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初期の日本の鉄道の歴史

1825年、蒸気機関を利用する鉄道が初めてイギリスで実用化された。この技術は約30年後、幕末(1853年)の日本に蒸気車の模型として到来した。

イギリスでの鉄道発祥
世界で最初の蒸気鉄道は、イギリスの炭鉱で産出した石炭を運搬する目的でストックトンとダーリントン間約40 kmに設営されたストックトン・アンド・ダーリントン鉄道である。機関車としてジョージ・スチーブンソンが設計したロコモーション号が使用された。この鉄道は石炭輸送を主目的としており、旅客の依頼があれば鉄道上を馬に牽引された車両で利用することができた。ちなみにここで採用された軌間4フィート8インチが、国際標準軌間の4フィート8インチ1/2 (1,435 mm) の基本になったとされる。本格的な客貨両用鉄道は1830年にイギリスで開通したリバプール・アンド・マンチェスター鉄道で蒸気機関車ロケット号を使用した。その後鉄道は先進各国で産業発展の担い手として発達して行った。

模型鉄道との出会い
日本で初めて走った鉄道は、艦船に積んで運ばれてきた模型であった。幕末の嘉永6年7月(1853年7月)、ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる4隻の軍艦が長崎に入港して江戸幕府と開国の交渉を行った。約半年におよぶ滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待して、蒸気車の模型の運転を展示した。招待されたのは幕府の川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、同じく飯島奇輔らで、彼らは藩に戻って藩主に報告した。

長崎に続いて、1854年、横浜で蒸気車の模型が走った。これはペリーが2回目の日本訪問に際して大統領から将軍への献上品として持参したものである。模型といえど機関車には機関士が乗って運転し、客車は6歳の子供なら客車の中に入れるかどうか、という大きなものであった。これを見て幕臣河田八之助が、客車の屋根にまたがれば乗れるのではないかと交渉の上、乗車したというのが、日本の地で客車に「乗った」初の日本人である。またこの模型を江川太郎左衛門も見物し、自らの手で運転したいと申し出て、運転を成功させている。

長崎での展示から2年後の安政2年2月(1855年2月)2月、佐賀藩の、からくり儀右衛門の名で知られる田中久重が、蒸気機関車の模型を完成させた。

最初の実験線
元治2年(1865年)、現在の長崎電気軌道 市民病院前電停付近に相当する600 mの区間で、トーマス・グラバーが日本人に鉄道を紹介するためにレールを敷設して長崎の人達を乗せて走った。編成は蒸気機関車「アイアンデューク号」と客車2両。現在もモニュメントが残っている。

この際に使われた機関車について長崎史談会で幹事を務める井手勝摩が調査を行っており、武藤長蔵の講演内容と、それに引用されたアレキサンダー・クラークの記録、これらと中国の鉄道史を勘案し、鉄道ピクトリアル1960年(昭和35年)1月号に発表した小熊米雄の記事、県立長崎図書館副館長時代に本馬貞夫が発見した、デモ走行を実見した平松儀右衛門の旅行記の内容を突き合わせている。その結果、グラバーがジャーディン・マセソンの香港支店経由で輸入したものは、元々呉淞鉄道のためにイギリスから香港へ送られたもので、軌間762 mmの小形機関車と客車であり、その後再び中国に渡るが、上海ではなく北京でデモ走行を行ったのではないか、としている。

この説が正しいとすれば、ブロードゲージ(7 ft 1⁄4 in = 2,140 mm)の高速機で、1965年当時英国で現役にあったグレート・ウェスタン鉄道のアイアン・デューク号(1847年製造 – 1871年廃車)とは名前こそ同じであるが、全くの別物であったと考えられる。現在長崎市にあるモニュメントに描かれた機関車もグレート・ウェスタン鉄道のアイアンデューク型であり、よって、これも史実とは異なることなる。

鉄道開通

官営鉄道建設の決断
明治維新の翌年、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 – 横浜間の鉄道建設が始まった。

京都で王政復古の大号令が布告された半月後の慶応3年12月23日(1868年1月17日)、幕府の老中外国事務総裁小笠原長行の名でアメリカ領事館書記官のアントン・ポートマン宛に江戸 – 横浜間の鉄道設営免許が与えられた。この免許はアメリカ側に経営権がある「外国管轄方式」といえるものであった。明治になってからアメリカ側はこの免許を根拠に建設要請を行ったが、明治政府は「この書面の幕府側の署名は、京都の新政府発足後のもので外交的権限を有しないもの」である旨をもって却下している。その後新政府内部で鉄道建設について検討が行われ、明治2年(1869年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決めた。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌明治3年(1870年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任して本格的工事が始まった。日本側では明治4年(1871年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉱山頭兼鉄道頭に就任して建設に携わった。

