京都御所・下鴨リア、日本京都観光ルート

京都御所エリア、京都市民の憩いの場・京都御苑で自然を満喫し、赤レンガの建物群を眺めながらクラシカルな気分を味わう。四方を樹々に囲まれた京都御苑。京都御所や2005年(平成17年)に建てられた京都迎賓館を含む、東西700メートル、南北1300メートルの広大な国民公園です。苑内にはレストランや梅林、小川や芝生などがあり、市民の憩いの場になっています。御苑の北側は、明治期の代表的な洋風建築が立ち並ぶ同志社大学の今出川キャンパス。中には重要文化財や登録有形文化財に指定されているものもあり、クラシカルな雰囲気が漂います。また御苑東側には京都の三名水・染井の水で知られる梨木神社や、紫式部邸跡といわれる廬山寺があります。

下鴨エリア、古代からの生態系を保つ下鴨神社の糺の森や、アニメにも登場する鴨川デルタで、豊かな自然を感じよう。5月に行われる葵祭で有名な下鴨神社。その本殿から境内の河合神社に至る糺の森は、紀元前3世紀ごろの原生林と同じ植生が伝えられている森で、国の史跡に指定されています。神社を参拝した後は、境内を出て旧三井家下鴨別邸横の通りを南へ。ここは賀茂川と高野川が合流し鴨川になる通称、鴨川デルタ。アニメやドラマに登場する場所としても有名です。川に配された亀や鳥の形をした飛び石を渡ることもでき、休日には近隣の大学生や家族連れで賑わいます。市街地にありながら気軽に自然と触れ合うことができるエリアです。

上京区は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。上京区の歴史は古く、平安時代末期頃から京都の町を南北に分けた上辺、下辺の表現が用いられるようになり、それが中世になって、おおむね二条通を境として上町、下町、あるいは上京、下京と呼ばれるようになったといわれています。

区内には、伝統ある文化が現在も引き継がれており、千本釈迦堂、相国寺、北野天満宮などの歴史的遺産(平成19年4月現在 国宝12・重要文化財232・史跡名所6)や茶道界の家元三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)があります。 また、京都の産業を代表する「西陣織」は平安京の頃から宮中や公家、社寺、幕府等の庇護を受けて発展してきました。

京都御所
京都御所は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。1331年から1869年(明治2年)までの間の内裏(天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所の事で、現在の皇居とほぼ同義)。現在は宮内庁京都事務所が管理している。平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮とも称される。

土御門東洞院殿は、元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として以降、明治天皇の東京奠都に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。

特に寛政度の再建は、裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式となった。現存の内裏は幕末の嘉永7年(1853年)に火災で焼失したのち、安政2年(1855年)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。なお、南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末の慶応年間に今日の敷地面積が確定したものである。

京都御所に隣接して京都大宮御所、京都仙洞御所がある。京都大宮御所は、後水尾天皇の中宮の東福門院のために造進されたのに始まり、現在の建物は英照皇太后(孝明天皇女御)のために造営され、慶応3年(1867年)に完成したものである。現在は天皇、皇后の京都府への行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。京都仙洞御所は後水尾上皇の退位後の住まいとして造られたものだが、現在は庭園と茶室を残すのみである。

現在は京都御所、京都大宮御所と京都仙洞御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されており、これらの周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」と呼ぶ事が多い。京都御所に現存する主な建物としては、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿、迎春、御涼所、皇后宮御常御殿、若宮・姫宮御殿、飛香舎などがある。

京都御苑の中央北部にある。(東西約250メートル、南北約450メートルの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政2)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模しております。御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがあります。小御所前には大きな池を配した優雅な庭園があります。清所門から入退出できます。

