東山区,京都市,近畿地方,日本

東山区は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。世界文化遺産の清水寺をはじめとする有名社寺や史跡,名勝のほか,国宝,重要文化財等が多く,また,産寧坂地区や祇園新橋地区は,伝統的建造物群保存地区に指定されるなど歴史を経た美しい町並みが保存されており,東山区各地には四季を通じて多くの観光客が訪れています。

区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街がある。鴨川左岸の平野部は早くから市街化されているが、東山の西麓には大規模な寺社が林立する。景観条例等の規制が比較的厳しいこともあって、他の区で見られるような山間部の住宅開発は行われていない。

東山区は,東西を東山連峰と鴨川に挟まれ,北は概ね三条通,南は十条通から稲荷山北麓付近を区域としており,区の東部は森林地域,西部は住宅地域,北部の東大路通と鴨川の間は商業地域,南部の鴨川沿いは準工業地域というように多彩な地域特色を有しています。

五条坂から泉涌寺付近を中心に作られる京焼・清水焼は,美術・工芸的な評価が高く,京扇子や京漆器等とともに,京都の伝統産業として全国に知られています。

市内の代表的な花街である祇園や宮川町では,しっとりと華やいだ雰囲気の中,伝統文化や伝統芸能が継承され,毎年「都をどり」や「京おどり」,「祇園をどり」が開催されます。

落ち着いた自然環境の下,東山山麓を中心に京都国立博物館や京都女子大学,華頂短期大学等が点在し,アカデミックな彩りとともに女子学生たちがまちに華やぎを添えています。

現在,東山区では,平成13年1月に策定した将来のまちづくりの方向を示す東山区基本計画「東山・まち・みらい計画2010」の実現に向け取組を進めています。

名所旧跡

清水寺
清水寺は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号は音羽山。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所第16番札所。本尊は十一面千手観世音菩薩。 清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、1885年(明治18年)に法相宗に復す。1965年(昭和40年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。

青蓮院
青蓮院は、京都市東山区粟田口にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する。山号はなし。開山は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来である。現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。

青蓮院は、梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。

梶井、妙法院などと共に、青蓮院も比叡山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっている。青蓮院は比叡山東塔の南谷(現・延暦寺第三駐車場)にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源である。青蓮坊は慈覚大師円仁、安恵、相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。

知恩院
知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山。詳名は華頂山知恩教院大谷寺。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。

法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう(嘉禄の法難)。文暦元年(1234年)、法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどして紫野門徒の拠点となっていった。

長楽寺
長楽寺は、京都市東山区にある時宗遊行派の寺院。山号は黄台山。洛陽三十三所観音霊場第7番札所。 円山公園の東南方に位置する。かつての境内地は円山公園の大部分や大谷祖廟(東大谷)の境内地を含む広大なものであった。長楽寺は、一説によれば延暦24年(805年)勅命により最澄が延暦寺の別院として創建したのに始まるという。『平家物語』「灌頂巻」によると、文治元年(1185年)には高倉天皇の中宮で安徳天皇の生母である建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したと伝えられる。 法然の弟子、隆寛はこの寺に居住して多念義を唱えた。隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれた。 至徳2年(1385年)時宗の僧国阿がこの寺に入り、時宗の寺に改められた。 延享3年(1746年)に江戸幕府の命令で境内地を大谷祖廟に割譲すると衰微しはじめ、文化年間(1804年 – 1818年)には養福寺に寺地の一部を譲って浄土宗西山派に改宗する。しかし1870年(明治2年)には時宗遊行派に改めた。

1906年(明治39年)には、時宗遊行派の有力寺院である七条道場金光寺を統合する。長楽寺が所蔵する時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたものである。 2008年(平成20年)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この際、一遍木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。

祇園
祇園は京都市東山区にある、京都の代表的な繁華街及び歓楽街。 現在の八坂神社は明治以前は祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する(「祇園」の語源については祇園精舎を参照)。その鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。