日本の鉄道は明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋駅 – 横浜駅間で正式開業した。ただし、実際にはその数か月前から品川駅 – 横浜駅間で仮営業が行われていた。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。

最初の路線
鉄道の輸送力を決定付ける軌間は、国際標準軌 (1,435 mm) より狭い狭軌の1,067 mmが選ばれた。これは当時の日本の状況を考えると妥当な選択であった。すなわち軌間が広いほど大きな列車を速く走らせることができるが、建設費がかさむことが欠点である。特に軌間が大きいほどカーブを大きく取る必要があり、貧乏国で山がちの日本では標準軌は贅沢であった。当時のイギリス植民地であった南アフリカやニュージーランドも1,067 mmを採用している。その他の技術的ポイントを列記する。

実際の建設に際しては、土木工事は築城経験のある日本の技術が生かされたが、現在の多摩川にかかる六郷川橋梁だけはイギリス人の指導の下に木造で架橋された(明治10年に鉄橋に交換)。
車両はすべてイギリスから輸入された。蒸気機関車10両はすべて軸配置1Bのタンク機関車で5社の製品を混合使用した。その中で4両あったシャープ・スチュアート社製の機関車が最も使いやすかったといわれている。
客車はすべて二軸で上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されたが、開業前に中等車26両は定員52人の下等車に改造された。当時の客車の走り装置や台枠は鋼製だが、柱、壁、屋根を含む車体は木造であり、この改造は練達の日本人大工の手によって実施された。
機関車を運転する機関士は外国人であった。また運行ダイヤ作成もイギリス人のW・F・ページに一任されていた。これらの外国人技術者は「お雇い外国人」と呼ばれ、高給を取っていた。
なお、上記のようにイギリス植民地と同じ軌間であることから「イギリスは日本を植民地と同じように格下に見て、1,067 mmを導入させた。」などという説が語られているが、これは誤りである。

営業成績
開業翌年の1873年の営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入42万円と貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引くと21万円の利益となっている。この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用の準備不足もあったが、明治維新直後で近代産業が未発達な時期であり「運ぶ荷物がなかった」事も考えられる。

阪神間の路線
京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区も順調に建設が進み、明治7年(1874年)5月11日には大阪駅 – 神戸駅間が開通した。ただしこの時は仮開業として扱われ、開業式がおこなわれたのは明治10年(1877年)に京都駅まで延伸した時であった。

阪神間の特徴として、大きな河川を何本も横断している点がある。特に石屋川や芦屋川は天井川となっており、これを渡るには川の下にトンネルを掘る必要があった。日本最初の鉄道トンネルは石屋川トンネルで、お雇い外国人の指導によるレンガ造りであった。芦屋川トンネルは日本最初の複線規格で掘られた。また十三川(新淀川)・神崎川・武庫川には、イギリス人イングランドが設計しイギリスで製作されたトラス橋が架けられた。明治9年(1876年)には京都駅(当初は、大宮通仮停車場)・大阪駅間が開通し、京阪神が鉄道で結ばれた。

北海道の鉄道
北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道が明治13年(1880年)、アメリカ人技師の指導により手宮駅(のちに廃止) – 札幌駅間で完成した(のちの手宮線と函館本線)。このとき輸入された軸配置1Cのアメリカ製テンダー機関車(7100形、弁慶・静などの愛称が付けられた)が、何両か保存されている。

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大私鉄建設の時代
順調にスタートした鉄道であったが、明治10年(1877年)の西南戦争後の政府の財政難の元で、新規建設は東海道線(明治22年(1889年)全通)などを除いてほとんど停止した。鉄道頭の井上勝などは鉄道の原則国有を主張していたが、この頃までに開通していた鉄道は新橋駅 – 横浜駅間のほか、北海道の幌内鉄道(後、手宮線・函館本線の一部・幌内線)や釜石鉄道、それと大津駅 – 神戸駅間にとどまり、これでは遅々として鉄道整備など進まないことが予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心として、私有資本を用いての鉄道建設を望む声が強くなっていき、結局政府の保護を受けた半官半民の会社として、1881年(明治14年)に日本鉄道が設立された。日本鉄道の営業成績は、政府の保護を受けたこともあって良かったため、その後幹線の整備を行う私鉄会社が、同じ様な方式で次々と誕生することになる(なお、日本鉄道に北海道炭礦鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道を加えたものは、明治の「五大私鉄」と呼ばれる)。また各私鉄に対する援助の内容は建設する地域事情に応じて大幅に違っており、援助に当たって政府の判断が慎重に行われたと推察される。

