伏見エリア、日本京都観光ルート

伏見エリア、上質な地下水が豊富な酒処、水の歴史と共に、伏見城や幕末の歴史を感じながら歩く。伏見はかつて「伏水」とも書かれていたほど名水のまちとして名高く、酒処としても知られています。まちを歩いていると、いくつもの酒蔵が見られ、豊臣秀吉が築いた伏見城の外堀にあたる濠川越しに酒蔵群を眺めることもできます。伏見城にまつわるものはまだあり、全長400メートルの伏見大手筋商店街は伏見城の表門・大手門に続いていた道につくられています。そのほか、坂本龍馬が逗留したという寺田屋、鳥羽伏見の戦いの碑なども見ることができ、酒処としての姿だけではなく秀吉の時代や幕末の歴史を感じることができます。

伏見区は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。 古くは深草にて京都盆地の中でもいち早く水稲耕作が始まり、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社が渡来系豪族の秦氏によって創建され、安土桃山時代に豊臣秀吉がここで生涯を閉じるまでの間には、一大政治都市として桃山に伏見城と大名屋敷群が、西に広がる淀川沿いの低地にかけて大手筋を軸とした城下町・伏見が形成される。徳川幕府初期には伏見城下に最初の銀座が置かれ、徳川家康から三代家光までの将軍宣下も伏見城で行われるなど幕府の政治拠点であった。伏見城廃城後も伏見奉行が置かれ、淀川水運の重要な港町(伏見港)・宿場町(伏見宿)としても栄えるなど、昭和初期までは京都とは独立した別の都市であった。幕末期に、坂本龍馬をはじめとする討幕の志士たちが活躍した地としても知られる。

京都との間は街道や高瀬川で結ばれ、明治には鴨川運河や鉄道も早期に開通し、各地から京都への物資を運んだほか酒造などの産業も盛んであった。1931年に京都市に編入されて以後は、周囲の市街地化が進み、「京都の郊外」という色も濃くなっている。深草・伏見以外にも、城下町として栄えた淀や、醍醐寺が建つ醍醐などの地区が区内に含まれる。西部や南部は淀川水系の低地、中央には東山から続く稲荷山や桃山丘陵、東部の山間部は滋賀県境まで続いている。

京都市の11区の中でも最大の人口を擁し、平安時代の貴族の別荘地や天正時代以降の武家屋敷が立地していた桃山丘陵は現在も住宅地としても利用されているが、大部分は桃山御陵の広大な緑地が広がり、酒造に用いられる豊富な伏流水の水源となっている。城下町の伝統を受け継ぐ商業拠点である一方、京都市都心部や大阪方面へのベッドタウンとしての性格を持つ。なお、伏見城のあった桃山の地名は、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称の元となっているが、江戸時代の『伏見鑑』が発行された頃から固定・広まったとされている。

区内には,桂川,宇治川など主要な河川が流れ,古くから伏見港などを中心に水運の拠点として栄え,発展してきました。かつて「伏水」と表されたように、良質な地下水が豊富なところとして知られ,この地下水を活かして酒造業が発達し,全国有数の生産量を誇る伏見の代表的産業となっています。

また,農業も耕地面積市内第1位を誇り,米,野菜,花き等が生産され,市民への新鮮な農産物提供に大きな役割を担っています。 区内には、神社仏閣、酒蔵や名所史跡などの資源やかつての城下町、門前町、港町としての風情を残した町並み、祭りや伝統行事などが受け継がれています。

その主なものとして、世界文化遺産にも登録されている醍醐寺、商売繁盛・五穀豊穣の神で知られる伏見稲荷大社、国宝の阿弥陀堂・阿弥陀如来坐像のある法界寺、環境省の名水百選に選ばれた清らかな水が湧き出る御香宮、6月には紫陽花が咲き誇る藤森神社、方除の神として知られる城南宮、伊藤若冲の五百羅漢で知られる石峰寺、南浜界わいの酒蔵の町並み、淀城址などがあります。

