中京区,京都市,近畿地方,日本

中京区は、京都市を構成する11区のうちのひとつである。中京区は昭和4年4月に上京・下京より分区し,文字どおり京都市の中心として誕生しました。以来,先人から引き継がれた町衆の心意気と高い自治の意識に支えられ,政治・経済・文化の機能が集積した素晴らしいまちに発展してきました。

京都で最も有名な3つの祭り、葵祭、祇園祭、時代祭は中京区で開催されます。 この地区には、二条城(徳川幕府の旧居)や京都国際マンガミュージアムなど、数多くの史跡、寺院、美術館があります。

現在の中京区範囲は令制国時代に山城国葛野郡及び愛宕郡に属し、1868年に江戸幕府を廃止した後、新たに設立された京都府に属し、1879年に京都府が郡区町村編制法を施行した時、京都府の下に上京区と下京区を設置した。1889年に日本で市制が実施され、上京区と下京区は京都市に併設されましたが、上京区と下京区の行政区画は依然として保留されています。1929年に、上京区の丸太町通以南の地域と下京区の四条通以北の地区が分けられて現在の中京区を設立します。

1985年以降、人口は一時10万人を割り込みましたが、近年は人口が都心に戻り、2005年の日本国勢調査でこの区の人口は再び10万人を突破しました。今日,マンションやビルの増加により町並みが変容するとともに,高齢化やが進み。

中京区は、旧上京区の丸太町通以南と旧下京区の四条通以北(四条通に面する町は下京区。但し、現在は四条大宮より西の壬生と呼ばれる地域は南は五条通・西は西大路通まで、西ノ京は一部が北は市立北野中学校の位置まで・西は木辻通まで中京区である)から分離して成立したものである。

区の概要
京都市街地のほぼ中央に位置する。東は左京区と東山区、西・南・北はそれぞれ右京区、下京区、上京区に接し、西北のごく一部が北区に接する。面積7.38平方キロメートル。2009年3月現在の推計人口は約103,600人。昭和4年(1929年)に上京区・下京区の各一部をもって新設された区である。

区の東には鴨川が流れ、東山区との境をなす。区の中央部北寄りには二条城が広大な面積を占める。区の南東部、四条河原町周辺は市内随一の繁華街で、花街の面影を残す先斗町通り、アーケード街の錦市場なども近くにある。京都市役所も区内にある。

梅屋学区
梅屋学区は,平安時代,貴族の大邸宅も多くあり,なかでも,藤原摂関の邸宅であった高陽院があった由緒ある地域であります。安土・桃山時代には,豊臣秀吉が京都の町を改造し,その一環として,南北に通じる衣棚通・釜座通・小川通などの道路が新しく造られ,現在の中京区の原形ができました。因みに,梅屋の由来は,関白秀吉が愛でた梅屋敷の跡地に小学校が建てられたため梅屋と呼ばれるようになったとのことです。

竹間学区
竹間学区は,北は丸太町通,南は二条通,東は高倉通,西は室町通と,烏丸通を挟んで東西に細長い学区であります。 現在学区には約千百世帯の方々が生活の拠点とし,活力ある学区づくりを目指し区民運動会,夏祭りや新年もちつき大会,自治会館を利用したいきいきサロン等,各種団体を中心とした幅広い年齢層を対象にした行事を開催し,古くからの住民と新しく転居された方々の交流の場を設け,学区民が一体になれる様活動を行っております

富有学区
古書店,古美術など,個性的な店が並ぶ寺町通は,歩車道が美しく舗装され,レトロ的な雰囲気を醸し出しています。また,家具店が集積する夷川通の商店街に加え,南端には,日常の買い物に便利な二条通の商店街があります。 四つには,卓越した伝統産業の技術の伝承,後継者の育成に力が注がれています。「現代の名工」「伝統産業技術功労者」が数多く居住していて,文化を創り出す人と受けとめる町とがコミュニケーションをとりながら心の遺産,生活の伝統を大切に守っています。

教業学区
教業学区は中京区のおおむね中央に位置し,東は堀川通,西は神泉苑通,北は押小路通,南は三条通に囲まれています。 歴史的には平安京の造営の時に造られた皇居内の禁苑(神泉苑)や徳川家が築いた二条城,江戸時代の官庁であった東西の町奉行所にも近く,本陣のかわりの宿泊所で特殊な構造で有名な二条陣屋等の史跡があります。ちなみに教業学区の各通りは豊臣秀吉が聚楽第の造営時に(黒門通,岩上通,猪熊通,神泉苑通等)できたものです。

教業小学校の歴史は古く,全国に先駆け明治2年10月26日に開校した由緒ある小学校でしたが,時代の移り変わりから閉校になり,その後,乾小学校と統合して,平成4年4月に洛中小学校として新たなスタートを切りました。 最近はマンション建築や新戸建ての増加もあり新しい住人の方々も増えており,これらの催しに参加されることで交流の場も着実に広がっています。次代を構成する新たな時の始まりとも思えます。

