市内中心部エリア、日本京都観光ルート

市内中心部エリア、四条通、烏丸通、河原町通で観光、買い物、グルメに祭、「まるたけえびすにおしおいけ……」、京の通り名巡りも楽しめる。京都駅からアクセス良く足を運べる市内中心部。地下鉄に乗って二駅目の四条駅で降りると、そこが四条通と烏丸通が交差する四条烏丸エリア。日本三大祭・祇園祭で、山鉾が巡行する場所としても有名です。ここから少し東へ歩けば観光客の姿が多く見られる河原町通に到着。買い物やグルメは、にぎやかな錦市場でも楽しめます。錦市場は錦小路通の寺町通~高倉通間の約400メートルに120軒余りの店が並ぶ、京都の台所。北の丸太町通~南の五条通をのんびり散策するときは、「京の通り名」の歌、「まるたけえびすにおしおいけ……」と口ずさみながら歩くと京都をより身近に感じられるかもしれません。

下京区は、京都市を構成する11区のひとつである。北辺を通る四条通の四条烏丸(烏丸通)から四条河原町(河原町通)までは京都府、京都市有数の繁華街となっている。同区内に立地する京都駅は、京都市周辺部のターミナルであり、周辺には京都タワー・京都駅ビルなどを中心に商業施設が集まっている。

四条通
四条通は京都市の主要な東西の通りの一つ。平安京の四条大路にあたる。東は祇園の東大路通、八坂神社の石段下から、西は松尾大社までである。祇園から松尾大社までの全区間が、主要地方道である京都市道186号嵐山祇園線となっている。 四条通東端の祇園石段下から右京区の三菱自動車京都工場付近(梅津段町交差点の東側数十メートルまで)は4車線道路となっており、そこから西側は2車線道路になる。祇園から四条烏丸まで、四条河原町交差点を中心に京都最大の繁華街を形成している。

四条室町が鉾の辻と呼ばれて下京の中心と見なされるなど、古くから主要な通りとして京都の東西の中心軸である。通行量が多いため、度々渋滞が発生するが祇園祭の山鉾が立つ期間はその部分が一車線規制となりさらに渋滞が激しくなる傾向がある。ちなみに山鉾巡行が行なわれる四条烏丸交差点~四条河原町交差点間の信号機は、山鉾の接触を防ぐために容易に折り曲げが出来る構造となっている。四条通の多くの場所からは、通りの先の東に東山、反対方向の西に松尾山と、両端に緑の山が見えどこにいても盆地を感じさせる京都らしい風景を見ることができる。四条河原町から西大路四条にかけては地下を阪急京都本線が走る。

五条通
五条通は京都市の主要な東西の通りの一つ。都市の中心部を東西に貫き、ほとんどの区間で国道に指定されている主要幹線である。国道の名称としては堀川五条以東は国道1号であり、烏丸五条以西は国道9号(烏丸五条-堀川五条は国道1号と重複)である。また国道8号(烏丸五条以東)、国道162号(天神川五条-西大路五条)の重複区間でもある。

通りの東は東大路通との交差点である五条坂交差点付近から五条坂と呼ばれ、五条坂交差点からは清水寺に向かう細い道となり、清水道(松原通の東端部)と合流する。なお、国道1号は東大路通を立体交差で越えて五条バイパスとなり、渋谷通と合流して東山を越え山科盆地へ続く(この山科区における五条バイパスも含めて、ひろく五条通と呼ばれることもある)。西は国道9号桂バイパスとして、桂川の西大橋を経て桂から京都縦貫自動車道沓掛ICに繋がる。

烏丸通
烏丸通は京都市の主要な南北の通りのひとつ。今朱雀とも呼ばれる表どおりである。本来は「からすまる」と読まれたが、撥音便化を経て音が脱落し、現在は「からすま」と読む(からすまるどほり→からすまんどおり→からすまどおり)。「烏丸家」という公家もあるが、こちらは「からすまるけ」と読む。平安京の烏丸小路にあたる。北は北大路バスターミナル(北大路駅)の北側の今宮通まで。南は京都駅で分断されるが、久世橋通まで延びている。