また、四条通と東大路の交差点は「祇園」交差点である(しばしば「祇園石段下」とも言う)。交差点付近に京阪バスの祇園バス停留所がある。 もと山城国愛宕郡八坂郷八坂廻り、下京区八坂廻り(昭和4年(1929年)まで)。なお、名の由来となった祇園社(感神院)は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名になった。

八坂神社
八坂神社は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。

京都盆地東部、四条通の東端に鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。 正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る。

建仁寺
建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。「建仁寺の学問面」などともいう。

日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西であるとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派の虚庵懐敞に参禅した。

安井金比羅宮
安井金比羅宮は、京都府京都市東山区にある神社。通称「縁切り神社」の別称で知られる。 天智天皇の時代に藤原鎌足が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号したのがそもそもの始まりである。 平安時代、崇徳上皇は藤寺の藤を愛でると共に、寵愛している阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸し、久安2年(1146年)には堂塔を修理している。 上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流罪となった際、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。そして上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納し、塚を築いて遺髪を埋めて日夜ひたすら勤行した。

治承元年(1177年)、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275年 – 1277年)に崇徳上皇を祀る光明院観勝寺が建立された。これが当社の起こりとされる。阿波内侍が築いた塚は整備されて御影堂(現・崇徳天皇御廟)が建てられた。

宮川町
宮川町は京都市東山区に位置しており、宮川筋二丁目から六丁目までが花街である。 出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、当初は遊女が接待をしたり、若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年(陰間)が接待をしていた花街だった。江戸時代頃には売色衆道専業の若衆茶屋(陰間茶屋)も集まった。その後は江戸の3大改革による度重なる風俗取締りで、若衆歌舞伎や陰間茶屋も打撃を受けた。

明治・大正と、1958年(昭和33年)の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。 2017年現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される。舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。

法観寺
法観寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。 伝承によれば五重塔は崇峻天皇5年(592年)に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒収めて法観寺と号したという。

聖徳太子開基説は『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』(暦応元年(1338年))にみられ、近世の地誌類はこれを踏襲している。創建時の伽藍は四天王寺式伽藍配置または法隆寺式伽藍配置だったと考えられている。聖徳太子創建の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。境内から出土する瓦の様式から、創建は7世紀にさかのぼるとみられる。現存する五重塔は15世紀の再建であるが、創建時の塔跡に建てられており、古代寺院に特有の地下式の心礎(心柱の礎石)が残っている。寺号は当初は八坂寺と称され、八坂寺の文献上の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)条である。

霊山観音
霊山観音は、京都市東山区にある観音像で、第二次世界大戦の戦没者および戦争の犠牲者を追悼するため、1955年、帝産グループ創設者、石川博資によって建立された。高さ24m、重さは約500t、鉄骨コンクリート造。運営は宗教法人霊山観音教会が行っている。観音像の下には内陣があり本尊の十一面観音が祀られている。メモリアルホールには世界無名戦士の碑があり日に4回の法要が営まれている。

高台寺
高台寺、髙臺寺は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。 霊屋の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。

豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。

圓徳院
圓徳院は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派・高台寺の塔頭のひとつ。本尊は釈迦如来。開山は三江紹益。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)が晩年の19年間に自身の本拠地としたことで知られるほか、一説にはその終焉の地ともいう。

安置されている三面大黒天は秀吉の念持仏と伝わるもの。また小堀遠州が整えた北庭は、旧円徳院庭園として国の名勝に指定されているほか、長谷川等伯の筆による襖32面の墨画は国の重要文化財に指定されている。

産寧坂
産寧坂は京都市にある坂。三年坂とも呼ばれる。 東山の観光地として有名である。狭義には音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいうが、公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含む。 二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えない。沿道は土産物店、陶磁器店、料亭などが並ぶ。文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。幕末の明保野亭事件の舞台である。

重要伝統的建造物群保存地区としての産寧坂は通りの範囲より広く、東山区祇園町南側、清水二丁目、清水三丁目、下河原町、南町、鷲尾町、金園町、八坂上町、枡屋町および星野町の各一部にあたる。1976年、約5.3ヘクタールが「京都市産寧坂伝統的建造物群保存地区」の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定。その後1996年に通称「石塀小路」地区が追加選定されて、保存地区の面積は約8.2ヘクタールとなっている。