観光スポット

京都市環境保全活動センター
子どもから大人まで、楽しく学ぶことが出来る環境学習施設です。環境に配慮した3階建ての建物の中には、地球温暖化からごみ問題までさまざまな展示があり、ボランティアによる案内も行っています。屋上にある田畑やビオトープでは、生き物を見ることができます。また、工作やクッキング、映画会など楽しく学べる環境イベントを随時開催しています。地球温暖化防止京都会議(COP3)が開催された京都の地で、環境と身近なくらしについて一緒に考えてみませんか。

京都競馬場
京都市の南端に位置し、「淀の坂」と呼ばれる第3コーナーの坂が特徴的な競馬場。収容人員は12万人で主なレースとして春の天皇賞や秋の秋華賞、菊花賞、エリザベス女王杯、マイルチャンピオンシップなどがある。ファミリーで楽しめるみどりの広場には、西日本最大級の「ふわふわドーム」をはじめ、大型施設も多数設置。また、ポニー試乗会など馬と触れ合う馬事イベントも行っている。

十石舟
定員20名の屋形船仕様の遊覧船で、船内では伏見の歴史や見どころについて、アナウンスを流すだけでなく、ベテランの船頭がガイド。約45分で伏見の歴史をたっぷりと楽しめる。四季折々の風景を楽しめるのも特徴で、春は桜、初夏はアジサイ、秋は紅葉と、川岸の植物で移りゆく季節を感じられる。途中、三栖閘門資料館の見学もあり。

京都市青少年科学センター
楽しみながら「科学する心」を育む施設。展示品や標本の多くは、入館者が体験を通じて学ぶことができるようセンター所員が開発している。プラネタリウムでは季節の星座や最新の天文情報を盛り込んだ番組を自主制作し、生解説をおこなっている。沖縄のチョウが見られる「チョウの家」もある。土・日祝日、夏休み等には「楽しい実験室」や「サイエンスタイム」なども開催。

京都市呉竹文化センター
南部地域における文化活動の拠点として、音楽、演劇、舞踊等の公演その他の文化的な催物及び講習、研修、会議等に利用できる施設で、呉竹文化センターは、京都市で2番目の地域文化会館として平成2年8月に開館。

名所・旧跡

伏見稲荷大社
伏見稲荷大社は、京都府京都市伏見区深草にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本家。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する。

平安時代、東寺(教王護国寺)の造営にあたって鎮守社となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与したという。

明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。

稲荷お山めぐりは、伏見稲荷大社の本殿背後、稲荷山は稲荷大神の降臨地で、その峰々を巡拝するのがお山めぐり。お山には多くの祠(ほこら)やお塚がある。お山参道には朱塗りの鳥居がトンネルのように建ち並ぶ。お山一周4キロ、約2時間。  

御香宮
御香宮神社は京都市伏見区にある神社。式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。また社務所内に小堀遠州が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。

御香宮神社石庭は、江戸時代初期小堀遠州公が旧伏見奉行所内に作った庭園を戦後神社に移築した。形式は鶴亀式の枯山水で枯滝の三尊を連続させた石組、書院手前の大きな手水鉢が印象的。御香水は、豊臣秀吉らにゆかりの御香宮神社境内の井水。平安時代に香りのよい良水が湧いたといい、伏見七名水の代表。明治期に水枯れを起こしたが井戸を掘下げ復元した。伏見の酒の仕込み水と同じ水脈でもあり、水汲みの人で毎日にぎわう。環境省名水百選に指定。

蘇鉄は、御香宮神社本殿前にあるソテツ科のソテツ。本殿南庭に東西に参道をはさんで低い盛土の上に植栽され、まわりは石柱のかこいが施されている。ソテツは亜熱帯に分布する裸子植物で、冬は覆いを施すのが普通であるが、ここのソテツは覆いなしで越冬、開花、結実している。市登録天然記念物。椿は、御香宮神社参道左手横の参集館の傍らにある椿。初代の伏見奉行であった小堀遠州が「おそらくこれに勝る椿は他にない」と激賞し、それを以って命名された「おそらく椿」の名で咲き続ける椿がある。高さが3m余で、紅白まじりの散椿の一品で、花は晩咲き(3月下旬~4月下旬頃)である。当分の間接近しての特別公開はなし。参道より見られる。

