伏見区,京都市,近畿地方,日本

伏見区は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。 京都市の南東部に位置する伏見区は、昭和6年に伏見市、深草町、醍醐村など9市町村と京都市との合併・編入によって誕生し、昭和25年に羽束師村、久我村を、昭和32年に淀町を編入し、現在に至っています。伏見区擁する京都市内で最も人口の多い行政区です。

区内には,桂川,宇治川など主要な河川が流れ,古くから伏見港などを中心に水運の拠点として栄え,発展してきました。かつて「伏水」と表されたように、良質な地下水が豊富なところとして知られ,この地下水を活かして酒造業が発達し,全国有数の生産量を誇る伏見の代表的産業となっています。

また,農業も耕地面積市内第1位を誇り,米,野菜,花き等が生産され,市民への新鮮な農産物提供に大きな役割を担っています。 古くは深草にて京都盆地の中でもいち早く水稲耕作が始まり、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社が渡来系豪族の秦氏によって創建され、安土桃山時代に豊臣秀吉がここで生涯を閉じるまでの間には、一大政治都市として桃山に伏見城と大名屋敷群が、西に広がる淀川沿いの低地にかけて大手筋を軸とした城下町・伏見が形成される。

徳川幕府初期には伏見城下に最初の銀座が置かれ、徳川家康から三代家光までの将軍宣下も伏見城で行われるなど幕府の政治拠点であった。伏見城廃城後も伏見奉行が置かれ、淀川水運の重要な港町(伏見港)・宿場町(伏見宿)としても栄えるなど、昭和初期までは京都とは独立した別の都市であった。幕末期に、坂本龍馬をはじめとする討幕の志士たちが活躍した地としても知られる。

京都との間は街道や高瀬川で結ばれ、明治には鴨川運河や鉄道も早期に開通し、各地から京都への物資を運んだほか酒造などの産業も盛んであった。1931年に京都市に編入されて以後は、周囲の市街地化が進み、「京都の郊外」という色も濃くなっている。深草・伏見以外にも、城下町として栄えた淀や、醍醐寺が建つ醍醐などの地区が区内に含まれる。西部や南部は淀川水系の低地、中央には東山から続く稲荷山や桃山丘陵、東部の山間部は滋賀県境まで続いている。

そして,油小路通り沿道を中心とする「らくなん進都(高度集積地区)」における先端的な創造都市づくりや京都高速道路,第二京阪道路の全線開通など,伏見区は,京都の新しい活力を創造していく地域として更なる発展が期待されています。

歴史
京都市の11区の中でも最大の人口を擁し、平安時代の貴族の別荘地や天正時代以降の武家屋敷が立地していた桃山丘陵は現在も住宅地としても利用されているが、大部分は桃山御陵の広大な緑地が広がり、酒造に用いられる豊富な伏流水の水源となっている。城下町の伝統を受け継ぐ商業拠点である一方、京都市都心部や大阪方面へのベッドタウンとしての性格を持つ。

なお、伏見城のあった桃山の地名は、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称の元となっているが、江戸時代の『伏見鑑』が発行された頃から固定・広まったとされている。

古代
桃山丘陵の各地で発見されているハイガイの化石から,太古の伏見は大阪湾が浸入していたと考えられています。また,深草谷口町では伏見人形に使われる粘土の採取場から約50~60万年前の東洋ゾウの臼歯,小栗栖では前足の骨が見つかっていることから,アジア大陸と日本が陸続きであったことを物語っています。

深草地域は京都盆地のなかでもいち早く水稲耕作の始まったところでした。稲荷山の西南に位置する深草弥生遺跡からは,大量の出土物に混じって鍬や鋤など多様な木製農具が出土し,アラガシやイチイガシのような堅い材木が使われており,精巧な木器をつくるため,すでに鉄器が使われていたのではないかと考えられています。深草弥生遺跡から西へ約2キロにある鳥羽離宮の発掘現場からは, 弥生時代から飛鳥・奈良時代の大集落跡も発見されています。5世紀にはいると稲荷山西麓には, 仁明陵北方古墳,番神山古墳などの前方後円墳,大岩山南麓には黄金塚1号墳,2号墳が築かれていることから,伏見一帯を支配した首長が存在していたことがわかります。弥生中期に先住したのは紀氏・土師氏・久我氏などの古代豪族でしたが,古墳を築いたのは4~6世紀にかけて渡来した秦一族ではないかといわれています。