京都御所と京都仙洞御所、京都大宮御所、京都迎賓館を包含する東西700メートル、南北1300メートルの広大な緑地で、環境省の管理する国民公園。禁門の変で有名な蛤御門など四方から自由に出入りでき、芝生や梅林などがある格好の散策地。レストハウス、運動広場など憩いの場の他、閑院宮邸跡、庭園、御苑の歴史と自然が学べる展示館(月曜・年末年始休、無料)、拾翠亭、江戸時代の茶室(年末年始を除く毎木・金・土曜日100円)など、歴史的遺構も残る。なお、御所の管理は宮内庁であり、御所参観の受付は宮内庁京都事務所が行っている。

下鴨神社
賀茂御祖神社は、京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。国際連合教育科学文化機関 (UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。 賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。

本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。現存。飲料可。

京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。

平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。

金剛能楽堂
金剛能楽堂は、京都の中でも特に能楽と関わりの深い、かつての室町幕府の「花の御所」の近く(現在の京都御所の西向かい)に平成15年開館しました。百五十余年の星霜を経た室町の旧金剛能楽堂より、先人の思いが詰まった能舞台をそのまま移築。21世紀の能楽堂の中に19世紀の舞台が融合する、時空を越えた空間が誕生しました。雅な雰囲気の漂う御簾席や、禁裏の舞台の面影を伝える橋懸りの青海波文様が、見所の趣きあるたたずまいを一層引き立てます。季節の移ろいを四季折々彩る庭園にしつらえた石舞台。心落ち着き、心華やぐひとときを金剛能楽堂でお過ごし下さい。

京都府立文化芸術会館
京都における文化芸術活動の拠点として、京都府開庁100年記念事業により、昭和45年(1970年)1月8日に開館。以来、文化芸術の創造、発信の中核施設として、演劇・古典芸能・舞踊・音楽などの舞台芸術の公演及び美術・工芸・書道作品などの展示に広く利用されている。

名所・旧跡

京都府庁
京都府庁旧本館は1904年(明治37)に建設された煉瓦造2階建築、後期ルネッサンス様式を採り入れたロの字形で各府県庁舎では現存最古。建築史的な価値も高く国の重要文化財に指定されている。なお1971年(昭和46)以降第1号館、第2号館(いずれも6階建)が旧本館の周辺に新築された。

京都迎賓館
京都迎賓館は、日本の歴史、文化を象徴する都市・京都で、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に、平成17年(2005年)4月に開館した国の迎賓施設です。当館は、日本建築の長い伝統の粋と美しさを現代の建築技術と融合させる「現代和風」の創造を目指して設計されました。東京にある迎賓館赤坂離宮とともに、国公賓などの賓客の接遇の場としての役割を果たしています。

旧二条城跡
この一帯は1569年(永禄12)織田信長が将軍足利義昭のために造営した二条城(現二条城とは別)の跡である。堀をめぐらせ、高い石垣に櫓を設け、城内も庭園や建物に粋を凝らした堅固で華麗な城郭であった。1573年(天正1)信長により義昭が追放され、城は取り壊された。その後、付近の地下鉄工事で約100体の石仏が発見され、城の石垣に使われたものと判明。この築城を70日で仕上げたこととも思いあわせ、信長の強権ぶりがうかがえる。この石仏は伏見区、安楽寿院と、西京区、京都市洛西竹林公園に保管され、同時に発見された石垣の一部は、京都御苑下立売御門内と、現二条城内に復元されている。現地平安女学院前に石碑。地下鉄丸太町200メートル。

護王神社のかりん
護王神社境内、正門内側北寄りにあるナシ科のカリン。樹高14m、幹の太さは1.5mあり、その実の効能から「ぜんそく封じの御神木」とされている。

女紅場跡
明治初期に設置された女子教育機関。1872年(明治5)まず新英学校女紅場が上京区土手町通丸太町下ルに開設。のち女学校を経て1901年(明治34)に京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)と発展。1873年(明治6)以降は市中女紅場を各学区に設置、裁縫・手芸などを教えた。丸太町橋西詰に石碑あり。市バス河原町丸太町200メートル。