城巽学区
城巽学区は二条城の辰巳(東南),巽の方角に位置することから「城巽」と呼ばれ,新町通手前から堀川,二条から三条手前迄に囲まれた地域で。 当学区内には,歴史的史跡も多く,平安時代の初期,藤原北家が勢力を伸ばしかけた頃の拠点となった閑院跡や堀川院跡,高松神明神社の高松殿跡,豊臣秀吉が聚楽第を築くまで使用した妙顕寺城跡などがあります。現在の御池通は,京都市のシンボルロードとして素晴らしい通りになりました。将来は賑わいと華やぎのあるパリのシャンゼリゼのような通りにしようと京都市共々努力しているところです。

龍池学区
明治維新に続く東京遷都により衰退の危機にあった京都の町衆が,京都の再興は「人づくり」にあるとの信念の下,明治2年に町の区分であった「番組」を単位として,わが国の近代的学校教育制度(明治5年の学制発布)の礎となる64の「番組小学校」を創設した。

その中の1つである龍池小学校は,京都府からの下付金を得ず,教育に熱い思いを寄せる龍池学区民の寄付で二千両の建築費を調達し,明治2年11月1日上京第二十五番組小学校として開校した。 龍池小学校跡地は,京都の中心地で交通至便であり,教育・文化への理解と情熱がある地域であること,歴史と伝統を今に伝える校舎があること等,マンガを活用した新たな生涯学習拠点として,人々が集い,賑わいをもたらす新観光スポットとして開設する京都国際マンガミュージアム(仮称)に最適の地である。

初音学区
京都のシンボルロードとして整備された御池通は,我が街である初音元学区の真ん中を貫く大路である。元学区と云えば各町内の人々を結ぶ大切なコミュニティの場であり,諸活動の原点である。ところが,地域コミュニティの活動拠点となる旧初音校は実に恵まれた施設である。初音校は平成5年に閉校したが,現在は「京都市教育相談総合センター」,愛称を「こども相談センターパトナ」と呼ぶ施設として生まれ変わった。学校へ通えなくなった子供達の施設である。昨年は,そのまま卒業も可能となる洛風中学校が開校した。 施設内には自治会館のほか,万華鏡の博物館や喫茶店も併設されたユニークな建物である。敷地内には水琴窟を備えた「初音の庭」があり,グラウンドは全て芝生である。

柳池学区
御池通柳馬場の旧柳池中学校の跡地に,新しい中学校の建設が進められています。中京区の東部13学区と上京の春日学区を校区とする,京都御池中学校の新しい校舎です。近年学区内のあちこちに飲食店が増える傾向にあります。従来住宅街であった所に,喫茶店をはじめ酒場や小料理,割烹店等ができ,夜の賑わいをみせる町にもなってきました。 柳池学区も寺町通,二条通,地下街ゼストの商店街に加えて,夜間の賑わいも多くなり。学区内に増加しているマンションの建設と大いに関係があります。古い木造の家屋が高層マンションに変わっていくことで,人口増加の一つの原因になっています。

銅駝学区
今も学内には維新の旧跡や公卿下屋敷の旧地や藩邸跡なども残り,門倉了以の作った高瀬川は江戸から明治期の物流の主役を果たしました。明治の始めには舎密局(理化学研究所),織殿,染殿,勧業場,療病院(府立病院の前進)などが置かれ,島津源蔵による島津製作所,前田又吉による京都ホテルも開業し,明治半ばには市役所も設置され,あたかも明治近代化の基地の様相を呈しました。

乾学区
乾学区は平安京の篠坊では永昌坊の西方に位置した関係で,室町時代・江戸時代に至って多くの寺院の建立が見られ,およそ北は三条通,南は四条通,東は堀川通,西は神泉苑西一町と千本三条と四条大宮を結ぶ(斜道)後院通で区切り,四条大宮西入る北側の一部を含む南北にやや延びる長方の地形範囲を占め旧村部と市街地との境に位置する。その面影が現在,公称27か町と5つのマンション自治会の学区内に,著名人の墳墓を含む15寺院,史蹟伝承の神社4,近代各科医院20を数える。

学区の日常生活においては三条会商店街・四条大宮ターミナルや幼稚園・保育園とおよそすべての業種や公共施設にことかかず,また交通機関にも恵まれた環境にあり,将来へのより一層の活性化の促進が期待される。 乾小学校も明治2年に地元町衆が自らの力で下京1番組小学校を建営。校区より名酒を醸造,数多くの名匠・名工を輩出し,歴史と伝統を誇っていたが,時代の変遷で児童数の減少に伴い隣接の教業小学校と統合「洛中小学校」と改名,中京区に於ける最初の小学校統合校として平成4年4月に開校。

本能学区
本能学区は東は西洞院通,西は堀川通,南は四条通,北は三条通に囲まれ,二十四か町で形成されております。平安遷都以来,千数百年の歴史を重ねてまいりました。貴紳の邸宅跡,室町時代の名僧空也上人の道場跡・空也堂,本能寺跡,江戸時代の各大名達の屋敷跡,明治に入っても手描友禅から型友禅を発明した広瀬備治翁の作業場跡等々。今新しく本能の住民として居住されたマンションの方々も,本能を歴史の町,染めの町として町づくりに協力され,立ち上がられました。力強い限りです。