六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)。創建者は空也上人。西国三十三所第17番札所。 踊り念仏で知られる市聖空也が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。

空也の死後、貞元2年(977年)に比叡山延暦寺の僧・中信が中興して六波羅蜜寺と改称し、天台宗に属して天台別院とした。名称の由来は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。

六道珍皇寺
六道珍皇寺は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7日 – 10日の「六道詣り」、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称「六道さん」。この付近が「六道の辻」であるとされる。 この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている。

創建は延暦年間(782年〜805年)とされ、開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊とされる。異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(『伊呂波字類抄』『今昔物語集』)などとする説のほか、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。さらに東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年・1002年)には、珍皇寺は承和3年(836年)に山代淡海が創建したとある。

豊国神社
豊国神社は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。

主祭神の居城があった大阪市中央区の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。

方広寺
方広寺は、京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。

豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。

新日吉神宮
新日吉神宮は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。

永暦元年(1160年)、後白河上皇によって院の御所・法住寺殿の鎮守社として、日吉大社より山王七社(上七社)を勧請し、現在より南の地に新日吉社として創建される。同時に、新日吉社の別当寺とするために妙法院を比叡山延暦寺の山内から祇園社(八坂神社)の西側に移設している。また、同じく鎮守社として新熊野神社、鎮守寺として蓮華王院(三十三間堂)が建立されている。

妙法院
妙法院は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開山は最澄と伝わる。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている。

妙法院は著名社寺が集中する京都市東山区南部に位置する。付近は後白河法皇の居所であった法住寺殿の旧地であり、近隣には智積院、京都国立博物館、方広寺(大仏)、三十三間堂、新日吉神宮(いまひえじんぐう)、後白河法皇法住寺陵などがある。近世初期建立の豪壮な庫裏(国宝)や大書院(重要文化財)などが建つが、寺内は秋季などの特別公開の時を除いて一般には公開されていない。

智積院
智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山、寺号を根来寺という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。 智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。

智積院は、もともと紀州根来山(現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

養源院
養源院は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。もとは天台宗であった。

文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建された。養源院とは浅井長政の院号であり、浅井氏の菩提寺である。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)である。 元和2年(1616年)5月7日、2代将軍徳川秀忠正室の崇源院(江、淀殿の妹)によって、この養源院で開基である淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われた。

法性寺
法性寺は、京都市東山区本町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。山号は大悲山。本尊は千手観音菩薩。洛陽三十三所観音霊場第二十一番札所。 延長3年(925年)藤原忠平の創建と伝えられる。藤原氏の寺として栄えたが、その後衰退し現在に至る。

三十三間堂
三十三間堂は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。

この地には元々、後白河上皇(1127年 – 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある。 上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

新熊野神社
新熊野神社は、京都市東山区今熊野椥ノ森町にある神社。旧社格は村社。熊野神社・熊野若王子神社を併せて「京都三熊野」と呼ばれている。旧称は新熊野社。 永暦元年(1160年)、後白河上皇の命により院の御所である法住寺殿の鎮守社として紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請し、熊野三山の新宮・別宮として平清盛によって創建された。また、同年には同じく鎮守社として新日吉社も建立され、長寛2年(1165年)には鎮守寺として蓮華王院(三十三間堂)も創建されている。

後白河上皇は生涯で34回も熊野三山に参詣するほど熊野権現を信仰していたが、あまりにも紀伊国は遠くにあったため、頻繁に参詣することは難しかった。そこで自らが住まう法住寺殿のすぐそばに熊野権現を勧請し、当社は建立されたのである。以後は京の熊野信仰の中心地として大いに栄えた。

泉涌寺
泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山または泉山。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 平安時代の草創と伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿である。東山三十六峰の一峰である月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以降幕末の孝明天皇に至る歴代天皇・皇族の陵墓があり、皇室の菩提寺として御寺と呼ばれている。