北大路通以北を除いて4車線の道路である。1877年に京都駅が誕生した後、京都市三大事業の一つである街路拡幅により駅正面の大通りとなったのは、「行幸道路」として拡幅されたためである。また、三大事業の一つとして京都市電烏丸線も敷設された。京都御所の西端を通り、京都駅を南北に交差するため、平安京の朱雀大路であった千本通に代わって、京都のメインストリートとなった。四条烏丸交差点周辺を中心として烏丸通は京都のビジネス街とされ、多くの銀行や企業がある。なお、京都市電烏丸線は1977年までに廃止されたが、のちに道路下には京都市営地下鉄烏丸線が敷設されている。また京都駅より南側の八条通以南は長らく細い道幅のままであったが、地下鉄烏丸線の京都 – 竹田間延伸工事にあわせて1988年に4車線に拡幅され、並行する竹田街道の混雑緩和に役立っている。

国道としては烏丸七条から烏丸五条までが国道24号、烏丸五条から烏丸北大路までが国道367号となっている。また、東本願寺の東側にあたる烏丸七条から烏丸花屋町の区間は東に蛇行し不明門通に重なるような線形をとっているが、これは市電の線路を敷設する際に東本願寺の門前が混雑するのを避けるために迂回したもので、市電廃止後も線形は変化していない(冒頭写真参照)。御池通から四条通までの沿道は、路上喫煙等禁止区域に指定されている。 1994年(平成6年)に読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景」

河原町通
四条河原町は、京都府京都市下京区および中京区にまたがる交差点名である。また、同交差点を中心に広がる京都市の中心繁華街を指す呼称でもある。当交差点周辺は京都市最大の繁華街を形成している。京都最大の売上を誇る高島屋京都店や老舗の大丸京都店、若者向けの藤井大丸といった百貨店など他にも多くの商業施設が位置している。当交差点付近から四条烏丸までの四条通および河原町三条までの河原町通や、四条通から御池通までの寺町通・新京極通は一体化した繁華街となっている。京都を代表するビジネス街である四条烏丸や、歓楽街である祇園とも隣接し、ともに京都市の中心部を形成している。また、四条河原町を北に面する先斗町は鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街である。

京都最大の繁華街の中心、四条通と河原町通の交差点。京都を観光して「河ブラ」をしない若者はいないといわれる。高島屋・マルイ・大丸各百貨店をはじめ、四条・河原町・寺町・新京極各商店街も密集、ファッション、味の発進地になっている。当交差点の直下には地下駅の阪急電鉄京都線の京都河原町駅があり、地下で髙島屋、コトクロス阪急河原町と直結している。コトクロス阪急河原町は阪急が土地を取得した場所で、過去には京阪特急のネオンサインが設置されていた場所でもある。京阪本線の祇園四条駅へは地下通路こそつながっていないが、鴨川に掛かる四条大橋を渡ってすぐであり、京阪沿線へのアクセスも良い。京阪電車の祇園四条駅の東側には祇園があり、この付近へは徒歩圏内である。

京都河原町駅と鴨川を挟んで隣接した祇園四条駅を中心としたエリアはゲイ・タウンとしても知られる。所在地でいうと下京区市之町・清水町、中京区鍋屋町・下樵木町などにゲイバーなどが20店舗ほどある。河原町駅から程近い鴨川沿いにある宮川町は、安土桃山時代には若衆歌舞伎の小屋と茶屋が集まり、「陰間」(少年)が接待をする花街として栄えていた。またその後売色専業の陰間茶屋も集まっていた。

寺町通
寺町通は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。

寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であった。東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担が大変であったことがルイス・フロイスの『日本史』に書かれている。鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われた。この頃、洛中北部にも、聚楽第の北辺を守る形で京都改造の一環として同じく寺院集中地区である「寺之内」が形成されたが、寺町と違って水害の不安の無い高燥地で、法華寺院のしかもいずれも大寺が配置されたため、寺町との環境の差は歴然としていた。このため、寺町の寺からは「奉行の前田玄以が法華宗だからいい場所を法華寺院に与えた」との不満が出たと伝えられるが、実際は寺町にも本能寺や妙満寺などの法華寺院が移されていた。相次ぐ火災に見舞われて江戸時代中期以降には寺地を寺町から洛東に移す寺院もあり、例えば真如堂も元禄の大火の後、寺町今出川付近から現在の左京区に移っている。

かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。丸太町通から二条通までは、古美術店や画廊、古書店などが並ぶ寺町会の商店街である。御池通から四条通に至る区間は、アーケードの商店街となっており、日中は車両進入禁止である。御池通から三条通までは、寺町専門店街であり、新京極通と平行する三条通から四条通までは、修学旅行では必ず訪れるとされた寺町京極商店街である。また、四条通から高辻通にかけては、東京や大阪と比べると小規模ながら電気街になっており、京都の秋葉原や日本橋といってもよい通りであったが、近年は郊外型や大阪梅田・京都駅近辺の大型家電量販店の台頭で、秋葉原、日本橋や大須同様に、往時と比べて電気店の数が減少し、新しい都心型のマンションなどが建設されている。

錦小路通
錦小路通は京都市の東西の通りの一つ。平安京の錦小路にあたる。蛸薬師通と四条通の間を走る。東は新京極通の錦天満宮正面から西は壬生川通まで。宇治拾遺物語の記述によると、平安時代は具足小路と呼ばれ、その後なまって、糞小路となり、勅命で四条通をはさんで南隣の綾小路にちなんで錦小路に改められたという。高倉通と寺町通間の錦市場は京の台所とよばれ、青果店、鮮魚店、乾物店、惣菜店などが並ぶアーケード、石畳の狭い通り。

高倉通
高倉通は京都市の南北の通りの一つ。平安京の高倉小路にあたる。北は丸太町通から南は十条通に至る。途中、渉成園により中断している。高倉跨線橋で大きくカーブしており、竹田街道に接続している。以南は筋違いとなっている。通りの名前は、平安時代この通り沿いに藤原氏の別邸である高倉殿があったことに由来する。当時は沿道に貴族の邸宅が多く並んでおり、例えば三条高倉に邸宅を構えた以仁王は高倉宮と称された。しかし応仁の乱以降通りは衰退し、戦国時代にはこの通りが下京における町の東限となっていた。その後、天正年間に豊臣秀吉の京都改造事業に伴って再開発される。かつては下立売通まで通じていたが、1708年(宝永5年)に御所が拡大したため、そのあおりを受けて丸太町通以北の区間が消滅した。消滅した町域にあった町家は鴨川東岸の仁王門通へと移転させられたが、その際開かれた通りが現在も新高倉通として現存している。

1523年(大永3年)から1673年(寛文13年)にかけての一時期、頂妙寺が沿道にあったため、頂妙寺通とも呼ばれていた。現在は京都の中心部を走る生活道路である。通りは仏光寺通‐高辻通間のごく短い区間と七条通から八条通の区間を除いて一方通行であり、五条通から上珠数屋町通および八条通以南が南行き、それ以外が北行きとなっている。

丸太町通
丸太町通は京都市の主要な東西の通りの一つである。平安京の春日小路に当たるが、円町交差点付近では北向きに振れて、平安京の中御門大路に当たる。この通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町通の名がついたといわれている。江戸時代の地図を見ると「丸田町通」と表記されていることもある。1708年の宝永の大火の後、公家町が丸太町通に接する範囲まで拡張されたため、現代では京都御苑の南端が丸太町通となっている。

東は鹿ヶ谷通から西は右京区嵯峨釈迦堂大門町まで延びている。全区間京都市道187号鹿ヶ谷嵐山線として、4車線の供用および歩道が整備されている。今出川通と同様に4車線ギリギリの幅員しかなく、右折レーンのない主要交差点も多いことから朝・夕のラッシュ時には渋滞が頻繁に起こる。

丸太町松屋町から丸太町智恵光院の間で斜行している部分は、明治時代末の京都市三大事業により拡幅された部分にあたる。このとき、千本通・東大路通間が拡幅され、京都市電丸太町線の敷設と鴨川架橋も軌道併用橋に架け替えられた。その後、大正末年から昭和初年にかけての京都市区改正設計に基づく事業により、白川通・西大路通間が拡幅された。その後長らく、西端は中京区の円町交差点までであったが、1966年に西ノ京円町から妙心寺前交差点まで西に延伸、1970年にはさらに右京区嵯峨釈迦堂大門町まで延伸した。おおむね、この延伸区間は新丸太町通とも呼ばれる。