平安時代
「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」と、万葉集第9に詠まれた風光明媚な伏見桃山(指月の丘)に 橘 俊綱が延久年間(1069~74)に山荘を営んだ頃から伏見の名が知られるようになり,奈良と平安京との中間点に位置するため,その後の文献にもたびたび登場しています。宇治の平等院を建立した藤原頼通を父に持ち伏見長者と呼ばれた俊綱が造営した豪壮な別荘,それが伏見山荘でした。地下鉄竹田駅の西側一帯には平安後期の院政時代に,白河法皇の壮大な鳥羽離宮が造営され,離宮は鴨川,宇治川,淀川,桂川に通じ,近くに巨椋池が湾入する水郷地でした。

嘉祥3年(850)仁明天皇が深草陵に祀られると,深草は皇室とかかわりの深い地となっていきました。深草北陵は後深草天皇をはじめとする十二柱の天皇を祀っています。嘉祥寺は仁明天皇の菩提寺として建立されたもので,隣接して貞観寺,極楽寺といった大寺院が藤原氏によって建立されるようになりました。江戸時代にこの付近の車塚古墳からは皇朝十二銭のひとつ『長年大宝』が発見されています。貞観寺は藤原良房が孫の惟仁親王(後の清和天皇)の加護のため,また,極楽寺は藤原時平が建立した寺院でした。このように深草と皇室と藤原摂関家との結びつきから深草は禁裏御料所・九条家領となっていきました。

応徳3年(1086)に藤原季綱より鳥羽の地を譲り受けた白河天皇は皇位を堀川天皇に譲ったのち,院政の府として壮大な離宮造営をはじめました。その様子は「さながら都遷りの如し」と表現されています。南殿には証金剛院(九体堂),北殿には勝光明院,東殿にはのちに御陵となる安楽寿院と浄菩提院, 田中殿には金剛心院が隣接し,中央には総鎮守社の城南明神(城南宮)がありました。白河上皇によりはじまった鳥羽離宮造営は,鳥羽天皇にも引き継がれ,壮大な院御所に発展,貴族たちの往還のため,陸路や水路の整備も行われました。

伏見の東部を占める醍醐,日野は平安時代に創建された醍醐寺と法界寺を中心に発展しました。醍醐寺は貞観16年(874)聖宝が上醍醐に創建、10世紀のはじめに醍醐天皇の勅願寺となったことから隆盛を極め,山下にも堂塔伽藍の造営が行われ,下醍醐が形づくられました。五重塔は10世紀半ばの創建当時のもので、京都市内最古の木造建築物です。院政時代に建立された三宝院は、15世紀に活躍した門跡の満済が3代将軍足利義満の猶子となったことから将軍家の信仰を厚くし、以降、三宝院門跡が醍醐寺座主となり寺の中核的存在となりました。

中世
白河上皇のあと鳥羽上皇,後白河上皇と院政が続き政治の実権を握っていました。保元元年(1156)鳥羽上皇が崩御のあと,崇徳上皇と後白河法皇との間で皇位継承争いが起こったのが保元の乱。その後,平清盛は後白河院を鳥羽殿に幽閉し,安徳天皇を皇位につけました。中世という武家が台頭する時代の変わり目に鳥羽殿は拠点のひとつとなりました。公家回復をめざして起こした承久の乱に敗れた後鳥羽院は,城南宮の流鏑馬に乗じて兵を集めましたが敗北,隠岐へ配流となり院政は幕を閉じました。

承久の乱でもっとも被害をうけたのは日野の法界寺でした。日野は平安遷都直後に桓武天皇が遊猟し,多くの貴族たちもこの地を訪れました。また,12世紀の中頃には月の9の日に日野の西辻・今里で市が定期的に開かれており,この地は醍醐とともに奈良から近江への古北陸道に面していたことから,古くから開けたところでした。法界寺は日野に居住し,日野家の祖となった藤原資業が11世紀中頃に阿弥陀堂と薬師堂を創建したことにはじまります。その後,資業の子実綱と実政が観音堂と五大堂を建立しましたが,承久の乱でこれらの堂塔が焼失してしまいました。

荒廃した鳥羽離宮に代わってその壮麗さをたたえられたのが伏見殿(伏見山荘)でした。橘俊綱没後,伏見山荘は白河上皇に献上され,皇室の荘園にくわえられました。後白河上皇はここに壮麗な伏見殿を造営,船津御所,伏見離宮とも称されました。南北朝時代には足利尊氏が擁立した北朝の光厳上皇,光明上皇,に受け継がれ,両上皇の母,藤原寧子は伏見殿に居住し,隣接する場所に大光明寺を建立しました。伏見殿は光厳上皇が後に伏見宮家の始祖となる栄仁親王に譲られたものでした。

