三徳山三仏寺、鳥取県、日本

三仏寺(さんぶつじ)は、鳥取県東伯郡三朝町にある天台宗の仏教寺院。山号を三徳山(みとくさん)と称する。

開山は慶雲3年(706年)に役行者が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置されたとされる。

鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院である。古くは三徳山全体を境内としていた。投入堂(なげいれどう)の通称で広く知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されている。また、三徳山は昭和9年(1934年)7月7日に国の史跡及び名勝に指定された。

歴史

伝説時代
『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角(役行者)が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされている。開山時期の根拠として飛鳥時代の金銅仏が存在するが現在は流出し寺内には無い。三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多い)は、同じ鳥取県所在の大山(だいせん)や船上山と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像される。なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神である。前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したと伝わる。

中世以降
平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の正本尊・蔵王権現像の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記がある。奥院(投入堂)の建物も、建築様式と年輪年代調査の結果から平安時代後期(12世紀初頭)にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われる。中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降である。史料上では、寿永3年(1184年)に三徳山に「後白河天皇の御子(院の御子)と称する者がいた」とあり、これが三徳山に関する最初の記載である

近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進。これらの寺領は幕末まで維持された。天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けた。

境内
境内は、石段など一般的な参道によりアクセス可能な山下区域と、険しい登山道(行者道)によってのみアクセス可能な山上区域とに実質分かれている。

このうち山下区域は、参道入口近くに皆成院(かいじょういん)・正善院(しょうぜんいん)・輪光院(りんこういん)の3子院があり、その先に宝物殿、さらに奥に三佛寺本堂が建つ。

本堂裏にかかる宿入橋(しくいりばし)を境に、そこから先は滑落事故の前歴を有する険しい行者道によってのみアクセス可能な山上区域となり、野際稲荷(十一面観音堂)、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、納経堂、観音堂、元結掛堂(もとゆいかけどう)、不動堂、投入堂などが所在する。

なお、山上区域への進入は「8時から15時まで」とされており、当該時間帯以外はもちろんのこと、冬季(12月〜翌年3月)および荒天時には進入禁止となる。加えて、進入に際しては寺側が定める入山手続きを踏む必要があるが、これに関しては後記参照。

奥の院「投入堂」
当寺の奥の院たる「投入堂」は、前述の険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしている。堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられている。

投入堂は懸造(舞台造)の建物である。永和元年(1375年)の修理棟札の墨書のうちに「伯州三徳山之鎮守蔵王殿」という文言があり、この堂の本来の名称は「蔵王殿」であったとみられる。堂は1952年に国宝に指定された。東側に接続して建つ小建物の愛染堂は国宝の附(つけたり)指定。このほか、前述の永和元年の棟札1枚と、1915年の解体修理の際に再用されなかった古材43点も国宝の附となっている。

屋根は流造、檜皮葺きで、東(向かって左)と西(向かって右)の側面にそれぞれ庇屋根を葺き下ろす。北西隅(右手前)には一段低く隅庇屋根を設ける。平面は桁行(間口)1間、梁間(奥行)2間(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。ただし、桁行の背面は中央にも柱が立ち、2間となる。奥の桁行1間・梁間1間の部分(身舎)は横板壁で囲い、その前面と西側面の庇部分には矩折れに廻縁を設ける。廻縁を含めた平面規模は東西5.4メートル、南北3.9メートルである。

壁に囲まれた身舎部分は正面と西面に方立を立て、両開きの板扉を設ける。正面の扉は内開き、西面の扉は外開きである。身舎内部には小組格天井を張る。この格天井は格縁によって東西5区画、南北3区画に割り付け、このうち奥中央の東西3区画、南北2区画にあたる部分は床を一段高めて壇を造る。この壇上にかつては7躯の蔵王権現像が安置されていたが、現在は各像とも山下の宝物殿に移されている。

柱は身舎周囲に円柱、庇周囲に面取角柱を用いる。角柱の面取が非常に大きく、断面が八角形に近くなるが、これは屋根勾配の緩さとともに平安建築の特色である。身舎柱を太く、庇柱を相対的に細く造るのも、平等院鳳凰堂などにも共通する平安建築の特色であり、目立ちやすい外側の柱を細く造ることによって建物全体を軽快に見せている。身舎は円柱を長押で固め、柱上に舟肘木を置いて桁を受ける。庇は角柱の上に舟肘木を置き、軒桁を支える。各柱は岩盤の上に直接立てられており、柱の立つ位置では岩盤が削平されている。岩盤上には、柱の立っている場所以外にも小穴が見られ、これらは建築時の足場を組むために用いられたと推定されている。