区内も染工場の跡地にマンションが林立し様相を一変しつつありますが,かつては染物の町と言われ全戸千戸のうち,七百戸が染に従事していました。繊維産業が受けた大打撃を乗り越えて,染の町本能を旗印に町づくり委員会が発足し,本能町づくりのしおりを基礎として,染の町の再興を図っております。卓越技術者,国が認定した染色技能士,伝統工芸士等も本能の住人として今もたくさん居住しております。

明倫学区
元明倫学区の環境は,烏丸通,四条通,三条通,西洞院通に囲まれた京都市の中央部に位置し,平安京以来,商業,経済の中心地として栄え,千年に及ぶ長い歴史と,そこに育てられた伝統を現在も伝承している。 昔から,いわゆる織物,染呉服の問屋街として知られていたところで,今日でも尚,全国を相手とする商社の中心地で,繊維の室町筋として,その名を知られている。 そして,これらの衣服,織物に関係する加工業があり,烏丸四条から三条通一帯は,会社,銀行等の集合地域として知られている。

日彰学区
日彰学区は,東は柳馬場通り,西は烏丸通り,北は三条通り,南は四条通りに囲まれています。その中心に,平成7年4月に五校が統合し開校した高倉小学校があります。高倉小学校は,日彰小学校跡地に建てられました。

日彰学区は,毎日の生活の面においても大変便利のよい学区です。観光スポットにもなっています「京の台所・錦市場」やすぐそばには「大丸さん」で親しまれている大丸百貨店があり大変重宝しています。 また,他都市に先駆けて建設されました「ウイングス京都」(京都市女性総合センター)があります。ここは,女性の社会的地位向上のための様々な事業をされ,日彰学区にとりまして新しいシンボルとなっています。 このように,生活至便で,京都の文化の香りが豊かな地域でありますから,近年,マンション建設が進み,人口が増加傾向にあります。

生祥学区
生祥学区は,北は三条通,南は四条通,東は寺町通,西は富小路通,柳馬場通にわたる旧学区です。江戸時代は下古京の南良組の新シ町と,三町組の新シ町でした。学区内には現在24町あり,その中には弁慶石町のように変わった町名もあります。

立誠学区
立誠学区は,中京区で最も東南部に位置し,東は鴨川に面し,西は寺町通の東側,北は三条通の北側,南は四条通の北側に囲まれた市内でも最も賑やかな繁華街を有する区域です。 学区の名称は明治5年の下京六区から下京六組,下京第六学区を経て,昭和4年に立誠学区となりました。

歴史的には豊臣秀吉が行った都市改造の中で誓願寺や歓喜光寺をはじめとする大刹が集められ寺の町が作られ,角倉了以の高瀬川開削による水運の発達と共に,材木,木屋,米屋などの商家が発展し,また延宝2年には先斗町が出現しました。 また,幕末維新の舞台となり,池田屋跡,海援隊屯所跡,土佐藩屋敷跡,坂本龍馬の暗殺された近江屋跡など数多くの史跡が残されています。 こうした歴史に彩られた町並みも,時の流れで変貌しつつありますが,今までの面影を少しでも保てればと念願する次第です。

朱雀第一学区
世界的な文化観光都市京都市の中心は,その名称のとおり中京区であります。 金融,流通,経済の中心,中京区は二十三学区よりなり,地勢上その中心にあるのが,我が朱雀第一学区であります。

朱雀第二学区
朱雀第二学区は中京区の西北に位置し,古くは,平安京の大内裏の豊楽殿,造酒司の一部があった由緒ある地域で,町名については,聚楽廻りと西ノ京を付した町名数がともに同数町(各15)となって形成されており,偶然とはいえとても興味深いものがあります。 丸太町通り七本松から相合図子通の北側一帯に,京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)と中央図書館,休日急病診療所,聚楽保育所,じゅらく児童館及び小雀ちびっこひろばがあります。

朱雀第三学区
朱三学区は,中京区壬生と呼ばれ中京の最南に位置します。その昔は,壬生は往古より水の湧き出るところで,水質にも大変恵まれ,壬生菜,菜種,藍などの産地でもありました。 その藍で染めた水色は壬生の色としてもてはやされていたと伝えられております。その関係で,古くから染織業が盛んで染め工場がたくさんありました。

朱三学区には,有名な古寺社としては,その昔,京の裏鬼門であり鬼が来るお寺として有名な壬生寺,厄除けの神で知られる梛の宮神社(元祇園)などがあり,新撰組で有名な旧前川邸,新徳禅寺,八木邸などもあります。 朱雀第三小学校は,設立八十余年になり,中京区制定より三,四年前に設立されました。平成十三年度には全面改築し,京都市の中では最先端の設備を有する学校となりました。

朱雀第四学区
朱雀第四学区の面積は朱雀地域八学区中第四番目で,朱雀第四小学校を中心に,東西約0.5キロ,南北1キロ,すなわち北はJR山陰線,南は三条通・西高瀬川,東は御前通から下の森通(相合図子),そして西は西大路通で囲まれた区内です。

史跡としては,豊臣秀吉が京都の周囲に築いたという「御土井跡」が(昭和五年史跡指定,市五郎大明神を祭る)原町にあり,船塚町には「船塚」,西月光町には「月光稲荷」があります。 また,それよりも市民がたえず気にする天気予報の出所,「京都気象台」が朱四学区にあります。もとは,1880年に京都御苑内に開設され,1923年に現在の地笠殿町に移設されたものです。春は塀越しの桜が見事で京都の桜開花の基準とのことです。