南朝北朝が統一されると,芸能文化が盛んに行われるようになり,伏見殿に近い御香宮などでも猿楽・連歌・御茶事などが行われました。伏見宮家の貞成親王が著した『看聞御記』には村人が伏見殿に集まり,華美なつくり物や仮装をして,松拍子といわれる拍子物(踊り)を奉納したことが記されています。しかし,足利8代将軍義政の家督相続争いに端を発した応仁の乱(1467)では稲荷社の本殿などが焼失,醍醐寺も五重塔を残して全滅するなど,伏見の町も兵火にかかりました。天正元年(1573)に将軍足利義昭が織田信長に降伏し,室町幕府の崩壊を迎えました。

安土桃山時代
戦国時代を生き天下統一をとげた豊臣秀吉はその晩年に伏見城を築城しました。伏見は京都・大坂・奈良・近江の中継地にあたり,さらに,木津川・宇治川・桂川・鴨川の流れ込む,水路,陸路ともに交通の要所でした。築城に際して,まず,文禄3年(1594)建築資材を運ぶため伏見港を開き,巨椋池と宇治川を分離させるための大規模な工事をおこないました。そして,太閤堤,槙島堤,と呼ばれる堤防を築き,宇治や奈良などを結ぶ街道としました。また,淀城を破棄,文禄4年(1595)には聚楽第も破棄,天下の中心ともいえる一大拠点となりました。

秀吉が築いた最初の築城は文禄元年(1592)にはじまっています。当初は茶会や宴会を催す隠居城として指月の丘に屋敷をつくりましたが,その後すぐに本格的な城郭へとつくりかえています。延べ25万人を動員し, わずか5ヶ月で完成した城でしたが,慶長元年(1596)の大地震により倒壊,しかし,その10日後,木幡山に築城をはじめました。城内には舟入御殿や茶亭,茶道の学問所が設けられました。慶長3年になっても工事は続けられ,同年8月秀吉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」の辞世を残してこの世を去りました。

文禄3年(1594)より城下町の町割や開発が急速に進められました。武家屋敷,寺社,町家,道路などの区画整理が行われ,現在の町の原型が形づくられました。外堀が城郭の西側に流れ,町の中心部を囲むように掘られ,掘り上げられた土砂でさらに西部の低湿地帯を埋立ました。南北に縦貫する京町通と両替町通が町人居住区の中核を成していました。『豊公伏見城ノ図』には石田三成,浅野長政などの武将の屋敷が記されているように,全国各地から有力大名が集められ,また,大名に呼び寄せられた商工業者も住むようになりました。

向島城は城跡もなく『本丸町』『二ノ丸町』の町名を残すのみとなっていますが築城は槙島堤の造成と平行してすすめられました。慶長の大地震で倒壊した木幡山伏見城の天守閣が完成すると,慶長3年(1598)秀吉はこの城から入城しました。慶長4年に家康は別格扱いで向島に城構えの屋敷を与えられました。一説に家康の屋敷が石田三成の屋敷と近いことから,向島城に入るよう提言したといわれています。家康はこの城に秀吉を招き観月会を催したといわれています。

江戸時代
江戸時代の伏見港は幕府公認の船で,過書船とよばれる船や三十石船,二十石船などが行き交う港町として賑わいました。瀬戸内海の鮮魚が陸揚げされた草津の湊,巨椋池・宇治川を通って淀川や木津川ともつながる六地蔵にも港がありました。慶長16年(1611)御朱印貿易により財を築いた角倉了以が,二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き,さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより,京都と大坂が水路で結ばれました。中継地として水上交通の要となると,大小の船が集中するようになり,伏見港はさらに発展しました。京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ,宿場町として多くの旅人で賑わいました。

五大老筆頭として,徳川家康が伏見城で政務を代行し,関ヶ原の合戦では徳川方の城として西軍に攻められて炎上しました。慶長6年(1601)家康により再建され,慶長12年に家康が駿府へ移ったあとも松平定勝が伏見城代となり,大坂城の豊臣氏と対峙する西の拠点でした。しかし,二度の大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると,城の役割を終え,元和9年(1623)の3代将軍となる家光の将軍宣下を最後に,まもなく廃城となりました。同じ年,伏見城に代えて淀に新城が築かれました。かつての淀城は現在の淀城跡より北の納所にあったといわれ,寛永2年(1625)に完成し,木津川・桂川合流点の東に接する中州に立地していました。寛永14年に城主永井尚政の下で木津川河川の付け替え工事が行われ,木津川は現在のように八幡市男山のすぐ北で桂川と合流するようになりました。