仁和寺、大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。

別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824年 – 834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあり、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。

戒光寺
戒光寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派準別格本山の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、丈六さんとも称される。正式名称は戒光律寺。本尊は釈迦如来。京都十三仏霊場第3番札所。泉山七福神巡り第2番(弁財天)札所。 鎌倉時代の安貞2年(1228年)、南宋から帰朝した浄業曇照が大宮八条の東堀川の西に戒光寺を創建すると、運慶・湛慶父子の合作である丈六の釈迦如来立像を本尊として迎え、後堀河天皇の勅願所となった。応仁の乱によって堂宇を焼失するが、かろうじて焼け残った釈迦如来像を一条戻橋の東に移し、更に三条川東に移動させた後、正保2年(1645年)に後水尾天皇の発願により現在地に移転し、泉涌寺の塔頭となる。

後陽成天皇女御中和門院は当寺の釈迦如来を篤く信仰した。釈迦如来が後水尾天皇の身代わりになって傷を受けたという伝承もあり、天皇の守護仏として朝野の崇敬が篤く、後には庶民からも「身代わり丈六さん」の名で信仰されている。 毎年1月の第2月曜日(成人の日)に行われる泉山七福神巡りでは二番として弁財天を奉祀する。

即成院
即成院は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は阿弥陀如来。山号は光明山。毎年10月に行われる「二十五菩薩練供養」の行事で知られ、山内には那須与一の墓がある。通称は那須の与一さん。泉山七福神巡り第1番(福禄寿)札所。

即成院は明治時代以降は泉涌寺山内にあるが、創建当初は伏見桃山(現・伏見区桃山)にあった。近世の地誌には正暦3年(992年)、恵心僧都源信によって建立された光明院を始まりとするとあるが、これは伝承の域を出ない。実際の創立者は藤原頼通の子で歌人、風流人として知られる伏見長者橘俊綱と考えられている。

雲龍院
雲龍院は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺別院。山号は瑠璃山。本尊は薬師如来。西国薬師四十九霊場第40番札所。泉山七福神巡り第5番(大黒天)札所。

南北朝時代は北朝の後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として応安5年(1372年)に龍華院と共に創建された。後円融天皇、後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したとされる。 文明2年(1470年)には応仁の乱の余波を受けて全焼し、後光厳天皇、後円融天皇の尊像を残すのみとなるほどの被害を被った。 江戸時代初期、如周宗師が隣接する後円融天皇縁の龍華院を併合する。

来迎院
来迎院は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は明応山。本尊は阿弥陀如来。泉涌寺の塔頭。禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺別当来迎院とも称する(「御寺」とは泉涌寺のこと)。泉山七福神巡り第4番(布袋尊)札所。 寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。それから約400年後の建保6年(1218年)、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となったが、応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃した。

その後、天正2年(1574年)、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした。 元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下において、赤穂藩の大名であった浅野長矩(浅野内匠頭)が吉良義央(吉良上野介)に斬り付ける事件が発生した。浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となった。浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。

今熊野観音寺
今熊野観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、正式な寺号は観音寺。山号は新那智山。本尊は十一面観世音菩薩(秘仏)。西国三十三所第15番札所。 空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

そこで空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。これが当寺の始まりであるとされる。 弘仁3年(812年)には嵯峨天皇からも支援を受けて諸堂を造営し、天長年間(824年 – 833年)に完成したとされる。さらに左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られると、緒嗣亡き後もその子藤原春津によって緒嗣の菩提を弔うための事業として続けられ、斉衡2年(855年)に法輪寺として完成を見た。

東福寺
東福寺は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派大本山。山号は慧日山。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。紅葉の名所として有名である。「東福寺の伽藍面」ともいう。

東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにあり、東には泉涌寺がある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、摂政九条道家は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。建長元年(1249年)に完成した5丈の釈迦如来像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。

明暗寺
明暗寺は、京都市東山区にある普化正宗総本山の寺院。山号は虚霊山。本尊は虚竹禅師像。尺八根本道場。時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を着けており、一見宗教的な意味を持っているように見えるが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味である。