武者小路千家官休庵
千宗旦(利休の孫)の次男宗守が寛文年間(1661-75)に造った武者小路千家(茶道三千家の一つ)の茶室。江戸期に3回焼失、明治初めの再建。官休庵ほか半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵など名席を飛石でつなぎ、中門の‘編笠門’石灯籠などを含め露地庭園は雅趣に富む。

新島旧邸
同志社の創立者、新島襄と妻・八重の私邸(1878年竣工)、木造2階建ての和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物。1985年、京都市指定有形文化財に指定されている。

NTT西日本 西陣ビル
1921年(大正10)京都中央電話局西陣分局として開局。鉄筋コンクリート造三階建。設計は逓信省技師岩元禄で、唯一の現存作品。正面の二階部分まで半楕円形にレリーフを並べ、出入口の中央と左右の柱に裸婦の彫像をのせるなど、大胆なデザインが目を惹く。明治期の洋式建築から脱し、設計者の個性によってデザインされた記念碑的建築として名高い。

白峯神宮
明治天皇が1868年(明治元)讃岐の白峯陵から崇徳天皇の御霊を遷し創建された旧官幣大社。のち明治6年淳仁天皇も淡路陵から御霊を遷し合祀。御祭神の崇徳天皇は「保元の乱」で、淳仁天皇は「藤原仲麻呂の乱」で、それぞれ配流となった。境内地主社の「精大明神」は蹴鞠、星の神様として有名です。小賀玉の木は、白峯神宮境内にあるモクレン科のオガタマノキ。境内の東南部にある。境内はもと飛鳥井家の邸跡で、オガタマノキはその邸跡に古くから存在したもので、社寺の多い京都市内においては最大級である。浅春に仄かな芳香を放ち開花する。市指定天然記念物。

菅原院天満宮神社 菅公初湯井
菅原院天満宮社境内にある、菅原道真産湯の井と伝える石台形花崗岩製の井戸。ごく最近(平成22年)産湯の井を掘削し清らかな水が出て、参拝客に喜ばれている。また、御遺愛の灯籠もある。探検家松浦武四郎(北海道の名付け親)が晩年に天満宮を崇敬し銅鏡や石碑を当社に奉納した物が現在も残る。

狩野元信邸跡
室町幕府の御用絵師・狩野元信と子孫の居住地。元信は1476年(文明8)ここで生まれ1559年(永禄2)84歳で没したが屋敷は松栄・永徳と続き、その子・弟子が京狩野の面業を守る。元信が狩野派300年の基礎を固めた屋敷跡も今は石碑を残すのみ。

京都守護職屋敷跡
幕末の政治・治安の維持に対処するため1862年(文久2)江戸幕府が設置した職名の一つ。会津藩主松平容保が就任。翌3年、今の京都府庁・第二日赤病院・梅屋校におよぶ広い地域の民有地99,000平方メートル(3万坪)を買収し守護職屋敷を造営。京都所司代・京都町奉行の上位に置く。1867年(慶応3)王政復古により廃止。府庁内に石碑がある。

水火天満宮
水火天満宮は、京都市上京区にある神社。旧社格は村社。水難火難避けの神といわれる。地元の人には「水火の天神さん」として親しまれている。923年(延長元年)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年に現在の場所に移転した。菅公登天石とも呼ばれる。洛中をしばしば雷火が見舞い、祈祷の命を受けた法性坊尊意が宮中へ向かおうと鴨川に差し掛かると、川が急に氾濫した。神劔を捧げ祈ると、水はたちまち二分し、中央の岩上に菅公が現れ、やがて昇天するやたちまち雷雨がおさまった。このとき菅公が現れた岩を「登天石」と名付け、現存する石はその一部だと伝える。出生石は、水火天満宮境内、登天石横にある神石。大願成就、世に出る石として、信仰がある。

横井小楠遭難の跡
肥後藩士横井小楠は、越前藩に招かれ藩政を指導、越前藩主松平慶永が幕府政事総裁職に就くや、そのもとで活躍。明治新政府の参与となったが、1869年(明治2)正月5日、御所参賀の帰途、中京区寺町通丸太町下ルの路上で数人の刺客により暗殺された。進歩的な思想が一部保守派に狙われるもとになった。同所に石碑あり維新史跡の一つ。墓は左京区、南禅寺塔頭天授庵。市バス河原町丸太町すぐ。