文久2年(1862)大坂の薩摩藩邸より同藩の倒幕派が三十石船で伏見寺田屋に集まり倒幕を成就させるため,決起の準備を整えていました。このとき,伏見の薩摩藩邸にいた公武合体派の実力者であった薩摩藩の島津久光は,決起をやめるよう説得するため,大山格之助,奈良喜八郎ら8人を送りましたが,話し合いは失敗におわり,ここに大乱闘がはじまりました。倒幕派の有馬新七ら6人は即死,田中謙介と森新五郎は伏見の薩摩藩邸で切腹したのが『寺田屋事件』です。寺田屋は土佐藩士坂本龍馬の定宿で,慶応2年(1866)の正月,龍馬は長州藩の三吉慎蔵と酒を酌み交わしているところを,幕府の捕手に囲まれましたが屋根伝いに逃げて難を逃れ,薩摩藩邸にかくまわれました。同年2月に龍馬は薩長同盟を成立させています。

慶応3年(1867)王政復古の大号令のあと,15代将軍徳川慶喜の官職と領地の返上が決まりました。しかし,幕府や会津藩,桑名藩などは納得せず,朝廷との対立姿勢を強めることになりました。慶応4年慶喜は薩摩を討つため上洛を決意,幕府の先導隊が京橋に上陸し伏見奉行所に入ります。この頃,幕府軍本隊が淀川をさかのぼり,その先鋒隊は伏見街道や鳥羽街道を北上しました。開戦の場所は城南宮の西『秋の山(かつての鳥羽離宮築山)』のあたりで,幕府軍と薩摩・長州・土佐・安芸の新政府軍とが押し問答の末に激突,小枝橋やさらに南の中島,富ノ森,淀の町を巻込んで激戦が展開しました。一方,伏見奉行所に入った幕府軍と御香宮に陣を置いていた薩摩藩や長州藩との間でも戦われ,民家が炎上し町の大半が焼かれました。

近代
明治23年(1890)に完成した琵琶湖第一疏水に続いて,明治27年に鴨川運河が完成,人や物資を乗せた船は鴨川夷川から鴨川東岸を南下,伏見堀詰町で伏見城の外堀(濠川)とつながりました。明治28年には墨染インクラインを完成させ,高低差(水位)のある鴨川運河と外堀を結びました。また,淀川と結ぶため三栖閘門を建設しました。疏水は当初,船運の充実,水車動力による工業の振興,上水道の整備を目的にしていましたが, さらに水力発電をくわえ,経済振興策として建設されたものです。

伏見は明治のはじめ頃までは水上交通の要地としての地位を保っていました。しかし,明治10年(1877)に神戸・京都間に東海道線が開通,13年に稲荷,山科を経て大津へ延び,22年に東京まで達すると,水運はにわかに衰退をはじめます。こうしたことから,京都・伏見間の鉄道を建設し,明治28年(1895)に完成しました。同じ年,京都岡崎公園一帯で開かれた第4回内国博覧会への見物客を輸送するため,大阪からの客を伏見に迎え,油掛町から京都七条までチンチン電車で運びました。これが日本でいちばん最初に走った電車といわれています。

明治31年(1898)歩兵38連隊,第19旅団司令部,京都連隊区司令部が深草に進出,明治41年にはこれらを統括する第16師団司令部が現在の聖母女学院におかれました。のどかな田園地帯は兵舎や連兵場に変わっていきました。

京都駅から司令部を結ぶ師団街道は当時では珍しい二車線道路でこれと交差する第一軍道,第2軍道,第3軍道がつくられました。昭和2年(1927)に奈良電鉄が陸軍の指導で,地下鉄化の計画がもちあがりましたが,伏見の地場産業である酒造りに必要な地下水が出なくなると伏見の酒造家が猛反対し,高架にしたと伝えられています。

大正時代に入り,酒造業が大幅な成長を遂げ,町の経済が拡大すると,明治30年頃から芽生えていた伏見市昇格への要望が高まりました。大正7年(1918)には深草村と上鳥羽村の一部が京都市と合併,大正11年には深草村が町制施行,続いて昭和4年(1929)4月,伏見町が市政施行を京都府に申請し,京都府もこれを受け入れ,内務大臣の認可を経て伏見市が誕生しました。しかし,この伏見市誕生には京都市への合併を認めるという条件がついていました。伏見市側は京都市との合併にも有利であるとの認識から,市となる道を選んだのでした。2年後の昭和6年4月伏見市は京都市と合併,深草町,醍醐村なども同時に合併し,京都市最大の行政区である現在の伏見区が産声を上げたのでした。