建武2年(1335年)、天外明普が虚竹了円を開山と仰ぎ、京都三条白川に創建した。明治4年(1871年)に廃仏毀釈により廃宗廃寺となったが、寺が所蔵していた虚竹了円禅師像などが東福寺の塔頭である善慧院(ぜんねいん)に預けられ、明治23年(1890年)、「明暗教会」として復興。さらに昭和25年(1950年)に善慧院に間借りする形で「宗教法人普化正宗明暗寺」として再興された。善慧院には和尚(善慧院住職)と明暗尺八の法系を継ぐ尺八看首がいる。

文化伝統

京都国立博物館
京都国立博物館は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。1897年(明治30年)5月に開館した。現館長は佐々木丞平。 主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2~4回行われている。

展示館は宮内省内匠寮技師片山東熊設計の旧・帝国京都博物館本館である明治古都館(旧称・本館)と、2013年に竣工した平成知新館がある。明治古都館は特別展示館として利用され、平成知新館は平常展示館として利用される。 所蔵品には国宝27件、重要文化財181件(2006年3月現在)が含まれる。また建物自体も、旧本館(明治古都館)・表門(正門)・札売場及び袖塀が1969年(昭和44年)、「旧帝国京都博物館」として国の重要文化財に指定されており、技術資料参考館(旧恩賜京都博物館陳列品収納用倉庫)が2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録されている。

以前は平成知新館の位置に1965年に竣工し翌年開館した京都大学名誉教授森田慶一設計の「新館」(平常展示館)があった。この「新館」は解体され、平常展示機能を持つ平成知新館(谷口吉生設計、着工2009年1月31日、竣工2013年8月)が建設された。同じ谷口吉生設計の南門ミュージアムショップは2009年に先行オープンした。 旧平常展示館の解体と平成知新館の建設に伴い、平常展示は長く休止していたが、平成知新館の竣工後の展示室の乾燥を経た2014年9月13日に再開された(特別展はその間も継続されていた)。

清水三年坂美術館
清水三年坂美術館は、京都市東山区清水三丁目にある私立美術館。主に幕末から明治時代にかけて作られた漆工、金工、陶磁器、七宝、木彫、牙彫、刺繍絵画などの日本の工芸品を中心に約1万点を収蔵し、このうち一部を展示している。設立者で初代館長は村田理如。

明治時代に入り明治政府による殖産興業政策が始まると、その一環として外貨獲得のために美術的価値の高い輸出用工芸品産業の育成が図られることになった。政府は職人たちに内国勧業博覧会や日本国外で開催される国際博覧会に工芸品を出展するよう奨励し、これに武家というパトロンを失っていた刀装具・甲冑・調度品・仏具職人たちは、美術観賞用の金工・漆工・陶磁器・七宝作品などの製作に挑戦することで応えた。工芸品を国際展覧会へ出展したり輸出する際には、西洋人の美的感覚に合わせた意匠を採用するなどマーケティングにも気が配られた。これらの工芸品は一部が皇族に献上されたり買い上げられた他は、主に輸出用だったため日本国内には優品がほとんど残っておらず、長らく研究も進められていなかった。このような状況で、1980年代に村田理如がニューヨークのアンティークショップで明治時代の印籠と出会ってその魅力に目覚め、精力的に海外から優品を買い戻してコレクションし、2000年に本館の開館に至った。

本館の設立以降、各地の博物館や美術館で明治工芸の展覧会が巡回するようになり、テレビや美術誌などのメディアでも明治工芸が取り上げられるようになり、日本における明治工芸の再評価が飛躍的に進んだ。

霊山歴史館
霊山歴史館は京都府京都市東山区にある歴史博物館である。幕末・明治維新を専門とするは唯一の博物館。幕末の京都で活躍した討幕派の志士や幕府側、他には公家・画家など貴重な遺品や資料など展示している。 1968年に松下電器産業会長の松下幸之助が関西財界人と協力して「霊山顕彰会」を設立。1970年に開館。初代館長は松下幸之助。