並河天民講学所跡
この地は、江戸時代中期の儒医並河天民の私塾、堀木之舎があったところである。天民は延宝7年(1679)京都郊外、横大路村の生まれで、性豪放、終生官に仕えず、赤貧に甘んじ、この地の私塾堀木之舎で学問を講じた。享保3年(1718)、40才で没し、東山の清閑寺に葬られた。

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宝鏡寺庭園
宝鏡寺南庭は一面の苔が美しく秋の紅葉「一木百樹」とのコントラストが鮮やかである。東庭は桜、椿、柿、花梨など華やかな花木の庭。また皇女和宮ゆかりの「鶴亀の庭」がある。中庭にも奈良の都の八重桜や村娘椿がある。

熊谷と月光と村娘は、宝鏡寺の庭の北端にある肥後椿の原木となった熊谷が有名である。地上部で幹間130cm、さらに3幹に分岐しており、一重大輪の真紅の花は、蕾の円形態から特徴が見えるが、何よりも雄ずいが放射状に平開して発達する形状が、肥後椿のいわば原形ともなっている。葉も濃緑色で厚い。また、庭内の西北隅にある月光は、京椿の中でも貴重な名品で、とりわけここ宝鏡寺の個体は、弁化した雄ずいが鮮明な白色を呈することから、紅色花弁との対比が清らかに現れる特色がある。中庭には村娘の原木が濃桃色の八重の花をつける。

京都仙洞御所
後水尾上皇の御所として1630年(寛永7)に完成した。御殿は1854年(嘉永7)に焼失したのを最後に再建されず、現在は醒花亭と又新亭の2つの茶屋と雄大な庭園が往時の面影を残している。

旧三井家下鴨別邸
江戸期に呉服・両替商として隆盛を極め、明治期に一大財閥に成長した豪商・三井家の別邸として、大正14年(1925)に建てられた重要文化財 旧三井家下鴨別邸。その北にはかつて、三井家の祖霊を祀った顕名霊社があり、ここは三井家の関係者がお参りをした際に休憩をするための場所として設けられた。明治13年(1880)に木屋町三条上るに建てられた三井家当主の隠居宅を移築した主屋、もともとこの敷地に立っていた江戸時代建築の建物を改修した茶室、そしてこの別邸を造るときに新築された玄関棟と、3つの異なる時代の建物からなり、南側には苔の庭が広がる風雅な造り。祭礼の度に、三井11家の一族、三井財閥の重役が多数集まっていたという。通常の公開では、玄関棟、主屋の一階、庭園を見学することが可能。呉服商から発展し、日本初の民間銀行を設立するなど、発展を遂げた三井家。その美意識の一端に触れ、幕末、明治、大正期の建築美を学ぶことができる。

聖アグネス教会
英国国教会の流れをくむ日本聖公会に属する教会。明治の初めから英国・米国の宣教師が日本各地で伝道活動を行ったが、京都では1889年以降、積極的に伝道が行われた。この聖堂は、平安女学院の礼拝堂として、また日本聖公会京都地方部(現・京都教区)の大聖堂として1898年に竣工し、献堂式が行われて聖三一大聖堂と命名された。設計は立教学院の初代校長であったジェームス・M・ガ-ディナーである。

聖アグネス教会は烏丸通を挟んで京都御苑の西側に位置する。北東の角に三層の鐘楼、南東角には礼拝準備室が設けられ、ゴシック様式の重厚な外観(煉瓦積み)は、明治期のキリスト教会堂の特色を伝えている。京都市指定有形文化財。

廬山寺庭園 源氏庭
廬山寺の庭園は一面の白砂に設けられた苔地のたおやかな曲線が優しい平庭の枯山水。紫式部ゆかりの庭には桔梗が清楚な風情を添えている。6月中旬~9月中旬頃まで桔梗が美しい。