区の概要
伏見区は全国の政令指定都市の行政区の中で上位10位に入る人口を有する行政区である。 人口が多いことや区域が広いこと、区域内での繋がりが必ずしも深くはないことなどから、昔から分区構想がたびたび出ている。

京都市の南部に位置する。区域は東西に長く、伏見城のあった桃山地区、城下町で酒造業で知られる伏見地区を中心に、北方の深草地区、東方の醍醐地区、西方・南方の郊外地区を含む。区の東部は醍醐山を中心とする山地、西部は宇治川、桂川に沿った平地である。区の南部には宇治市、久世郡久御山町にまたがって旧巨椋池干拓地が広がる。

区境は東の山間部で滋賀県大津市とわずかに接し、北は京都市山科区・東山区・南区、西は向日市・長岡京市・乙訓郡大山崎町、南は宇治市・久世郡久御山町・八幡市に接する。面積61.62平方キロメートル、2009年3月現在の推計人口は約283,000人。区域はかつての紀伊郡、宇治郡を中心に西部には乙訓郡、久世郡、綴喜郡の一部を含む。

区内には伏見稲荷大社、醍醐寺、伏見城跡、明治天皇伏見桃山陵、史跡寺田屋、京都競馬場などがある。

区の成立は昭和6年(1931年)である。同年に京都市は周辺の多くの町村を編入し、市域を拡大したが、うち伏見市、紀伊郡深草町、堀内村、竹田村、下鳥羽村、横大路村、向島村、納所村、宇治郡醍醐村の区域をもって伏見区が成立した。その後、昭和25年(1950年)に乙訓郡久我村及び羽束師村、昭和32年(1957年)に久世郡淀町を編入している。

農業
伏見区の西部・南部に水田が広がる。

工業
伝統的な日本酒の名産地として知られるほか、先進的なエレクトロニクス産業やそれをサポートする資材製造の事業所が見受けられる。

油小路通(通称は「新油小路通」「新堀川通」)沿いはらくなん進都の地域名で京都市が産業集積を推進している。沿道には京都パルスプラザ(京都府総合見本市会館)があり、様々な業種による見本市や発表会が頻繁に開催されており、京都の産業を対外的にPRする拠点として重視されている。

先端技術分野の世界的企業である京セラおよび村田機械の本社が所在している。

商業
小規模の店舗は旧来からの街区に多い。一方、国道1号や油小路通沿線には郊外型の大規模小売店および飲食店や娯楽場が多く立地している。

名所旧跡
区内には、神社仏閣、酒蔵や名所史跡などの資源やかつての城下町、門前町、港町としての風情を残した町並み、祭りや伝統行事などが受け継がれています。 その主なものとして、世界文化遺産にも登録されている醍醐寺、商売繁盛・五穀豊穣の神で知られる伏見稲荷大社、国宝の阿弥陀堂・阿弥陀如来坐像のある法界寺、環境省の名水百選に選ばれた清らかな水が湧き出る御香宮、6月には紫陽花が咲き誇る藤森神社、方除の神として知られる城南宮、伊藤若冲の五百羅漢で知られる石峰寺、南浜界わいの酒蔵の町並み、淀城址などがあります。

伏見城
伏見城は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。 伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。 伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。

指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。

焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

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伏見港
伏見港は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。 桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に豊後橋を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。

江戸時代には角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。 明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。

蒸気船による水運は京都市と大阪市などを結ぶ鉄道が開通したあとも運賃が低廉だったことなどから一定の需要があったが、大峯ダムの建設や京阪本線の開通による淀川(宇治川)での水運の衰退とともに港も衰退した。第二次世界大戦後はほとんど使用されず放置されていたが1967年、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定され事業化されたことにより港湾機能を喪失した(但し、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている)。現在は、公園内に港湾施設の復元模型があるほか、濠川から三栖閘門の周辺は遊歩道が整備され観光用の十石舟が運航している。※観光船については、伏見十石舟を参照。 周辺には京橋・表町・柿ノ木浜・金井戸・北浜・西浜・南浜・東浜・弁天浜・材木町といった、港町に因んだ地名が残っている。

伏見稲荷大社
伏見稲荷大社は、京都府京都市伏見区深草にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。 旧称は「稲荷神社」。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。