大橋家庭園
京都最古の水琴窟が100年をこえて優雅な音色を響かせる大橋家庭園は伏見稲荷大社の北にあり、瀬戸内の鮮魚を一手に扱う元請を家業としていた大橋仁兵衛が明治末から大正2年にかけて造園した別荘の庭で、親しくしていた七代目・小川治兵衛(植治)の監修を得て趣味で集めた11基の石灯籠をはじめ数多くの庭石を配し座敷の造りと調和させその眺めを楽しむ露地風の庭です。水琴窟とは江戸時代に考案された排水装置を兼ねた音響装置で底に穴をあけた甕を逆さに土中に埋め手洗い時に穴から流れ込んだ水が下に溜まった水面に落ちる時、甕に反響する深く澄んだ音を楽しむというものです。『苔涼庭』の名称は大橋仁兵衛が親交のあった各地網元の『大漁』を祈念して名付けたと伝えられています。

JR稲荷駅ランプ小屋
1879年(明治12)の旧東海道線開通当時、汽車が照明用に使ったランプと灯油の小屋。旧国鉄最古の建物で、準鉄道記念物。約8平方メートルあり、当時の時刻表、運賃表、汽車の尾灯などを展示。

伏見銀座跡
伏見区銀座町1・2・3・4丁目。徳川家康が関ケ原合戦に勝利し翌年の1601年(慶長6)5月、伏見に設けた銀貨鋳造発行所。当時伏見は日本最大の城下町であり、中央政治都市。現在、両替町5丁目から8丁目にあたるところが銀座町である。銀座1丁目には銀座跡を示す石碑と案内板がある。京阪電車伏見桃山すぐ。

鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。史跡公園。市バス城南宮道すぐ。

城南宮 神苑 楽水苑
平安時代後期の様式に基いて建築された優美な社殿を取り巻いて広がる庭園「楽水苑」は、離宮時代の築山の遺構とされる春の山、そして平安、室町、桃山の庭、更には城南離宮のたたずまいを表現した城南離宮の庭から構成され、各時代の日本庭園の粋があつめられている。様々な庭園様式を知ると共に、雅やかな情趣に触れることができる。また、苑内では「源氏物語」に登場する100種類もの草木の花を観賞でき、四季折々の風情を楽しむことができる。春と秋に行われる「曲水の宴」は平安の庭が舞台となる。

光明院庭園
光明院の庭の直線や斜線の配石が創意された三か所の三尊石組は、鉤形の配置の本堂と書院の双方から鑑賞できる位置にある。重森三玲の設計。方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺方丈庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の州浜型の枯池に多数の石組を配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三か所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。

伏見桃山城
伏見城は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。

伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。

現在の城跡は江戸時代初期に破却され、その後明治時代に宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いが、推定復元は試みられている。

桃山御陵
伏見区桃山町古城山にあり、1912年(明治45)7月30日崩御の明治天皇を葬る。1912年(大正1)9月11日陵墓工事完了。陵墓位置は旧伏見城本丸跡で墳丘は天守閣南にあたり上円下方墳。御陵は東西127メートル、南北155メートルと拡大。東側の名護屋丸跡に昭憲皇太后の桃山東陵がある。近鉄電車桃山御陵前1.5キロ、京阪電車桃山南口500メートル。

寺田屋
寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

伏見奉行所跡
江戸幕府の遠国奉行の一つ。伏見の民政・御所の警護・西国大名を監視。1666年(寛文6)水野忠貞が初代奉行。鳥羽伏見の戦の際、新撰組がここで薩長軍と激戦をかわす。明治期から終戦まで陸軍工兵16大隊敷地、戦後は駐留軍駐屯地を経て、桃陵団地となる。団地内に碑。近鉄電車桃山御陵前200メートル。