足利将軍室町第跡
足利3代将軍義満が1378年(永和4)に造営した邸宅。室町幕府があった。室町殿・室町御所・花の御所とも。烏丸通と室町通、今出川通と上立売通に囲まれた東西110メートル、南北220メートルに多くの殿舎、庭園美をきわめ、室町時代の政治、文化の中心地であった。しかし応仁の乱で焼失、いくつかの町名を残す。東北角に石碑。

富岡鉄斎邸跡
今は京都府議会の公舎。和風2階建、面積1,211平方メートル(367坪)。3階建洋館は生前に建てた書庫。鉄斎は1882年(明治15)から1924年(大正13)89歳で没するまでここで起居し天分と個性をもって幾多の大作を生み出した。門前に石碑。地下鉄今出川400メートル。

伊藤仁斎宅(古義堂)跡、並びに書庫
江戸初期の漢学者・伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称する。現在の建物は明治23年に遺構をもって再建したもので、二階建、土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のものである。仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。仁斎ははじめ朱子(しゅし)学を修めたが、後にこれを排して古義学を唱え、寛文2年(1662)から宝永2年(1705)79才で没するまで約40年間、私塾を開き教授に努め、その門下生は三千人を数えた。

学校法人同志社
学校法人同志社の今出川キャンパスには、明治期の代表的な洋風建築が数多く残っている。彰栄館(1884)、同志社礼拝堂(1886)、有終館(1887)、ハリス理化学館(1890)、クラーク記念館(1893)は国の重要文化財である。また、ジェームズ館(1914)、啓明館(1920)、栄光館(1932)、アーモスト館(1932)や、は登録有形文化財である。重要文化財の同志社礼拝堂やクラーク記念館のチャペルでは結婚式が行われ、講演会や授業にも利用。どの建物も現役として活躍中だ。この他キャンパスには、同志社ゆかりの韓国の国民的詩人・尹東柱や鄭芝溶の詩碑もあり、韓国旅行者からの献花が絶えない。ハリス理化学館内の「ハリス理化学館同志社ギャラリー」は、一般公開している。

本法寺 巴の庭
本阿弥光悦作「三巴の庭」。この庭園は国の名勝に指定。奥深い部分に枯滝石組(三尊石組)は室町時代の手法を巧みに再現され、一段落して配置された縦縞模様をもつ青石により水流の落ちる様相を表現している。又十本の切石で縁どられた蓮池と半円を二個組み合わせた円形石とともに図形的意匠を見せている。

藤井右門宅跡
この地に江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の居宅があった。富山県生まれの右門は京都に出て皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。明和3年(1766)東京で処刑された(明和事件)。右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史蹟としても忘れがたい。屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取りこわされたが、大正12年、右門の顕彰碑が建てられた。

薩摩藩邸跡
京屋敷は幕末までの間、転々としたが、1863年(文久3)島津久光が上洛後に上京区の相国寺南の二本松に新屋敷を設け、北区等持院にも邸を構えた。明治になって錦小路の邸跡は誓願寺に。のち京都取引所に。二本松邸は同志社大学の敷地となる。石碑あり。地下鉄今出川すぐ。

出町柳
京都市の北部を流れる加茂川と高野川が合流し、鴨川と名称を変える地域一帯を指す地名。三角州は鴨川デルタの愛称で親しまれており、京都大学や同志社大学から近いため、周囲の河川敷も含めて学生が集まる。天気のよい日は子連れ客が川遊びに訪れ、まちなかに有りながら自然と触れ合う様子が見られる。五山送り火の日は、大文字と妙法を見ることができるため多くの人で賑わう。京阪電車の終点「出町柳駅」が隣接しており、下鴨神社や京都御苑に徒歩でアクセスできる。西側には、レトロな雰囲気で人気がある出町桝形商店街もある。