稲荷神社・稲荷社は稲荷神を祀る神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮となっている。神社のうちで稲荷神社は、2970社(主祭神として)、32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。

伏見桃山陵
伏見桃山陵は、京都府京都市伏見区の桃山陵墓地にある明治天皇の陵。桃山御陵(ももやまごりょう)。 1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御した。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬された。 陵の敷地の桃山は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものという。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵が隣接する。また、桓武天皇の柏原陵にもほど近い。周囲一帯は宮内庁の管理地「桃山陵墓地」となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がある。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を入れた上で石蓋を被せてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという。 幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻した。 歴代天皇の陵は本陵に至るまで、すべて近畿以西に作られているが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られている。

御香宮神社
御香宮神社は京都市伏見区にある神社。式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。 神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。 また社務所内に小堀遠州が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。 本殿には、菊の御紋や五七の桐紋、葵の御紋が見られる。

初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。ボトルを持参して取水する地元民も多い。。菟芸泥赴によれば筑紫国香椎宮から勧請したという記録がある。 全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とし(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)、社領三百石を寄進した。 慶長10年(1605年)には徳川家康によって元の位置に戻され、京都所司代板倉勝重を普請奉行として本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものである。

1868年(明治元年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは官軍(薩摩藩)の本営となり、竹田街道を挟んで南側にあった幕府軍(会津藩・新選組)の本営・伏見奉行所を砲撃して陥落させている。当社の建物は無事であった。 昭和に入ってからはすぐ東を通る国道24号線の拡幅に伴い、境内の一部を道路用地として提供し、その際に元伏見奉行所の跡で、米軍のキャンプ地の跡である桃陵団地建設の際に発見された小堀遠州ゆかりの庭園が、造園家・中根金作の手によって、社務所の裏側に再現された。

城南宮
城南宮は、京都市伏見区にある神社。旧社格は府社。「方除の大社」として知られている。摂社の真幡寸神社は式内社であった。 創立年代は不詳である。平安遷都の際に国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀って創建された。城(平安京)の南にあることから「城南神」と称した。

白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となり、離宮の鎮守社として代々の天皇や上皇の行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。室町時代の頃からか、この地にあった真幡寸神社を取り込んでしまったようである。 応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興された。幕末の文久3年(1863年)には孝明天皇の攘夷祈願の行幸があった。新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場となったものこの地である。

1876年(明治10年)には式内社「真幡寸神社」に比定され、社名を「真幡寸神社」に改称した。しかし1968年(昭和43年)に「城南宮」に復し、「真幡寸神社」はその境内摂社として境内に新たに社殿を設けて奉祀されることになった。 1977年(昭和52年)に本殿が焼失するが、翌1978年(昭和53年)に再建された。 近年では転居、旅行の厄除けから転じて交通安全の神としても広く信仰されており、毎年7月には自動車の茅の輪くぐりが行われる。

羽束師坐高御産日神社
羽束師坐高御産日神社は、京都府京都市伏見区にある神社。式内社(大社)で、旧社格は郷社。一般的には「羽束師神社」と称される。 文政10年(1827年)当時の祠官であった古川為猛が記した『羽束師社旧記』によると創建は雄略天皇21年とされており、欽明天皇28年(567年)に桂川の増水によって周辺の集落が洪水に際した際にも神社は無事であったため、天皇より封戸を賜ったとされている。また、天智天皇4年(665年)には中臣鎌足が勅を受けて再建したとされている。

神社のある当地は、低湿地ながら桂川や旧小畑川など河川の合流地にあることから古くより農耕や水上交通によって栄えた場所であり、賀茂氏や秦氏のほかに品部の泊橿部(はつかしべ)が居住していたとされている。泊橿部は、日本書紀の垂仁天皇39年に「泊橿部等并せて十箇の品部もて五十瓊敷皇子に賜う」という記録が残っており、『令集解』職員令には「泊橿部とは古の波都加此伴造を云う」と記されている。

神社の文献上での初見は、続日本紀における文武天皇の時代である大宝元年(701年)4月3日条に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志神などの神稲については、今後は、中臣氏に給付せよ」という記述がある。また、大同3年(808年)に斎部広成が諸国騒擾の多さを憂いて国家の安穏を祈願するために、平城天皇の奏聞を得て天照皇大神を始め十一神を新たに勧請したとされている。日本三代実録には貞観元年(859年)9月8日条に「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」という記述があり、延喜式神名帳では山城国第一の社として大社に列している。