朱雀第五学区
朱雀第五学区は,中京区の西端に位置し,北は一部御池通まで,東はJR山陰線まで,南は四条通まで,西は京福電鉄嵐山線一筋西の通までの右京区との境界までの変形の突形の地形です。当学区では朱雀中学校が,地域の教育の核としての役割を果たしていただくようになり。

朱雀第六学区
朱雀第六学区は平安京の豊楽殿,朱雀門等があった地域で,中京区の西部に位置しています。朱雀第六学区には朱雀第六小学校,西ノ京中学校,中京中学校(校区),朱雀高等学校があり。

朱雀第七学区
朱雀第七学区は,北は四条通り,南は松原通りに面し,御前通りを挟んでおおむね東は壬生下溝町,森前町,西は土居ノ内町,桧町となって,その中の三十三か町で形成されています。 西新道通りには,約150の店舗からなる錦会商店街がありますが,プリペイトカードの導入,修学旅行生の「商売人体験学習」などで人気を呼んでいます。昔なじみの高齢者の多い土地柄だけに,買い物は錦商店街でと,足を運ぶ人達で日々賑わっています。

朱雀第八学区
朱雀第八学区は中京区の西北端にあり,右京区・北区に接しています。面積も人口も中京区で一番大きい学区です。 昭和三年に円町~四条間に市電が開通してから多くの家が建ち始め,ようやく街らしくなりましたが,以前は畑地が沢山残っていました。昭和三十年代に丸太町通が西へ延伸してからは飛躍的な発展を遂げました。平成十三年には中断していた御池通りが天神川まで開通,学区内を遮断していたJR山陰線が高架になると共に,円町駅が開業しました。

学区内には総合病院をはじめ各種医療施設,JR円町駅,地下鉄駅,花園大学や,公立,市の高校,幼稚園や保育園が整っています。また,「聴覚言語障害センター」,市内でも珍しい「児童デイサービスセンター」や「シルバー人材センター」も開設されています。福祉関係も在宅介護支援センター,デイサービスセンター,児童館などがあります。商店街に加え大規模小売店舗など生活に,通学に便利なため学生が多い学区でもあります。

名所旧跡

二条城
元離宮二条城は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町(かつての山城国葛野郡)にある江戸幕府によって造営された日本の城(平城)である。後述する足利氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏によるものがあるが、現存する城は徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。 城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。

徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。また、後の近代においては大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。 二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。

京都新城
京都新城は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった。

慶長2年(1597年)正月末から関東の諸大名を動員して、下京東部地域(現在の中京区内)に新しい城の普請が始められた。しかし4月には禁裏東南の地(現在の京都御苑南東部を含む広い区域)に場所を変更されている。 「秀頼の城」がどのよう構想されていたか不明な点も多いが、京都新城の規模からみて、また禁裏に接する地点に移されたことなどから、何なる宿館以上の意味が想定されていたかもしれない。江戸時代中期に森幸安が考証復元した地図「中むかし公家町之絵図」に描かれるところでは「たいこう」と書かれ、この地は、遡れば平安時代、かの御堂関白藤原道長が土御門第を構えた場所と考えられており、聚楽第をかつての大内裏跡に設けたように、秀吉が御堂関白に憧れてこの地を選んだという見方もある。

聚楽第
聚楽第は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。 聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移った。

聚楽第は、とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、堀を巡らせていたため、形態としては平城であった。 建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や「洛中洛外図」(江戸初期)などに描かれている。さらに国立国会図書館・広島市立図書館(浅野文庫)などが所蔵する「聚楽古城図」では本丸北西隅に「天守」の書き入れがあり、天守の存在が推定されているが、一方で天守はなかったのではないかという指摘もある。 秀次の家臣駒井重勝の『駒井日記』によると、本丸の石垣上の壁の延長は計486間、三つの曲輪も含めた四周に巡らされた柵の延長は計1031間であった。吉田兼見の『兼見卿記』によれば、堀の幅は二十間、深さは三間であった。

行願寺
行願寺は、京都府京都市中京区にある天台宗の寺院。山号は霊麀山。通称は革堂。西国三十三所第19番札所。本尊は千手観音菩薩(千手観音)。 『百錬抄』、『日本紀略』等によれば、行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡地に堂を復興して行願寺と名付けたものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿の腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその雌鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、それによって寺の名も革堂と呼ばれるようになった。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。 寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の宝永の大火後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。

正運寺
正運寺は、京都市中京区にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。洛陽三十三所観音霊場第26番札所。 慶長5年(1600年)、肥後国熊本藩主加藤清正の重臣である飯田覚兵衛が浄土宗の深誉を開山として勝軍寺を創建するが、しばらくして正運寺へと改名される。

この寺に祀られている1尺2寸の十一面観音菩薩像は運慶が大和国長谷寺の十一面観音菩薩像と同じ木で作ったものである。絶対秘仏でいまだに一度たりとも御開帳されたことがない。この十一面観音菩薩像にお参りした身重の女性がこの寺で無事に子供を出産したことがあり、それ以来「安産寺」とも呼ばれている。 天明8年(1788年)の天明の大火で伽藍が焼け落ちるが、十一面観音菩薩像と厨子は無事であった。 現在の建物はその後に復興されたものである。