名所・旧跡

元離宮二条城
慶長8(1603)年、徳川家康によって建てられ、数々の歴史の舞台になってきた二条城。3代家光が増築を行い、寛永3(1626)年に現在の規模になった。東西約600メートル、南北約400メートルに塁を築き堀をめぐらす。重厚なたたずまいの「東大手門」(重要文化財)、「松竹梅に鶴」「唐獅子」といった極彩色の彫刻が見事な唐門(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)や本丸御殿(重要文化財・現在修理工事中)など、見どころ多数。大政奉還の場となった二の丸御殿(国宝)では、鴬張りの廊下や、狩野派絵師の手による障壁画にも注目を。

二の丸御殿唐門は、二条城にある重要文化財建造物。二の丸御殿の正門。四脚門で、屋根は檜皮葺。冠木や梁の上に「牡丹に蝶」「龍虎」「亀に乗る仙人」「牡丹に唐獅子」などの極彩色の彫刻をはめ込んでいる。本丸櫓門は、二条城にある寛永期の重要文化財建造物。寛永3年(1626)徳川家光が造営した本丸内の建物のうち天明8年(1788)の天明の大火で唯一焼け残った櫓門。

本丸御殿御常御殿は、京都御苑内にあった江戸時代末期の建築で、明治時代に移築された重要文化財建造物。玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間の4棟からなる本丸御殿のうち、御常御殿だけが一部二階建になっており、中二階があるため、三階建のように見える。二の丸御殿御清所は、二条城にある江戸時代初期の重要文化財建造物。台所の南に続き、御膳所だったと思われる料理所。煙出しがあり、南側には井戸がある。本丸御殿台所及び雁之間は、本丸御殿御常御殿と同じく、元は京都御苑内にあった江戸時代末期の建築で、明治時代に移築した重要文化財建造物。本丸内の建物群の東北にある。台所には煙出しがあり、床は板張になっている。写真は雁之間。非公開。

二の丸庭園は寛永3年(1626年)に後水尾天皇を二条城にお迎えする際に小堀遠州によって改修された庭園で、石組は3つの方向から鑑賞できるように工夫され、現存する城郭の庭園の中でも特に優れた作品の一つに数えられている。二の丸土蔵(米蔵)は、二条城にある江戸時代の重要文化財建造物。米蔵は、現在3棟だけ残っている。全国の郭で土蔵が残るのは二条城だけである。二の丸御殿遠侍及び車寄は、二条城にある江戸時代初期の国宝建造物。遠侍は来訪者が控える間に使われた、入母屋造本瓦葺の城内最大の建物である。車寄は遠侍に付設した二の丸御殿の玄関で、入母屋造檜皮葺の屋根を持つ。

二条陣屋
江戸初期建築の町家で、西国大名の宿舎にも使用。土蔵造の防火壁、防火井戸のほか天井の武者隠し、落し階段、釣梯子など敵の侵入を防ぐ工夫が各所に。2階13室、階下11室もあり、陣屋建築、数奇屋建築、防火建築として価値が高く重文。

京都御苑
京都御所と京都仙洞御所、京都大宮御所、京都迎賓館を包含する東西700メートル、南北1300メートルの広大な緑地で、環境省の管理する国民公園。禁門の変で有名な蛤御門など四方から自由に出入りでき、芝生や梅林などがある格好の散策地。レストハウス、運動広場など憩いの場の他、閑院宮邸跡、庭園、御苑の歴史と自然が学べる展示館、拾翠亭、江戸時代の茶室など、歴史的遺構も残る。なお、御所の管理は宮内庁であり、御所参観の受付は宮内庁京都事務所が行っている。