醍醐寺
醍醐寺は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂は、西国三十三所観音霊場第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。

平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。

長建寺
長建寺は、京都市伏見区東柳町にある、真言宗醍醐派の寺院である。 豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)廃城後、伏見の町は衰退し、13代目伏見奉行 建部政宇は元禄12年(1699年)、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築した。建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こり。 かつての中書島遊郭の一角にある。

妙教寺
妙教寺は京都府京都市伏見区にある法華宗真門流の寺である。 大圓山妙教寺は、宝泉院日孝を開山とし、大阪の富豪であった法華又左衛門貞清が開創。寛永年間に、当時の淀城主松平定綱が寺地を寄進し、寺域を整備した。鳥羽・伏見の戦いで被災し、境内に戦死した幕兵の碑がある。

與杼神社
與杼神社は、京都府京都市伏見区淀にある神社。式内社で、旧社格は郷社。 社伝等によると応和年間(961年-964年)頃に愛宕念仏寺などを再興した千観内供が肥前国(現在の佐賀県)佐賀郡河上村の與止日女神社より淀大明神を勧請して建立したとされる。しかしながら、日本三代実録には貞観元年(859年)に従五位下の神位を賜ったという記述があり、延歴5年(927年)に成立した延喜式神名帳では山城国乙訓郡の小社として列していることから応和年間以前には存在したと考えられる。

大黒寺
大黒寺は、京都府京都市伏見区鷹匠町にある、真言宗東寺派の寺院である。通称は薩摩寺(さつまでら)。 開創は空海とも真如とも伝えられる真言宗の寺で、もとは「長福寺」と称した。 元和元年(1615年)、薩摩藩主島津義弘が、薩摩藩邸からも近いこの寺を藩の祈祷所とすべく、伏見奉行山口駿河守に懇願したことで、寺名は薩摩の守り本尊「出世大黒天」にちなみ「大黒寺」とされ、本尊は大黒天となった。ただ、当時より一般には「薩摩寺」の通り名で呼ばれていたという。爾来、薩摩藩ゆかりの寺となる。

幕末期には志士達の密儀がたびたび寺内で行われていたという。寺田屋事件の九烈士もこの地に葬られており、遺品や書・歌などが今でも寺内に保管されているほか、西郷隆盛、大久保利通らの会談の部屋もそのまま残されている。また近代になり平田靱負の墓所が移設されている。1752年から1755年に薩摩藩が担当した木曽川・長良川・揖斐川の治水工事では工事途中で流されたこと影響などもあり300万両もの巨額な費用がかかった。その責任をとって薩摩藩家老の平田靱負は自刃した。 屋根瓦には藩主島津家の家紋である丸に十字があしらわれている。

文化伝統

京セラ美術館
京セラギャラリーは、1998年、京セラ株式会社が設立した美術館である。パブロ・ピカソの「銅版画347シリーズ」、日本画、洋画、彫刻のほか、ガラス工芸品、ファインセラミック「玉磁」を収蔵し、無料公開されている。京セラ本社ビル内にあり、企業博物館の京セラファインセラミック館やショールームが併設されている。2019年4月1日に、京セラ美術館から施設名称を変更した。

京都競馬場
京都競馬場は、京都府京都市伏見区にある競馬場。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。最寄り駅から淀競馬場、あるいは単に淀と通称される。1925年(大正14年)12月1日に現在の地に開設され、大規模な改修工事のために2023年まで競馬開催は行われていない。

月桂冠大倉記念館
月桂冠大倉記念館は、京都府京都市伏見区にある、酒造会社月桂冠の企業博物館。京都市伏見区南浜町247番地。 濠川畔の月桂冠発祥地に建つ酒蔵(1909年(明治42年)築)を改装し、創業350年にあたる1987年(昭和62年)に開設された、伏見の酒造りと月桂冠をテーマとする博物館である。館内のルートは酒造り工程順になっており、館所蔵である京都市有形民俗文化財の酒造用具類6,120点のうち400点、焼印・朱印・銅板・金型などの出荷用具、樽造り用具まで常設展示する。

月桂冠大倉記念館(1909年(明治42年)築)と館所蔵の「伏見の酒造用具」は、「内蔵酒造場(1906年(明治39年)築)」、「月桂冠旧本社(1919年(大正8年)築)」、「月桂冠昭和蔵(1927年(昭和2年)築)」、「旧・大倉酒造研究所(1909年(明治42年)築)」、および松本酒造酒蔵、十石舟とともに「伏見の日本酒醸造関連遺産」として近代化産業遺産の認定を受けている。

