、京都府京都市西京区にある山である。 京都市西方の西山山地に位置する山である。当山の東のふもとには勝持寺(花の寺)、大原野神社、洛西ニュータウンがあり、このニュータウンからはこの山の山容をはっきりと見る事ができる。また京都市中心部の眺望が良い所や清水寺からも西方の遠くにこの山を見る事ができる。

山のふもとから山頂まで舗装道である京都府道141号小塩山大原野線が通っている。以前は一般車も通行が可能だったが、現在は一般車両通行禁止(徒歩では通行可能)となっている。

山頂は淳和天皇の遺灰を散骨した場所とされ、大原野西嶺上陵(淳和天皇陵)がある。また山頂付近には在京都FM局の送信所が置かれ、府南部の広範囲に電波を発射している。他にもNTT、関西電力、大阪ガス、国土交通省、消防、警察、アマチュア無線等の無線中継局があり、多くの中継アンテナが建っている。

桂川
桂川は京都府を流れる淀川水系の一級水系。 京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流するが、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北地区を東西に横断し、南丹市日吉町天若の世木ダム、同市日吉町中の日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦断し、保津峡を南東に流れ、嵐山で京都盆地に出て南流、伏見区で鴨川を併せ、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる。

通例として、京都市右京区京北地区の流域にかけては「上桂川」、南丹市園部地区に入ると「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川」、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは「保津川」などと名を変え、嵐山から合流地点は再び「桂川」と称される。 これらは通例であり、1896年(明治29年)4月に旧河川法が公布、同年6月の施行以降、行政上の表記は「桂川」に統一されている。国土地理院の測量成果においても、全流域において「桂川」の表記に統一されており、他の呼称が用いられることはない。

小畑川
小畑川とは京都府を流れる淀川水系の一級河川。 京都府京都市西京区と京都府亀岡市の境に位置する大枝山の老ノ坂峠に発する。京都盆地の南西縁、主に洛西・乙訓地域を南方向に流れ、京都府乙訓郡大山崎町の桂川右岸、三川合流附近へと注ぐ。

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