清水寺本堂(京都)の舞台などとは異なり、投入堂の床下に伸びる柱と柱の間には水平材の貫を通さず、斜材の筋違(すじかい)で固めている。屋根は棟木から前後に垂木(地垂木)を渡す簡明な構造で、正面側は地垂木の先に飛檐垂木(ひえんだるき)を渡す。この飛檐垂木は軒桁の上を越えて掛かる「打越垂木」と呼ぶ形式になっている。廻縁には高欄を設けるが、この高欄の架木(ほこぎ、最上部の水平材)の断面が円形でなく長方形となる点が異色である。

投入堂の東(向かって左)には小規模な愛染堂が接続して建つ。愛染堂は桁行、梁間とも1間、切妻造、檜皮葺、妻入で、投入堂に向いた西側を正面とする。投入堂と愛染堂の間(投入堂の東庇の下)には一段低く床を張る。ただし、現状では投入堂の廻縁の東端が格子でふさがれ、投入堂・愛染堂間の直接の行き来はできなくなっている。この格子がいつ設置されたものかは明らかでない。愛染堂の切妻屋根の前端は投入堂の東の庇屋根の下に喰い込んでおり、この庇屋根を支える2本の柱に愛染堂の破風板が釘止めされている。

投入堂は建築様式から平安時代後期の建物と推定されている。ただし、大岡実のように、この建物は改造を経ていて、身舎部分と庇(廻縁)部分とでは造立年代が異なるとする研究者もいる。2001・2002年度に奈良文化財研究所の光谷拓実らが実施した年輪年代調査により、北側の縁板から11世紀末の1098年の年輪年代を得ている。このことから、投入堂は12世紀前半には現在の形になっていたとみられる。ただし、建立以来たびたびの修理によってかなりの部材が取り替えられている。柱のうち、隅庇屋根を支える廻縁北西隅の柱と、そのすぐ南の柱(いずれも風蝕が少ない)は1915年(大正4年)の修理で取り換えられた新材である。

2003年から2006年にかけて、屋根葺き替えなどの保存修理が実施され、堂の周囲には工事用の足場が組まれた。その際に建物の調査(1915年の修理で交換され再用されなかった古材の調査を含む)を行った窪寺茂は、堂の各所に赤と白の彩色の痕跡を確認した。現状の投入堂にはほとんど装飾的要素は見られず、かつては素木造りの建物と見なされていたが、窪寺の調査によって、投入堂は柱、長押、垂木などの構造材や扉が赤色、壁、身舎の天井格縁、天井裏板などが白色に塗られていたことが判明した。また窪寺は、垂木の古材に残る文様の痕跡と検出された緑青から、垂木の木口には銅製の飾金具が取り付けられていたと推定した。

投入堂の写真から明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口はなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って背面から縁に上がることになる。

前記の通り立ち入りが固く禁じられている投入堂であるが、2007年11月14日に約100年ぶりに修復されたことを祝する落慶法要が同堂内に於いて営まれ、その際に約60年ぶりに同堂の一般拝観が許可され、18歳以上の身体健康な約340名の応募者の中から選出された3名が、草鞋に作務衣・輪袈裟姿に着替えた上で、当寺住職・米田良中や当寺境内に構える三徳山皆成院住職の清水成眞などと共に行者道を登って入堂し、同法要に参列した。

日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品である。修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝承が語り継がれていた。「投入堂」の名称はこの伝説に由来する。

2001年6月1日より、投入堂の所在する三朝町や鳥取県の主導で、ユネスコの世界遺産への登録を目指す活動が開始された。

鐘楼について(除夜の鐘)
寺院内に於いて時を告げる施設として位置付けられている鐘楼が、当寺に於いては行者道のみによりアクセス可能で且つ進入時間帯などで制限が加えられている山上区域内(地蔵堂と納経・観音堂の間)に所在する。

このため、例えば毎年大晦日に執り行われる除夜の鐘に於いては、通常ならば進入禁止時間帯となっている深夜帯に当寺関係者並びに地元有志数名が登山して百八つの鐘を撞いている。
雪の積もることが多い冬季のしかも深夜帯に行われることから一般参拝者の参加を断ってきているが、2013年(平成25年)の大晦日には、三徳山開山1300年祭の一環として、「日本一危険な除夜の鐘」と銘打って18歳以上の投入堂参拝登山経験者を対象とする参加者一般公募を実施、これに応じた若干名の一般参加者と共に百八つの鐘撞きを執り行った。

文化財

国宝
三佛寺奥院(投入堂)
附 愛染堂、棟札(永和元年)1枚、古材43点。解説は既出。

重要文化財

文殊堂
室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。内部は通常非公開だが、2006年に草創1,300年を記念して地蔵堂とともに公開された。従来桃山時代の建築とされていたが、新たに永禄10年(1567年)の墨書が堂内から見出されたことから、建築年代は若干上がるものと思われる。