京都市役所
庁舎は,車寄せを有する玄関を正面中央に据え,ほぼ完全に左右対称で,中央と両翼を突き出させて強調し,更に塔を持つなど,ヨーロッパの伝統様式(ネオ・バロック的骨格)の特色を有し,内部に東洋的な建築様式を採用している。1925年(大正14)起工,1927年(昭和2)に本庁舎東館,1931年(昭和6)に本庁舎西館が完成し,一体の都市空間を最も特徴づける存在の一つとなっており,「周囲のランドマーク的存在」となっている。

烏丸御池
京都市営地下鉄の烏丸線と東西線が交わる結節点に位置する駅で、両路線の乗換駅。宿泊施設も多く、京都国際マンガミュージアム、二条城、京都御苑、四条河原町などの観光スポットにも近い。

神泉苑
平安京造営の時に設けられた宮中附属の禁苑で、大池には天皇や公家が船を浮かべ、歌や花、音楽を楽しみ、御池通の由来にもなった。弘法大師空海が祈雨の修法をし、祇園祭の発祥地でもある。平安の面影を残す境内には願いが叶う法成橋(赤い橋)や、年の恵方を祀る歳徳神がある。5月には神泉苑祭、11月には神泉苑狂言の公演がある。

真如院
織田信長、足利義昭の旧跡。うろこ石を並べた独特の枯山水庭園である。園内に瓜実灯篭、烏帽子石、呼子手水鉢がある。

鈴鹿山
鈴鹿権現をまつる。伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫命)を、金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。後の山には退治された悪鬼の首をあらわす赤熊が置かれている。山に立つ松には鳥居、松、木立と宝珠を描いた絵馬がつけられるのも珍しく、巡行後に盗難除けの御符としても授与される。前掛は金地仙人図の綴錦、胴掛は同種の織物で西王母、寿老人などの図をあらわす。見送は中国明時代の雲龍文刺繍と牡丹鳳凰文刺繍、そして皆川月華作「布哇の蘭花」がある。

祇園新橋伝統的建造物群保存地区
祇園は、祇園社の門前町として発祥し、江戸時代になると、芝居や人形浄瑠璃などの小屋が建ち並ぶようになった。当地区一帯は、祇園内六町の茶屋町として開発され、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、芸能と深く結びついて発展してきた。今も質の高い洗練された茶屋様式の町家が整然と建ち並び、美しい流れの白川、石畳、桜並木などと一体となって伝統的なたたずまいを見せている。

月鉾
鉾頭に新月型をつけているのでこの名で呼ばれる。真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。屋根裏の金地著彩草花図は天明4年(1784)円山応挙の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎作と伝えられる。4本柱の錺金具や破風散しの金具などはいずれも華麗で山鉾のなかでも最高のものである。上水引の刺繍双鸞霊獣図は天保6年(1835)円山応震の下絵という。前掛、後掛は華麗なペルシャ緞通(だんつう)、胴掛はコーカサス緞通などを用いている。

京都ハリストス正教会・生神女福音大聖堂
ギリシャ正教の西日本における布教活動の拠点として1903年(明治36年)に完成した教会堂(市指定文化財)。ロシア・ビザンチン様式、木造十字形平面聖堂で217平方メートル。京都府旧庁舎を手がけた府技師松室重光が設計監理。堂内に三段で構成される帝政ロシア時代のイコノスタシス(聖障・イコンによる間仕切)がある。

木戸孝允旧邸・達磨堂
木戸孝允は長州藩出身の明治維新の政治家。天保4年(1833)生まれ、桂小五郎とも称し、のち木戸姓に改める。西郷隆盛、大久保利通らとともに尊王攘夷、討幕運動に指導的役割を果たした。文久年間から慶応年間の京都の政局は主導権をめぐって激しく動いており、その中心は朝廷であり御所を核に公卿屋敷が政治の拠点でもあった。この木戸旧邸は、その拠点の一隅に位置し、近衛家の下屋敷を譲り受けて別邸となしたもので木造二階建であった。なお、隣接する達磨堂には、木戸孝允の養子である木戸忠太郎が主に明治末期から昭和初期にかけてコレクションした、起上がり達磨をはじめ、玩具、日用品、装飾品、書画、ポスターなどおよそ達磨に関連するものが数万点納められており、その一部が展示されている。