松本酒造
松本酒造は京都府京都市伏見区にある酒造会社。1922年(大正11年)築の本社酒造場は近代化産業遺産の認定を受けている。 1791年(寛政3年)、松本治兵衛により現在の京都市東山区において商号「澤屋」で酒造りをはじめたことが創業とされている。 1949年(昭和24年)に株式会社に改組し、1922年(大正11年)、7代当主松本治平の時代に、新高瀬川西岸の現在地に酒造場を増設した。 蔵開きは入場料制。

酒造場とその前景の菜の花畑は「燃えよ剣」や「必殺仕事人」をはじめとする時代劇の撮影地となっている場所で、広く知られている。大正11年に建てられた酒蔵と煉瓦建造物の倉庫と煙突は月桂冠大倉記念館や十石舟等とともに「伏見の日本酒醸造関連遺産」として2007年(平成19年)に経済産業省の近代化産業遺産に認定された。 更に昭和29年頃建てられた万暁院と、創建は江戸時代にまで遡る正門が、2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録された。 清酒の仕込み期間(4月中旬頃まで)21時までライトアップしている。

黄桜記念館
キザクラカッパカントリーは京都府京都市伏見区にある黄桜のテーマパーク。清酒工房や地ビールレストランのほか企業博物館の黄桜記念館が設けられている。黄桜株式会社が運営する。 京都府京都市伏見区塩屋町228番地に所在。現在は東山酒造が醸造している。

ギャラリーでは黄桜のCMや広告で使用された清水崑と小島功筆の原画を展示、隣のライブラリーコーナーでは昭和30年代からの黄桜のCMを観る事ができる。「河童資料館」では河童の歴史と各地の伝承を紹介する。清酒工房に通じる展示室では、江戸時代の酒造道具を工程順に展示する。

自然空間

稲荷山
神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m。3つの峰(が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。

参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。

また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。

応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。お塚は、その周りを取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。

大岩山
大岩山は、京都府京都市伏見区と山科区南西部にまたがる山。 京都・東山連峰の南端に位置する山で、京都市伏見区の深草と山科盆地を区切っている。本体は、中生代の海底に堆積した「丹波層群」と呼ばれる、砂岩、頁岩、チャートなどから出来ている。山裾は丘陵を成し、100万年~30万年前の大阪層群と言う、砂、礫、粘土などの固結していない地層から出来ていて、ここは基本的に竹林でおおわれている。

山頂近くにある大岩神社は、戦前は北隣の稲荷山と合わせて、強い信仰の対象となっていたが、戦後次第に衰退し、現在は神社も無住となっている。 山頂には通信施設(NTT・テレビ電波中継施設・ラジオ送信施設)の電波塔がある。山頂一帯は、以前はゴルフ場だったが、現在、ゴルフ場は廃止され、跡地には全面にソーラーパネルが敷き詰められている。 三角点は設置されていない。

桃山丘陵
桃山丘陵は、京都市伏見区の中央、宇治川の北側に位置する標高約100mの丘陵。 丘陵とその周辺は桃山と呼ばれ、かつての伏見城と多くの大名屋敷が集まり一大政治都市として発展した地区であり、域内の町名にその名残をとどめている。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に豊臣秀吉が生涯を閉じたのも、慶長8年(1603年)、徳川家康が将軍宣下を受けたのも、この桃山にあった伏見城においてである。

桃山丘陵は東山から深草丘陵を経た連なりの最南端に位置し、京都市伏見区桃山地区の北半分を占める。伏見城築城前には「木幡山」と呼ばれており、山頂には桓武天皇の陵があったともいわれる。廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになり、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その時代に花開いた「桃山文化」などの呼称の元となった。

伏見十石舟
伏見十石舟は、特定非営利活動法人(NPO法人)の伏見観光協会が運航する遊覧船である。 京都府京都市伏見区の濠川(宇治川派流)に架かる弁天橋(月桂冠大倉記念館裏)のたもとから発着する。「十石舟」のほか、比較的船体が大きい「三十石船」も随時運航されている

「十石舟」「三十石船」は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大坂と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川の間を航行する輸送船としてはじまり、明治時代末期まで存続した。

1998年、京都市および月桂冠など55法人の出資によるタウンマネージメント機関「株式会社伏見夢工房」が、かつての港町伏見を偲ぶ屋形船仕様の遊覧船として運航を開始したことで、再び濠川に航路が開設された。同法人が2012年6月をもって解散したことから、運営が伏見観光協会に移管されている。

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Tags: Japan