伏見義民事蹟
天明5年(1785)時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文珠九助ら7人を伏見義民という。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。毎年5月18日には伏見義民碑保存会によって慰霊祭が行われる。

見義民の碑は、伏見区御香宮神社内。1785年(天明5)伏見奉行小堀政方の暴政に対し、身をかえりみず江戸幕府寺社奉行に直訴した伏見の町人文殊九助、丸屋九兵衛ら7人は、4年にも及ぶ厳しい詮議のすえ漸く訴えが認められ、政方は失脚。伏見の人々の苦難は救われたが、7人は詮議中既に没し、神社の境内に墓と1887年(明治20)建立の顕彰碑(三条実美の篆額、勝海舟の撰文)が立つ。

ぬりこべ地蔵
伏見区深草大門町の路傍に建っている約1メートルの石仏。京都では歯痛にご利益があるとして有名。歯痛平癒を祈るハガキが全国から寄せられ、小さな堂内に山積み。お礼に塗り箸を奉納。虫歯予防デー(6月4日)にちなんで地元深草稲荷保勝会が中心になって供養を営んでいる。京阪電車伏見稲荷300メートル。(641-0556深草稲荷保勝会・村上氏)

淀城跡
戦国期の城は現城跡より北の納所に築城。のち豊臣秀吉が淀君の産所として修築したが伏見城の築城で廃城。その後、1623年(元和9)松平定綱が現位置に築く。明治維新後破却。本丸石垣・内濠の一部が残り往時の名残をとどめている。京阪電車淀すぐ。

三栖閘門と伏見みなと広場
桜などの緑いっぱいの「伏見みなと広場」、伏見の町並みを見渡せる「宇治川展望スポット」、三栖閘門の歴史を解説する多くの資料が展示された「三栖閘門資料館」などがあり、通称「伏見のパナマ運河」はダイナミックに皆様をお迎えします。

鳥羽伏見戦跡
鳥羽伏見一帯(現伏見区)で1868年(慶応4)幕府軍と政府軍(薩長軍)とが戦った地。大政奉還後の朝廷の処置を不満とする幕府軍がこの年の1月3日夕刻、政府軍と、鴨川に架かる小枝橋で戦端をひらいた。3日間の激戦で多くの戦死傷者を出したが結局、幕府軍の敗走で終結した。伏見区中島秋山町の小枝橋東にその碑がある。市バス城南宮道すぐ。

唐人雁木の碑
伏見区納所は淀川と京を結ぶ交通の要所で、舟着場があったところ。唐人とは大陸からの使節、朝鮮通信使のことで、1607年(慶長12)から1811年(文化8)までに12回来日し上陸した記録がある。雁木は木製階段が雁の列に似ていること。納所南端の宮前橋の手前に石碑がある。市バス納所町すぐ。

美術館・博物館

京セラファインセラミック館
京セラ株式会社が1998年にオープンした、京セラの主力商品「ファインセラミックス」について学ぶことができる施設。ファインセラミック技術の発展過程が展示されているほか、小惑星探査機「はやぶさ」や、約11,000mの深海で使われている部品など、驚きの利用方法も紹介。また、金属やステンレスなど、物質の重さや硬さなどを比較して、その特性や用途などを学ぶコーナーもある。京セラの最新技術を、見て、触れて、体感しよう。

月桂冠大倉記念館  
伏見の酒造りの技や日本酒の歴史をわかりやすく紹介する博物館。京都市有形民俗文化財に指定されている、いにしえの酒造用具が行程順に展示され、月桂冠創業からの歴史を物語る史料の数々と合わせて見学できる。館内には、職人が唄い継いできた酒造り唄が流れ、かつての酒蔵の雰囲気を再現。この地に根付いた酒文化が感じられる場となっている。見学後は、ロビーで吟醸酒やプラムワインの試飲も可能。なお、中庭を挟んで隣接する内蔵酒造場内の「月桂冠酒香房」では、現在も但馬流の杜氏が昔ながらの手法で酒を醸している。