新島旧邸
同志社の創立者、新島襄と妻・八重の私邸(1878年竣工)、木造2階建ての和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物。1985年、京都市指定有形文化財に指定されている。

朱雀門跡
朱雀門は平安京朱雀大路、現千本通の北端にあった。門は七間五戸の重層、入母屋造り、瓦ぶきで棟の両端に金色の鴟尾を置く。1227年(安貞1)焼滅した。市バス二条駅前100メートル。

本能寺跡
織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は現在地の寺町御池ではなく、1582年(天正10)ごろは堀川四条の近くにあり寺域は東西150メートル、南北300メートル。本能寺の変後、豊臣秀吉が現在地に再建。現本能小学校は寺跡の中心で門前に立礼。市バス四条西洞院300メートル。

南蛮寺跡
安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会。1560年(永禄3)六角通室町西の民家を会堂とし、のち四条烏丸に移り再びここに1576年(天正4)教会を完成させ南蛮文化の中心に。1588年(天正16)豊臣秀吉の禁教令で破却。室町に石碑がある。市バス四条烏丸400メートル。

誓願寺 迷子のみちしるべ
山門の外、北側にある石柱です。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、その当時、落し物、迷子などの時、落した人は探す方へ、拾った人は教える方へ、この石に紙に書いて張り出しました。まだ警察のなかった江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり各地の社寺や盛り場に建てられたそうです。月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」とも呼ばれます。現存の石柱は、明治15年(1882)9月に建立されたものです。

高松殿址
高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣とよばれた源高明(914~982)の邸宅で、高明の娘明子は、当所に住して高松殿(どの)と称された。その後、焼失したが、久安2年(1146)に新造され、久寿2年(1155)には、後白河天皇が当所で即位した。保元の乱(1156)の際には、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地へ攻め込んだことはあまりにも有名である。その後、平治の乱(1159)で焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松神明は、現在も高松神明神社として残る。

東三条院址
東三条院の址はこの辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代隆盛を極めた藤原氏の邸があったところである。藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する習わしとなっていた。一条天皇の皇太后となった藤原詮子は、出家して東三条院と称した。その後、邸は藤原道長に引継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮べて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。邸は安元3年(1177)火災で焼失した。

京都所司代上屋敷跡
ここより西方大宮通り辺まで(北は丸太町通、南は竹屋町通)の一帯の地で、現在大半が待賢小学校用地となっている。所司代の名称・役職は、室町幕府の侍所にはじまり、徳川時代の所司代は関ケ原合戦の直後設けられ、皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、近畿8カ国の訴訟処理、西国大名の動静監視など強い権限を持ち、幕府の老中につぐ最重要役職であった。とくに3代目の板倉重宗は名所司代のほまれ高かった。文久2年(1862)京都守護職の新設で所司代はその管轄下に属し、王政復古により廃止された。跡地には、明治3年、わが国最初の中学校・京都府立京都第一中学校が建てられた。

所司代屋敷跡
1600年(慶長5)関ケ原合戦後、徳川家康が設けた江戸幕府の重要な監視職。板倉勝重が初代所司代、幕末に廃止するまで58人が就任。その中屋敷跡は、現在の侍賢小学校にあたる。

新撰組遺跡
1863年(文久3)3月、新撰組は、初め中京区壬生に今も残る八木家を芹沢鴨や近藤勇ら13人の宿舎とした。新撰組発祥の地・壬生屯所。2年後の4月、壬生から下京区の西本願寺集会所に移り、1865年(慶応1)の冬、下京区堀川通木津屋橋に陣屋を新築したのが新撰組堀川本陣である。

女紅場跡
明治初期に設置された女子教育機関。1872年(明治5)まず新英学校女紅場が上京区土手町通丸太町下ルに開設。のち女学校を経て1901年(明治34)に京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)と発展。1873年(明治6)以降は市中女紅場を各学区に設置、裁縫・手芸などを教えた。丸太町橋西詰に石碑あり。市バス河原町丸太町200メートル。