1885年(明治18年)には、関西経済界の重鎮、藤田伝三郎・松本重太郎らが発起人として設立した阪堺鉄道が難波駅 – 大和川駅(後に廃止)間を開業するが、これは後に南海鉄道(現在の南海電気鉄道)の南海本線の一部となり、純民間資本としては現存する最古の私鉄となっている。

私鉄建設の動きは1890年(明治23年)頃に一旦沈静化するが、その後、中規模から小規模の路線を運営する会社が設立されるようになり、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布までその流れは続いた。一方、官設鉄道(国鉄)でも紆余曲折がありながら路線整備が進められ、1889年(明治22年)7月1日には現在の東海道本線を全通させたりしているが、その路線の多くは、現在の信越本線・奥羽本線など、上記私鉄の補助的役割を果たすものになった。

東海道線
当初東京と関西を結ぶ路線は中山道経由とされていた(中山道幹線)。これは東海道筋は海運が盛んで、運賃の高い鉄道は余り使用されないであろうとする見方、それに東海道筋は海に近く、外国の攻撃を受けやすいという陸軍の強い反対があったため であるとされる。明治16年(1883年)に「中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅 – 大垣駅間の建設が始まったが、山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。そこで明治19年(1886年)、鉄道局長の井上は陸軍の大立者山縣有朋を説得の上、総理大臣の伊藤博文、(3人とも長州藩出身)へ相談して 東海道へルートを変更することが決定した。これを受けて東海道線の建設が急ピッチで進み1889年7月1日に全線が開通した。

五大私鉄会社
北海道炭礦鉄道
北海道炭礦鉄道は1889年、営業不振であった官営幌内鉄道の路線を譲り受ける形で発足し、のちの函館本線・室蘭本線・石勝線などの一部に該当する路線を敷設する。おもに、沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役目を担った。

日本鉄道
日本鉄道は、まず東京から養蚕地の群馬県へ向かう鉄道路線より建設をはじめ、1883年(明治16年)7月28日に初の路線である上野駅 – 熊谷駅間を開業させた後、1884年(明治17年)8月20日に前橋駅まで延長、さらに1891年(明治24年)9月1日には、現在の東北本線にあたる上野駅 – 大宮駅 – 仙台駅 – 青森駅間を全通させるなど、短期間で急速に路線を延ばしていくことになった。この鉄道の建設は国策的要素が強く、また仙台駅以北が過疎地であり、完成後も赤字が見込まれることから、手厚い援助を受けた。すなわち、建設中の資金利子 (8%) を国が負担、開業後の収支収益の8%を国が保証、官有地の無代払い下げ、民有地の買い上げ払い下げ、用地の地租免除である。

この会社が1885年に開通させた前橋駅 – 赤羽駅 – 品川駅のルート(のちの高崎線・赤羽線・山手線)は、官営鉄道(品川駅 – 横浜駅)と合わせて当時の主要輸出商品であった生糸や絹織物の産地と輸出港を結ぶ路線となり、鉄道による産業発展への貢献の第一号となった。

山陽鉄道
山陽鉄道は、神戸駅から広島駅を経由し、馬関駅(現在の下関駅)に至る路線(現在の山陽本線)を敷設。1888年設立、1894年に広島まで完成。この年の8月に日清戦争が始まり、中国大陸への船積み基地となった広島と宇品へ日本各地から軍隊や物資が輸送された。同年9月から明治天皇が広島に滞在し、大本営も広島に移動して戦争の指揮に当たった。これらの人や物資の輸送には、官営の東海道線と私鉄の山陽鉄道や日本鉄道の輸送力が使われた。山陽地区は古来人や物資の往来も多いため、建設後の収支見込も悪くないと判定された。その結果、建設に際しての援助は日本鉄道に比べて大幅に少なく、建設費1マイル当たり2,000円の補助金交付にとどまった。

山陽鉄道は瀬戸内海航路との競争を強いられたという事情もあり積極的な経営で知られ、日本初のさまざまなサービスを生み出している。急行列車の設定(1894年)、入場券の発売(1897年)、列車ボーイのサービス(1898年)、食堂車の営業(1899年)、寝台車の連結(1900年)などいずれも官営鉄道より早かった。また輸送力を重視し線路は、勾配が広島県内の瀬野八区間(22.5パーミル)を除き10パーミル以下、曲線が半径300 m以上で建設された。また私鉄として唯一自社工場で機関車23両を製造した。