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神泉苑
神泉苑は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。 当地は延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとはここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ池(現・法成就池)を中心とした大庭園であった。

史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る桜の花見の初出と考えられている。 季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝利した。また空海以降も真言宗の僧による雨乞いが何度も行われている。

誓願寺
誓願寺は、京都市中京区新京極通にある寺院。浄土宗西山深草派の総本山である。本尊は阿弥陀如来、依拠の経典は浄土三部経である。新西国三十三箇所第15番札所。 天智天皇6年(667年)、天智天皇の勅願により奈良に創建された。三論宗の寺院となるがいつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となった。平安時代には清少納言や和泉式部が帰依し、女人往生の寺といわれた。

その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となり、京の一条小川(現、元誓願寺通付近)に移転する。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立していった。後に弟子の立信(円空)が証空から受け継いだ誓願寺の他に、深草の地に真宗院を建立し、証空の教えの上に更に自らの考えをも取り入れて深草流の教えを確立し、広めた。

京都御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している。説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として、扇塚のある寺として芸能関係にはよく知られている。また、落語発祥の寺とも言われている。今でも関西地方の芸人たちがこの寺で練習会を営んでいる。 京極竜子と豊臣秀頼の子・国松の墓が塔頭・竹林院にあったが、1904年(明治37年)に東山区の豊国廟に移されている。

頂法寺
頂法寺は、京都市中京区にある天台宗系単立の寺院。山号は紫雲山。本尊の如意輪観世音菩薩(如意輪観音)は秘仏。西国三十三所第18番札所。寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には六角堂の通称で知られている。華道、池坊の発祥の地としても知られている。 頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。 『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。

以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年(昭和49年)から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験を見する寺」として、清水、石山、長谷などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる。

本能寺
本能寺は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。株式会社本能寺文化会館の株主であり、本能寺に隣接するホテル本能寺や境内にある博物館の本能寺大寶殿宝物館などを経営している。 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。 寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。

日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

壬生寺
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院と号した。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。 園城寺(三井寺)の僧快賢が、正暦2年(991年)に自身の母のために定朝作の地蔵菩薩像を本尊として五条坊門壬生(現・壬生寺の東方)の地に寺院を建立した。寛弘2年(1005年)には堂供養が行われ、この時小三井寺と名付けられたという。承暦年間(1077年~1080年)に白河天皇の行幸があり、この際に地蔵院の寺号を賜ったといわれる。

建暦3年(1213年)、当寺の信者であった平宗平によって現在地に移される。しかし、正嘉元年(1257年)2月に火災によってすべての伽藍を焼失した。正元元年(1259年)、平宗平の子である平政平と律宗の僧で融通念仏も行っていた円覚上人によって復興され、寺名を宝幢三昧寺とし、以来当寺は律宗の寺院となった。また、次第に寺名は地名から壬生寺とも呼ばれるようになっていく。

当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」、「延命地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂、四天王像、金鼓とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものであり、1967年(昭和42年)に本堂も復興した。

御金神社
御金神社は、京都市中京区にある神社。金色の鳥居など黄金色に飾られた神社で、金属、なかでもお金に纏わる神社として、資産運用や証券取引等の成功を願ったり、競馬、競輪などでの勝利や、宝くじ等の当選を願うイチョウ型の絵馬が大量に奉納されている。本来は建築金型と建築設計、造船など、建築に関わる金型を奉納する。御金の「金」は金属の意味。

個人の屋敷内に金山毘古命を祭神とする邸内社として建てられ、祀られていたが、金属にゆかりのある祭神ということで参拝を願う人々が絶えなかった。そのため1883年(明治16年)10月6日に現在地に移転し、社殿が建立された。 当地からすぐ東に行けば、平安時代より鋳物職人である釜師が多く集まっていた「釜座通り」があり、さらに東へ行けば江戸時代に徳川家康により設けられた「金座」と「銀座」があり、江戸幕府の金貨鋳造を担い、各地の金銀細工業者が多く住んでいた「両替町通り」があったため、崇敬者は多かった。やがて、金属が転じてお金に纏わる神社となっていった。

武信稲荷神社
武信稲荷神社は、京都府京都市中京区にある神社。旧社格は村社。必勝、命名、名付けに利益があるとされる。 859年(貞観元年)2月、藤原良相によって創建された。当時、境内北側一帯には藤原氏の学問所である勧学院と西側一帯に療養施設である延命院があり、神社はその守護社として祀られた。後に時代が下ると藤原武信という人物が当社を厚く信仰したため武信稲荷と呼ばれるようになった。寛永年間に青山播磨守の藩邸になる。元禄年間に現在地で祭祀。明治6年(1877年)に村社となる。大正11年(1922年)10月9日神苑地の改修願。玉垣を新造する際にその内側に「神苑」を整備した。2011年に境内の改修がおこなわれた。