地蔵堂
室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。

納経堂
平安時代後期。鎮守神を祀った春日造の小社を流用したもの。従来鎌倉時代の建築とされていたが、用材の年輪年代測定の結果から、平安時代後期にさかのぼることが判明した。

木造蔵王権現立像
(もと奥院安置)(附 紙本墨書仁□(安)三年造立願文) – 奥院投入堂正本尊で、現在は三佛寺宝物殿に安置される。右足を高く上げ、焔髪を逆立てる典型的な蔵王権現像であるが、忿怒の表情は控えめで、全体に平安後期彫刻特有の穏やかな作風になる。胎内納入文書に仁安3年(1168年)の年記がある。胎内文書表記により康慶作といわれる。近年奈良文化財研究所により年輪年代測定が行われ、1165年樹皮型の伐採年代との結果が出ている。

木造蔵王権現立像 7躯
投入堂に上記の正本尊像とともに安置されていたもの。7躯の形態や作風はそれぞれ異なっているが、いずれも正本尊像よりは素朴な作風になる。1920年に「木造蔵王権現立像 6躯」として重要文化財に指定された。その後、御前立として祀られていた蔵王権現立像(年輪年代1002年辺材型)1躯が2017年度に追加指定された。

木造十一面観音立像
(もと観音堂安置) – 平安時代末期。重要文化財指定名称は「木造聖観音立像」。頭上の十一面が失われているが、元来十一面観音像として造立されたものである。

銅鏡(中台八葉院鏡像)
長徳3年(997年)女弟子平山本願也の銘あり。鏡面に胎蔵曼荼羅の中心に位置する中台八葉院の諸仏が線刻されている。鏡背文様は花をくわえた2羽の鸚鵡(オウム)である。鏡自体は中国(唐)製と見られる。

鳥取県指定保護文化財
鐘楼堂 – 鎌倉時代の部材を残す。
観音堂 – 江戸時代前期
元結掛堂 – 江戸時代前期
十一面観音堂(野際稲荷) – 江戸時代中期
三佛寺本堂 – 江戸時代後期
不動堂 – 江戸時代後期
銅造誕生釈迦仏立像 – 平安時代
木造阿弥陀如来立像 – 平安時代後期(11~12世紀)。像高147.5㎝、一木造、内刳、彫眼。本堂の本尊で秘仏。全体的な彫りは浅く緩やかで、頭部が大きく丸顔・細目で口元が上がった愛らしい像容。長らく高湿度の厨子内に安置されていたため自立が不可能なほどだったが、2002年度住友財団の助成により修復された。
木造狛犬(阿形) – 平安時代後期
木造狛犬 – 鎌倉時代

鳥取県指定名勝
正善院庭園 – 江戸時代中期以降

三徳山
三徳山(みとくさん)は、鳥取県東伯郡三朝町にある山である。標高899.6メートル。706年に役行者により修験の霊地と定められたと伝わる。山名は蔵王・子守・勝手の三所権現を山内に祀り「福徳」「智徳」「寿徳」の3つの徳が授かる山の由来と、「法身(美しい)」「般若(にごりのない)」「解脱(働きのある心)」の3つの徳に由来する。麓には国宝投入堂を有する三徳山三佛寺が存在する。

三徳山全域が三徳山三仏寺(天台宗)の境内となっており、投入堂(なげいれどう)の通称で広く知られる奥院の建物は、中腹の断崖に浮かぶように建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されている。全山が国の名勝・史跡に指定されている。世界遺産に推薦を申請したが、継続審議となった。

2014年には、区域300haが大山隠岐国立公園区域に編入された。 また、2015年に「三徳山・三朝温泉」が「日本遺産」の第一号として認定された。

マスコットキャラクターにみとちゃんがいる。

成因・地質
新生代第三紀にあたる約130万年前に、基盤の花崗岩層や小鹿凝灰角礫岩層・投入堂凝灰角礫岩層から噴出した火山である。山体は流動性の大きい輝石安山岩からなる。長い年月にわたって風雨による浸食を受けているが、頂上から標高600メートル地点までは、原地形と思われる緩斜面が残っている。南側斜面には、浸食によって生じた40から60メートルに及ぶ険しい断崖が発達している。

三仏寺の堂宇である文殊堂・地蔵堂・鐘楼堂は凝灰角礫岩層の断崖上に、納経堂・観音堂・元結掛堂・投入堂は、凝灰角礫岩層と三徳山安山岩の境目に浸食によって生じた岩窟・断崖上に建てられている。特に投入堂は、下部層である凝灰角礫岩層と上部層である安山岩層の選択浸食によって生じた断崖を、見事に利用して建てられている。安山岩には柱状節理が発達し、溶岩の流下した方向を目でたどることができる。