蛤御門
京都御苑の西側、もとは新在家御門といい、閉じていたが天明の大火(1788)の際、開門、‘焼けて口あく蛤’にたとえて蛤御門とよばれる。1864年(元治1)7月19日、長州軍と薩摩・会津 連合軍が御所で衝突した「禁門の変」は、「蛤御門の変」とも。戦は長州軍の惨敗、戦火で民家3万8000戸余を焼く。

美術館・博物館

北村美術館
実業家で茶人の北村謹次郎が収集した茶道美術品を主に約1000点を収蔵。なかでも佐竹本三十六歌仙切、蕪村筆鳶鴉図など34件の重文がある。茶道美術品を主体とした所蔵品。当館の茶風及び茶会の雰囲気を企画・展示。又、隣接する「四君子苑」と呼ばれる茶苑(石造物の宝庫として知られ、多種多彩な石造美術品が約60点も配置されている)・茶室と数寄屋造り建物は、昭和数寄屋の傑作で、春と秋に一定期間公開している。

ハリス理化学館同志社ギャラリー
同志社は、1875年(明治8)、新島襄が開校した同志社英学校を前身とします。襄は、約10年間の海外での学びを終えたのち、日本でキリスト教主義に基づく教育により人物を育成することを期しました。そして妻である新島八重の兄・山本覚馬やアメリカン・ボードをはじめ多くの人々の協力と援助によって現在の同志社の基礎を築きます。また襄の志を受け継ぎ、多くの先人たちが現在まで同志社の発展に尽力してきました。当ギャラリーは、その創立者新島襄の志と同志社の歴史を、資料で紹介する展示施設です。またハリス理化学館はJ.N.ハリスの寄附をもとに、1890年(明治 23)に竣工し、ながらく同志社における理化学教育の拠点となった建物です。現在、国の重要文化財に指定されています。

公益財団法人 益富地学会館
益富地学会館は、地学に興味と関心を持つ人々の集いの場となっており、研究設備の他に1万冊を超える地学関係図書を所蔵し、会員に公開しています。標本展示室では、世界中の鉱物・化石・岩石などの標本約1万5千点を展示し、国内の標本は都道府県別に分類され、一般に公開しています。当館では、青少年の地学教室・様々な団体に対する研修(要予約)も行っているほか、一般市民や地学団体会員を対象にした連続講座や野外見学・採集会も定期的に開催しています。また、世界各国の200社以上の業者が出展する展示・即売会「石ふしぎ大発見展」を開催、鉱物鑑定検定を全国規模で実施しています。

京都市歴史資料館
京都の歴史に関する調査・研究と歴史資料の収集・保存・活用を目的とする施設。歴史に対する関心に応えるため、歴史講座・古文書講座などを実施。京都市の歴史資料約13万点、図書約5万6千冊などを収蔵し、テーマ展、特別展を開催しているほか、古文書(複写版)や京都の歴史に関する図書の閲覧もできる。

京菓子資料館
宝暦5年(1755)創業、京都を代表する老舗菓子店・俵屋吉富の資料館。「京菓子の文化をより多くの人に正しく伝えていきたい」というコンセプトのもと、京菓子に関する古文書や絵画、和菓子の模型、糖芸菓子などが展示されている。糖芸菓子とは、砂糖を使って花や鳥などを再現した芸術品で、常設展示は貴重。最後は館内の茶席「祥雲軒」で、お抹茶、俵屋吉富の銘菓「雲龍」と季節の生菓子をいただきたい。

茶道資料館
茶道資料館は茶の湯に関する企画展を開催し、掛物、茶碗、花入などの茶道具や関連の美術工芸品、文献史料などを中心に展示を行っている美術館です。2階陳列室には、「今日庵」と共に裏千家を代表する茶室のひとつ「又隠」の原寸大の写しを設けており、茶室内を見学することができます。展覧会の入館者には呈茶があり、抹茶と和菓子を差し上げています。