境内には平重盛が厳島神社から移植したと伝えられる榎の大木があり、樹齢850年以上の大樹として京都市天然記念物にも指定されている。幕末には神社の目の前に六角獄舎があり、多くの勤王志士捕らえられていた。後に坂本龍馬の妻となるおりょうは、安政の大獄で六角獄舎に捕らえられた父・楢崎将作の安否を見るべく龍馬と共に木に登って探っていたとされる。また、幕府に追われていた龍馬は、おりょうに京都にいることを示すべく木に「龍」と彫って伝言を書き残し、その伝言がもとで二人は再会できたという。龍馬とおりょうの仲を取り持ったとして「縁の木」といわれる。

錦天満宮
錦天満宮は、京都市中京区錦小路通新京極にある神社。天満天神(菅原道真)を祀る。京の台所として知られる錦市場の東の端にあり、学業に加え商売繁盛も御利益に謳われている。 長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸菅原院跡地にあった歓喜寺を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築し、その鎮守社として天満天神を祀った天満宮として創建されたのに始まる(菅原院の地には菅原院天満宮神社が建てられる)。

正安元年(1299年)には時宗六条派本寺の善導寺が当地に移転し、元々あった歓喜寺を合併して六条道場・歓喜光寺と名称を改めた。その際、天満宮はそのまま鎮守社とした。応仁の乱の後、寺・宮ともに高辻烏丸(現・京都市下京区)に移転したが、天正15年(1587年)には豊臣秀吉の都市計画のため、歓喜光寺とともに錦小路東端(新京極通り四条上る)の現在地に移転した。それによって所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。

錦小路通の寺町と新京極の間にある鳥居は1935年(昭和10年)に建てられたものであるが、その後に設計ミスがある(鳥居上部の両端を考慮せずに柱の位置だけで道路幅を決めてしまった)区画割りを元に両側にビルが建てられたため、ビルの中に一部がめり込んでいる。参道からもビルの窓を通してめり込んだ先端を覗くことができる。 社務所前に「からくりみくじ」がある。人が近づくと神楽が鳴り出し機械仕掛けの獅子舞がはじまり、硬貨を投入して御籤の種類(英文、和英対訳、子ども用など六種類)を選ぶと、神楽に合わせて獅子が舞いながら御籤を届ける仕掛けが人気となっている。

八木邸
八木邸は京都市中京区壬生にある郷士八木家の邸宅で、幕末に新撰組の屯所として使われた。 2018年現在も八木源之丞の子孫が継承している一方、歴史的建築物として一般に公開されている。芹沢鴨が暗殺された際に付いたとされる刀傷など、新選組にかかわる遺構がある。

八木家の始祖は八木又兵衛。壬生村の郷士。越前の戦国大名・朝倉義景の子。八木家のウェブサイトでは、「但馬国で八木安高により起こった」としている。源頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと伝わる。室町時代に京の壬生に移ったとする。 八木邸のある壬生の地は水が豊かで農耕に適した土地であり、京都でも有数の農業地帯であった。八木邸は小高い場所に建てられた。幕末には江戸浪士の宿所となる。

カトリック京都司教区
カトリック京都司教区は、京都府、滋賀県、奈良県、三重県を管轄区域とするキリスト教 カトリック教会の司教区。司教座聖堂は聖フランシスコ・デ・ザビエル大聖堂(カトリック河原町教会)。

京都ハリストス正教会
京都ハリストス正教会は、京都府京都市中京区にある正教会(ギリシャ正教)・日本正教会の教会。京都ハリストス正教会の聖堂である生神女福音聖堂は日本正教会西日本主教教区の主教座聖堂であり、日本正教会の現存する聖堂・会堂のうち、ロシア宗務局承認設計図譜に基づく最古の聖堂である。

京都における正教会伝道の歴史は1880年代に始まる。初期の伝道には伝教者パワェル中小路・伝教者キリル笹葉政吉が大阪正教会の管轄司祭イオアン小野荘五郎の臨時管轄下のもと当たった。1889年(明治22年)には講義所が設置される。のちモスクワ総主教となった修道司祭(肩書当時)セルギイ・ストラゴロドスキイは1890年(明治23年)から1893年(明治26年)にかけて京都正教会を牧会した。 京都正教女学校が当初設置されたが、これは現存していない。

1906年(明治39年)には亜使徒大主教聖ニコライの輔佐として京都の初代主教となったアンドロニク・ニコリスキイが着任したが、在任3か月で病のため帰国した。なおアンドロニクは、帰国後ボリシェビキ政権によって生き埋めにされ銃殺され、のちに致命者として列聖された。このためアンドロニクは「ペルミの神品致命者聖アンドロニク」との称号の他に、「初代京都の主教聖アンドロニク」とも日本正教会で呼ばれて敬われている。 「京都の主教」の主教座教会であるが、現在、京都の主教は日本正教会の首座主教である「東京の大主教・全日本の府主教」たるダニイル主代郁夫が兼任しており、2008年(平成20年)9月現在、京都教会に主教は常駐していない。

文化伝統

京都国際マンガミュージアム
京都国際マンガミュージアムとは京都市中京区の旧・龍池小学校跡地にある日本最大の漫画博物館である。 国内外の漫画に関する貴重な資料を集める日本初の総合的な漫画ミュージアムとして2006年11月25日に開館した。明治時代の雑誌や戦後の貸本などの貴重な歴史資料、現代の人気作品、世界各国の名作など約30万点(2011年現在)を所蔵している。