三徳山からは垢離取川と名のないもう1本の谷川が流れており、不動滝・真蛇滝・龍徳院滝の3つの滝が山中にある。ただし滝は深い原生林の中にあるため、近づくことはできない。

自然
登山道は中腹にあたる投入堂までの1本のみであり、全山が人跡未踏の原生林に覆われているため、貴重な植物相が見られる。また寒暖両地方の植物が入り交じって見られる。

三仏寺まではヤブツバキが多い。標高300メートル地点の文殊堂のあたりからはブナの大木が目立つようになる。標高450メートル地点の投入堂から上には、アカマツ、アカガシ、ソヨゴなどが見られる。三徳山では、通常はブナ林の下位に位置するアカマツ・アカガシなどがブナ林の上位に位置し、植物相が逆転している。これは山麓の三徳川・垢離取川が作る深い谷から来る冷気の影響で、低地の方が気温が低いために生じる現象と見られている。したがって秋の紅葉も、三徳山では山の下方から始まり、次第に上方へと移っていく。三徳山の南側にある景勝地・小鹿渓でも、同様な植物相の逆転現象が見られる。

三徳山で見られる珍しい植物としては、着生植物のシシンラン、ミトクナデシコ(固有種)、ツクシシャクナゲ、ウンゼンマンネングサ、ハナミョウガなどが見られる。ただこれらの植物は、近年の登山客の増加によってめっきり少なくなってしまった。

大型鳥獣は多くない。鳥類では、三徳川・垢離取川ではカワガラス、キセキレイが見られる。林にはカケス、コゲラ、アカゲラ、アオゲラなどが見られる。メジロ、ヤマガラ、シジュウカラ、コガラ、エナガ、ヒガラ、キクイタダキなどは、群れを作って現れることもある。

陸貝、昆虫類は豊富であるが、本格的な研究はなされていない。

投入堂への道
先にも記しているように、投入堂は険しい登山道(行者道)のみによりアクセス可能な山上区域内(区域末端)に所在する。このため、同堂の参拝には本堂裏手に設置されている登山事務所で入山手続きを済ませる必要がある《受付時間「8:00〜15:00」》。この際、寺側による靴と服装のチェックを受けることになっている。

三仏寺では投入堂への入山はあくまでも観光ではなく修行であるとしており、三仏寺拝観料とは別にここで入山料を支払い入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身につけ、すぐ裏にかかる宿入橋から行者道を登ることになる。そして下山時には登山事務所でたすきを返納すると共に下山時間を入山届に記入してもらうことで、入山者の下山の確認を行い、不慮の事故に備えている。

投入堂への行者道は非常に険しく、登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがあり、特に女性のスカート姿は厳禁で、スラックスも望ましくないとされている。また靴では底面にスパイクが付いたものについても、行者道や木の根の損傷防止の観点から、禁じられている。寺側では、投入堂の参拝に際し、動きやすい服装に登山に適した靴の着用、更に荷物をリュックサックに纏める等して両手が使える状態にすることを要求しているが、更に手袋(軍手)やタオルも準備しておくことが望ましいとされている。ここで使用する靴について、寺側では金具の付いていない登山用シューズの使用を推奨しているが、深い溝のついたゴム底を備えた靴であっても可である模様。登山事務所では、登山に適しない靴を履いて来た参拝者のため、草履を販売している。

なお、行者道には水分補給のための水場が無く、水筒等の装備も準備しておいたほうが望ましいが、途中トイレも無いため、初めから水分を摂り過ぎるのはよくない点にも注意が必要である。登山事務所には飲料の自動販売機、トイレが備え付けられている。

以上のように寺側、滑落事故はあとを絶たないため、現在では1人での入山は拒否されている。

投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建つ(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多い。

本堂裏の宿入橋からの高低差約200メートル、全長約900メートルの行程は全て難所と言ってよく、ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついて、その都度足場を確保しながら登り下りすることになる。なお、難所は下りの方がはるかに通過困難になることは留意すべきである。

以上のように、投入堂を近くから直に見るためには険しい行者道に踏み入れる必要があるが、その一方で麓の車道から投入堂を遠望できる場所も存在し、「投入堂遥拝所」として駐車場や無料の望遠鏡が完備されている。

登山
三仏寺本堂裏手に登山口があり、投入堂まで全長約900メートル、高低差は約200メートルの参拝登山道があるが、山頂までは登れない。三仏寺の境内であり、入山料が必要。危険な箇所が多く、死亡を含む滑落事故も何度か発生している。