黄桜記念館
お酒と河童のことなら何でもわかる記念館。酒造りについて、ビデオ・パネル・ジオラマ展示で紹介しています。また、黄桜のキャラクターであるカッパの資料・写真等の展示と昭和30年代からの黄桜のCMをご覧になれます。

キザクラ・カッパカントリー
懐かしのテレビCM、お酒と河童のことなら何でもわかる黄桜記念館。京都地ビールの魁となった「黄桜麦酒」、ここでしか購入できない限定清酒の他、魅力の商品を多数取り揃え、お酒の美味しさ・楽しさを発信している黄桜商店。四季折々の旬菜旬彩を伏水で仕込んだ黄桜麦酒や名酒で心より満喫できる、黄桜酒場「カッパ天国」

藤森神社宝物殿
平成元年開館した宝物館には奉納された古武具が収納され、その内約100点を展示している。展示室には各種の火縄銃、馬上銃、大筒や銃身が9本もある特殊な銃など、鎧は重要文化財の紫絲威大鎧など、刀剣類には三条小鍛冶宗近作などの刀が整然と展示。馬の博物館を併設(平成8年11月より)。日本はもとより世界の馬のミニチュア郷土頑具を展示。

京都橘中学校・高等学校資料室
京都橘学園創立85周年を記念して昭和60年(1985)に開館。展示物は、学園関係のものと、移転時の発掘調査で出土した遺物とに分類されている。学園関係の展示物は、明治35年(1902)の創立以来のその時々の貴重な写真を中心に、明治時代の学籍簿や戦前・戦後の教科書、また同校の制服の変遷の様子が展示。遺物関係では、古墳時代の埴輪、奈良時代の須恵器とともに、桃山時代の伏見城跡の「鬼瓦」「金箔軒丸瓦」「天目茶碗」等の往時を偲ばせる豪華な遺物35点と、当時の伏見城、および伏見城下の地図も合わせて展示。

伏見城跡出土遺物展示室
伏見城跡出土遺物展示室は御香宮神社の社務所の一画に設けられ、下水道工事や伏見城の発掘調査で出土した瓦の一部を公開している。展示されているのは、大名屋敷の家紋入りの軒丸瓦や伏見城の鯱の断片、使用目的は明らかでないが精巧な亀甲飾りの瓦など100点余り。中でも家紋入りの金箔瓦は出土例が少なく、収集家の垂涎の的。

乃木神社宝物館
大正5年(1916)乃木神社の創建と同時に建てられた土蔵様式の宝物館には、乃木大将直筆の書を始め、大将や静子夫人が日常的に使用した品々や同時代の雑誌、写真など百数十点が展示されている。

行事・祭典

例祭(お涼み)<城南宮>
観光船十石舟の運行
春季大祭<吉祥院天満宮>
御香宮献茶祭
八朔祭法楽会・久世六斎念仏
七草粥接待
曲水の宴
御火焚祭
大山祭
水口播種祭
藤森祭・駈馬神事
御弓始神事
方除大祭
釿始式
本宮祭
若冲忌
火焚祭<伏見稲荷大社>
稲荷祭
弁天祭
城南宮七草粥の日
愛車の茅の輪くぐり
御塚大祭
京都アンティークフェア
お火焚祭<城南宮>
茅の輪くぐり・人形ながし
御本尊御開帳法要
茅の輪神事
夏季大祭<吉祥院天満宮>
例祭奉納行事
例祭<御香宮神社>
筆供養
伏見義民祭
初午大祭
吉祥院六斎念仏
湯立神楽
城南祭
抜穂祭
田植祭
龍馬祭
藤森神社 紫陽花苑
秋季大祭並火焚祭