マンガ学部を持つ京都精華大学と土地・建物を提供した京都市によって共同事業として整備が進められたもので、現在は市と大学で組織される運営委員会の下、大学が管理・運営している。 近世思想史や美術史などを専攻する研究員4人が所属し、まんが文化の研究にあたっている。 施設は廃校になった旧・龍池小学校の校舎を改築(一部増築)して利用している。旧・龍池小学校の本館・講堂・北校舎・正門および塀だった建物は2008年7月23日に国の登録有形文化財に登録された。

一般公開のギャラリーゾーン、研究ゾーン、資料収蔵ゾーン、地域利便施設によって構成されており常設展示、企画展示、龍池歴史記念室の他、ミュージアムショップ、喫茶が併設されている。ミュージアムの顔としては、総延長200メートルの書架に5万冊が並ぶ「マンガ本の壁」がある。また屋外の芝生にマンガを持ち出して読むことが可能。一度チケット購入すれば、その日の内なら何度でも再入場も可能である。 日本国内の資料以外に世界各国の日本マンガの現地版や日本以外の国のマンガが書庫に3万冊以上収蔵されるほか、開架に約5,600冊が設置されている。それらの収集にはオーストラリアのモナシュ大学日本研究センターやドイツのライプツィヒ大学が協力している。

京都市平安京創生館
京都市平安京創生館は京都市中京区にある博物館施設で、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)1階に所在。2006年(平成18年)10月6日に開館した。 2005年(平成17年)4月開設当時は「平安京歴史ゾーン」と呼ばれており、平安京復元模型をはじめとする数点の展示内容だったものを大幅にリニューアル。従来の展示内容に加え、パネル展示による解説を新たに設けた他、多数の出土品を展示している。

現地には平安宮造酒司倉庫跡地があり、柱の穴の跡がタイル張りで残されている。この跡地は平成9年に京都市から史跡指定を受けている。 2009年11月1日に古典の日記念 京都市平安京創生館として再オープンした。

京都文化博物館
京都文化博物館は、京都市中京区にある博物館で京都の歴史と文化の紹介を目的とし平安建都1200年記念事業として創立された。建物は京都府が建設し、運営は公益財団法人京都文化財団が行っている。1988年(昭和63年)10月1日開館。正式名称は「京都府京都文化博物館」。

前身は平安博物館と称し財団法人古代学協会の施設として1968年(昭和43年)に作られた私立博物館であった。平安博物館の建物は旧日本銀行京都支店(重要文化財)であったが、京都文化博物館を創設するにあたり財団法人古代学協会から京都府に寄贈された。旧日本銀行京都支店の建物は現在は京都文化博物館の別館として使用されている。 別館の北側に鉄筋コンクリート造地上7階地下1階の建物が新たに建てられ、これが京都文化博物館の本館として使用されている。

京都文化博物館が創設されるとともに、京都府立総合資料館(現・京都府立京都学・歴彩館)が所蔵する博物館資料の管理が、公益財団法人京都文化財団(京都文化博物館の運営団体)に委託された。これらの資料は「京都府蔵・京都文化博物館管理」として表示されることがある。 京都市内にある国公立の博物館・美術館4館で構成する「京都ミュージアムズ・フォー」の1つである。

島津創業記念資料館
島津創業記念資料館は、京都府京都市中京区にある博物館。島津製作所が1975年に創業100周年を記念して、創業者の初代島津源蔵を偲んで開設した。南棟(1888年建設)と北棟(1894年建設)からなり、創業初期に島津の住居・研究所として使われていた建物を保存・公開している。南棟・北棟ともに国の登録有形文化財(1999年12月登録)である。 文書・器械展示のほか、ノーベル賞受賞者・田中耕一関連のパネル展示もある。

京都芸術センター
京都芸術センターは、京都市の中心部にある芸術振興の拠点施設。 明治に京都の町衆たちの力でできた明倫小学校が廃校になったあと、その跡地と校舎を利用して、アートスペースをつくったもの。 制作室、ギャラリー、講堂、大広間、フリースペース、図書室、情報コーナー、茶室、カフェ(前田珈琲明倫店)、談話室、ショップなどがある。鉄筋コンクリート造り3階(一部4階)建て。

公益財団法人京都市芸術文化協会が指定管理者として管理・運営しており、芸術活動支援、芸術に関する情報の収集・発信、「アーティスト・イン・レジデンスプログラム」実施、芸術家と市民の交流促進などを行っている。館長は建畠晢(多摩美術大学学長)。

染・清流館
染・清流館は、京都市中京区にある染色をテーマにした染色専門美術館。ロウ染や絞り染などの染色芸術を展示する美術館で、世界初の染色に焦点を当てた専門美術館である。呉服の企画・製造・販売などを手がける大松株式会社(京都市中京区)が、「日本の染色アートを世界に向けて発信する」ことを目的として、2006年京都にオープンした。「染色のまち・京都」を拠点に活躍する作家100名の作品約500点を所蔵し、巨匠から新鋭まで様々な染色作家達の作品を展示している。1991年には、NHK京都放送局、京都新聞社の後援、京都中央信用金庫の協賛で『第一回染・清流展/京都市美術館』が開催された。以後東京(目黒区美術館)で開催(後援/毎日新聞社)するなどし、現在16回を迎え継続中である。