相国寺承天閣美術館
昭和59年(1984)、相国寺創建600年の記念事業の一環として、相国寺の境内にオープン。相国寺と鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、塔頭寺院に伝わってきた美術品を収蔵・展示する。常設展示では、伊藤若冲の「鹿苑寺大書院障壁画」(重要文化財)の一部を、また、特別展示ではふだん見ることのできない貴重な収蔵品を鑑賞することができる。

井村美術館
井村美術館は、京都の鴨川と高野川の合流地点、下鴨神社参詣の道・糺の森の西側に、1981年に開館いたしました。幕末以降の近代有田美術陶芸の魅力をお伝えするために活動し続けております。地階の静かな美術館内には、明治時代に有田美術陶芸の復興に尽力した十代今右衛門、十一代柿右衛門以降の歴代作品を約50点展示しております。そして、長い歴史の中に埋もれ、忘れ去られようとしていた各代の特徴や裏銘など当館独自で蒐集・研究を進めました。その結果、江戸時代から現代まで400年の歴史にそった作品をご覧いただける美術館となりました。1階京都美商ギャラリーにおいては、歴代柿右衛門・今右衛門や古伊万里焼だけでなく、オールドバカラを中心とした西洋アンティークの品を展示・販売しています。併せてご覧くださいませ。

樂美術館
樂焼窯元、樂家に隣接してたてられている。初代長次郎以来450余年、樂家歴代の作品を中心に、樂家に伝わった茶道具工芸品、関係古文書など所蔵品は1200点を超える。樂歴代の作品による、「特別鑑賞茶会」や「手にふれる樂茶碗鑑賞会」が催され、実際に手にとって鑑賞することができる。

頼山陽書斎山紫水明處
明治維新の原動力となった「日本外史」の著者として知られる頼山陽が文政11年(1828)、自宅の水西荘の庭に建てた草堂風の離れ。小さな床の間のついた四畳半の座敷と二畳の書斎、約一畳の水屋と板の間、そして廊下で構成されている。京都市の中央にあって、前に鴨川が流れ、大文字山、比叡山、東山三十六峰を借景としている。山紫水明という言葉は、山陽がこの書斎に使って以後、一般に使われるようになった。

中信美術館
丸みを帯びたうすい橙色の壁面や銅板葺の屋根、渦巻きの連鎖モチーフの門扉、花や虫がデザインされたイタリア製の鉄扉など、南欧風の瀟洒な外観も魅力的な美術館。特別企画展のほか、(公財)中信美術奨励基金や京都中央信用金庫が有する絵画などの美術品等を中心とした展覧会を定期的に開催しています。

鈴木一染織コレクション
本物の裂の魅力や楽しさを知ることができる鈴木一の染織コレクションルーム。四季に分けて展示している。先ず、本物を見る事が肝心であり、その裂を見分ける目を養うお手伝いをするためのコレクションルーム。

ナカガワフォトギャラリー
ナカガワフォトギャラリーは平成5年(1993年)3月1日に京都市北区の地にて開館しました。日本で最初にカメラオブスキュラ(写真鏡)が設置され、写真機材、写真などを展示するギャラリーでありましたが、今年の7月末を持って閉館することになりました。皆様の温かい励ましと、ご支援にに感謝いたします。今後、ナカガワフォトギャラリーは、NPGと改称して、京都市上京区において京都に関連した新しい文化を発信していきたいと考えています。

行事・祭典

御手洗祭
精大明神例祭
御霊祭
宝鏡寺人形展
追儺式鬼法楽
夏越大祓式
府市民俳句大会
七夕小町をどり
武道繁栄奨励祭
蹴鞠始め
護王大祭
例祭・小山郷六斎念仏
繁昌大国秋祭
京の流しびな
蛍火の茶会
御蔭祭
朝勤<妙顯寺>
印章祈願祭
町かどの藝能
お火焚きと採燈大護摩供
献茶祭
観月祭(献燈祭)
上京薪能
柊大明神祭・節分祭
流鏑馬神事
亥子祭
伴緒社祭
春季例大祭<白峯神宮>
人形供養祭
萩まつり
お火焚祭<白峯神宮>

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Tags: Japan