九州鉄道
九州鉄道は門司駅(現在の門司港駅)から八代駅・三角駅・長崎駅、小倉駅から分かれて行橋駅へ向かう路線の敷設(のちの鹿児島本線、三角線、長崎本線、佐世保線、大村線、日豊本線)を目指して建設された。建設に際して国からの援助は山陽鉄道と同等だった。ドイツ人のルムシュッテルの指導の下、ドイツより輸入した車両を使って1891年までに門司駅 – 熊本駅間、鳥栖駅 – 佐賀駅間が完成。筑豊炭田の石炭輸送により、1899年からは貨物収入が旅客収入を上回った。その後安定した経営状態が続いたので、1907年の鉄道国有化には賛成しなかった。

関西鉄道
関西鉄道は名古屋駅から旧東海道に沿って草津駅に至る路線と、柘植駅で分かれて木津駅を経由し、網島駅(今は廃止)・湊町駅(のちのJR難波駅)に至る路線を敷設(一部は他社の買収による)。1887年に設立され、1899年に網島駅 – 新木津駅(廃駅) – 愛知駅(廃駅) – 名古屋駅間が全通する。官営鉄道の東海道線と競合するため、国の建設補助は出なかった。同社は官営鉄道と速度やサービスを競い、大阪 – 名古屋間のスピード競争に加え、運賃割引や車両等級別に窓下に色帯を入れるなど、様々なアイデアで旅客を誘致した。これらの施策は、のちに鉄道院入りした島安次郎に負うところが大きいといえる。

日清・日露戦争への貢献
日本の鉄道が戦争に使われたのは、1878年の西南戦争が最初である。当時京浜間と京阪神間のみの運転であったが、軍隊の集結や港への輸送に大きな効果があった。1894年から1895年に戦われた日清戦争、1904年に始まり1905年に終わった日露戦争は、明治維新後の日本が国の総力を挙げたプロジェクトで、鉄道も戦争遂行のために大きな役割を果たした。

日清戦争
前記のように日清戦争は山陽鉄道が広島まで到達した翌月に勃発した。当時の鉄道の西の終点に当たる広島は、大陸に最も近いターミナルとなった。広島には戦争指揮にあたる明治天皇と大本営が滞在し(広島大本営)、近くにある宇品港は大陸への積み出し港としての役割を担った。各地の部隊や軍事物資は官営鉄道や私鉄を乗り継いで広島に集結した。

日露戦争
日露戦争の規模は日清戦争よりも大きく、鉄道における軍事物資の輸送も日清戦争を大幅に上回った。輸送した人員は88万6千人、馬13万8千頭、貨物26万2千トンに達した。戦時中はこの輸送を達成するため一般の輸送は大幅に削減された。しかし大規模私鉄の割拠は戦争遂行には大変不便であった。例えば八甲田山事件で有名な弘前師団の出征は、弘前駅 – 福島駅が官営、福島 – 品川が日本鉄道、品川 – 神戸が官営、神戸 – 広島が山陽鉄道、広島から船で大陸へ渡った。これらの輸送の実施には、各鉄道間のダイヤや車両の遣り繰りや事後の運賃精算など、煩雑な業務が発生した。このことが戦争後の鉄道国有化に繋がってゆく。この戦争の前後には作曲家や奥好義等雅楽師により多くの鉄道唱歌が作曲された。

都市交通の始まり
都市交通機関としては、1882年(明治15年)開業の東京馬車鉄道を端緒に、馬車鉄道がまず誕生した。しかし餌や糞尿の問題もあり、世界的な趨勢に従って、電車を用いた軌道交通―すなわち路面電車へまもなく切り替えられることになる。最初の例は1895年(明治28年)開業の京都電気鉄道であった。京都南部の伏見から京都市内まで6.6 kmの区間を走った路面電車で、琵琶湖疏水の水力発電を電源としていた。この鉄道は1918年京都市に買収され、路線は京都市電の一部となった。

さらには電車の機動性を用いて、都市間交通に用いようという考えも生まれる。これはアメリカのインターアーバンに倣ったものであったが、1905年(明治38年)の阪神電気鉄道を端緒に、関西や関東を中心にして、いくつかの会社・路線が生まれた。これらの多くは、現在の私鉄各線の源流にもなっている。名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道のように、路面電車を郊外電車に発展させるものも現れた。

また、1904年(明治37年)には、軌道でなく鉄道に準拠する路線では初の電車運転を、甲武鉄道が開始している。近郊区間では、蒸気列車より電車列車のほうが優位であることは明らかとなり、南海鉄道など国有化を免れた私鉄では、明治末より電車の投入を開始した。

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