京都芸術センターの北隣に位置したビルの6階に構える。同館のエントランスは落ち着いた色で高級感が演出され、館内は約150畳の畳が敷きつめられており、靴を脱いで、じっくり落ち着いて作品を鑑賞することができる。作品の中には多彩な技法を駆使した染色品が並び、幾何学模様に現代アートを思わせる作品も展示している。

先斗町
先斗町は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている。 もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の寛文10年(1670年)に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳二年(1712年)の頃といわれ、 初めは高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が茶立女を置いていた。安政6年(1859年)になって芸者嫁業の公許が下り明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。舞踊の流派は明治より以前は篠塚流、その後若柳流を経て現在は尾上流である。

三条通一筋下ルから四条通まで、鴨川と木屋町通の間を南北に走る、石畳の狭い通りである。花街特有の商業形態の他、一般の飲食店も並ぶ。通り東側の店は鴨川に面し、納涼床を設ける飲食店が多い。先斗町歌舞練場は北の端寄りにあり、鴨川に大きな姿を映す。

錦市場
錦市場は、京都市中京区のほぼ中央に位置する錦小路通のうち、「寺町通 – 高倉通」間に存在する食品販売中心の商店街である。魚、京野菜といった生鮮食材のほか、乾物や漬物、おばんざい(京言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。京都独特の食材は、ほぼここで揃う。 中小企業庁によれば、商店街の類型として超広域型商店街とされる。京都錦市場商店街の名称で2006年5月、「がんばる商店街77選」の一つに選ばれた。 市場のおこりは平安時代、豊富な地下水を利用して京都御所へ新鮮な魚を納める店が集まり始めたもので、約1300年の歴史を持つ。京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の買い物客で賑わう。

近年は新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生が訪れる活気のある観光名所としても賑わう。 昭和時代に、中央卸売市場の開設や地下水の枯渇、大手スーパーマーケットの進出など、存続の危機を迎えた。卸売から小売へのシフトを図りながら、現在に至る。 スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質の良さや豊富な品揃えが支持されて、市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。

大江能楽堂
大江能楽堂は、京都府京都市中京区にある能楽堂。観世流五世大江又三郎(大江竹雪)が、1908年(明治41年)に創建した。太平洋戦争末期に強制取り壊しに遭いかけたが、終戦で舞台と見所はかろうじて残った。2001年(平成13年)に大改修を施され、400名収容の木造能楽堂として現在も能が演じられている。

時代祭
時代祭は、平安神宮の例大祭(10月22日)に附属する年中行事である。神宮創建と平安遷都を祝して明治時代より始められた京都三大祭りの一つ。 平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿(天皇の乗物をかたどった紫の鳳輦)を京都御所まで神幸させて建礼門前に仮設した行在所において祭典を執り行う。その日の午後、ふたたび平安神宮へ還御する際に、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。 葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いが、平安時代から幕末までの各時代の首都であった京都でしかできない祭であり、京都民が主体となる住民あげての祭りである。

1895年(明治28年)に平安神宮が創建されたのち、神宮の管理と保存のための市民組織として平安講社が作られ、その記念事業として「祭り」が始められた。祭りを盛大にするため、東京奠都以前の京都の風俗を遡る時代行列が提案され、「時代祭り」と呼ばれるようになった。初回は、創建されたばかりの平安神宮への参拝として同年10月25日に行われ、その次の回からは、「祭神である桓武天皇と孝明天皇の二柱の御霊が、住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従えて神宮へ行く」形となった。開催日も桓武天皇が長岡京から都を移し新しい都に入ったとされる日、すなわち京都の誕生日とも言える10月22日となった。祭り自体は10月15日の参役宣状祭(行列の役柄任命)から、23日の後日祭までの期間行われる。

鴨川をどり
鴨川をどりは5月1日から24日にかけて先斗町歌舞練場で上演される舞踊公演。京の花街の中で最も上演回数の多いことで有名。 1872年(明治5年)、博覧会の余興として都をどりと共に上演され、以来上演回数を重ねることになる。第二次世界大戦で中断された時期もあったがすぐに再開され、途中から春・秋との二回公演の構成で上演され1998年まで続いた。鴨川をどりは総踊形式の都をどりに対し第一部が舞踊劇、第二部が舞妓らの出演による舞踊ショーの二部構成で人々の目を楽しませている(1950年までは都をどりと同じく総踊形式で上演されていた。)。

昭和初期の鴨川をどりには洋楽が使用され、中には少女レビューも上演されジャン・コクトー、チャップリンをはじめ海外の著名人らを魅了に導いた。

京友禅
京友禅とは、京都の伝統工芸品の1つで、古来の染色技法を扇絵師の宮崎友禅斎が大成したもの。鴨川の流れで布を晒し鮮やかな色彩を出していたが、最近は郊外に移転している。また単に「友禅染」とも呼ばれる。 本格的な手描き友禅の場合、完成までに26もの工程を踏む大変手間のかかるものとなるため、現在は型染めや捺染が主流。