1階には坂本龍馬・土方歳三・近藤勇が愛用した刀のコーナー、2階には絵で見る関連・解説コーナー、電子紙芝居、池田屋事件・寺田屋事件を再現した模型コーナーがある。 2019年1月から3月まで収蔵資料を増やすためにリニューアル工事を行い、横浜市にある武溪文庫の一部の147点の資料を譲受した。

漢検 漢字博物館・図書館
2014年、京都市立弥栄中学校の跡地について京都市と協定を結び、漢字博物館・図書館と本部事務所を建設する計画案を発表した。漢検漢字博物館・図書館、通称を漢字ミュージアムとして、2016年6月29日に開館した。

古川町商店街
古川町商店街は京都市東山区古川町にある商店街、疎水の流れる白川 (淀川水系)と三条通りをアーケードで結んでいる。 古川町通り三条通りから白川筋までの街区で、長さは200mの商店街。古くは若狭街道で旅人や商人の往来があった。 知恩院としての門前市場としても利用され、食料品を中心に青果、鮮魚、塩辛などを扱う店が集中していた。鮮魚、生肉、野菜、果物、雑貨、刃物研ぎ、出汁、薬局、綿菓子屋、カフェ、忍者体験ができるアトラクションなどの店舗がある。ゲストハウスも充実している。

若狭街道の終着点であり、古川町通りとされた。誕生については『京都坊目誌』に長い間廃道のまま田畑にされていた若狭街道を寛文6年(1666年)に復旧し古川通りとしたと記されている。 江戸から明治にかけて「東の錦」と呼ばれた。 1964年4月法人化。1970年ごろアーケードを設置。1996年全店舗でポイントカード事業実施。 2004年KES(「環境マネジメントシステム・スタンダード」)の認証を受ける。商店街では初。

自然空間

東山
東山は京都盆地の東側にある山の総称である。またその山麓の地域を指すこともある。 北は比叡山(京都市左京区、滋賀県大津市)から南は稲荷山(京都市伏見区)までとするのが一般的である。狭義には、比叡山を含めず山中越の南の如意ヶ嶽(大文字山)(京都市左京区)から南を指す向きもある。

「東山」とは一つの山系の名ではなく、京都の中心部から見て東に見える山を指す。したがって、他の山と鹿ヶ谷で隔てられている吉田山が含まれる一方、比叡山の北に連なる比良山系の山は含まれない。 「東山」の呼称は古くは平安時代にも用いられたことがあるが、一般的になったのは室町時代以降である。

東山の山々を総称して、「東山三十六峰」(ひがしやまさんじゅうろっぽう)とも呼ばれる。言葉の成立当初は、具体的に三十六の峰を擁するという意味ではなく、なだらかに連なる東山の山々を洛中から見て、おおよそ三十六ほどは連なっていようかと例えられたものであろう。

円山公園
円山公園は、京都府京都市東山区にある公園。国の名勝に指定されている。園域は八坂神社、知恩院に隣接する。圓山公園とも表記される。「祇園枝垂桜」に代表される桜の名所である。 明治維新までは八坂神社(当時は祇園感神院)や慈円山安養寺、長楽寺、雙林寺(双林寺)の境内の一部であった。明治初年の廃仏毀釈の一環として、1871年(明治4年)に上知令によって土地が政府に没収され、1886年(明治19年)に総面積約9万平方メートルの公園が設けられた。1887年(明治20年)には京都市へ移管され京都市初の都市公園となった。園地計画は武田五一がまとめた。人工鉱泉療養所や貸席がたちならび歓楽境をなしていたが、火災で焼失したあと1912年(大正元年)に小川治兵衛により池泉回遊式の日本庭園が作庭され現在の形となった。

1927年(昭和2年)に開堂した円山公園音楽堂は約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利用されている。料亭や茶店、旧自由党員・今幡西衛らの尽力によって建てられた坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像などもある。雙林寺、西行庵(さいぎょうあん)、芭蕉庵、などの旧跡も多い。過去には乗馬場もあったが現在は廃止されている。