並河天民講学所跡
この地は、江戸時代中期の儒医並河天民の私塾、堀木之舎があったところである。天民は延宝7年(1679)京都郊外、横大路村の生まれで、性豪放、終生官に仕えず、赤貧に甘んじ、この地の私塾堀木之舎で学問を講じた。享保3年(1718)、40才で没し、東山の清閑寺に葬られた。

舎密局跡
京都府が1870年(明治3)理化学・工業技術の研究・普及を目的に設けた勧業教育施設。舎密局とはオランダ語の「シエミストリ」(化学)のあて字。ビール・ガラス・石けんなどの製造研究、多くの技術者を養成。1881年(明治14)勧業政策転換で廃止。跡地の銅駝工芸高校前に駒札。市バス河原町二条200メートル。

弘文院跡
中京区千本通三条東北付近。和気氏子弟の大学寮生の寄宿寮。延暦年間(782-806)和気広世が父清麻呂の遺志を継ぎ創建。大学寮は官吏養成機関で二条城の西南隅付近にあり、学生は13~16歳。和気氏の没落で衰退し10世紀に廃絶。

閑院址
ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた150メートル四方の地域をいい、平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所である。はじめ、藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。また、高倉天皇の時代(1161~1181)以降9代90余年の間、里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用されていたが、正元元年(1259)5月火災で焼失した。

冷泉院跡
弘仁年間(810-24)嵯峨天皇の後院(譲位後の御所)として造営された離宮。平安時代の堀川流域には高陽院・二条院・堀川院など王公貴族の邸宅があり冷泉院もその一つ。院内は善美をつくし皇居とされたが、4たびの火災、再建をくり返したすえ、1055年(天喜3)とりこわされた。二条城北側に駒札、石碑。市バス堀川丸太町200メートル。

吉村寅太郎寓居跡
幕末の勤王志士吉村寅太郎が文久3年(1863)に仮ずまいをしていた場所。このあたりは、高瀬川の舟運によってにぎわい、幕末の志士たちの絶好のかくれ家となったところで、付近に武市瑞山、佐久間象山、桂小五郎などの寓居跡があり、池田屋もほど近い。

六波羅探題府跡
鴨川の東、現松原通から五条・七条におよぶ東山区の一帯に、鎌倉幕府が設けた出先機関。1221年(承久3)北条時房・泰時が承久の乱後に始める。かつての平氏六波羅第跡にあたりこの名がある。1333年(元弘3)鎌倉幕府の滅亡で幕。六波羅蜜寺内に石碑。市バス五条坂300メートル。

池田屋跡
1864年(元治1)6月、池田屋騒動のあったところ。在洛の長州・土州など諸藩の討幕派が謀議中に新撰組に急襲され乱闘の結果、討幕派7人、新撰組3人が死ぬ。この事件が討幕機運を高めた。寺田屋とともに維新の史跡。当地には、新撰組をテーマにした居酒屋がある。お店の前には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。

教諭所(宣教館)跡
幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、天保4年許可開校したが、数年後衰退、中絶した。天保8年(1837)の飢饉に救済活動に従事した心学講社の援助を得て、翌9年7月東洞院三条下ル住心院地内に新築、開講された。教諭所は、授業のほかに飢民救済などの社会事業に積極的に参加したとされている。元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで焼失し翌年再建されたが維新後、下京四番組中の小学校となり、教諭所は消滅した。

美術館・博物館

京都府京都文化博物館
京都の歴史と文化をわかりやすく紹介する総合的な文化施設。様々な特別展も年間を通じて開催しています。また、館内には江戸時代末期の京の町家の表構えを復元した「ろうじ店舗」があり、食事やショッピングができます。赤れんが造りの別館は、旧日本銀行京都支店の建物で明治を代表する近代建築として重要文化財に指定されています。

いけばな資料館
六角堂頂法寺の境内に建つ池坊ビルの3階。歴代華道家元の花伝書、秘伝書など古文献や、花器、屏風、軸物などを収蔵。いけばなに関する歴史的資料を中心に,所在地発掘の際の出土資料,頂法寺の什物なども展示。

京都絞り工芸館
二条城近くに位置する絞り染め専門の美術館。京都の絞り染めの洗練された技術、美しさは洋装、額、屏風等の美術工芸品としても評価が高く、それらの大作を特別に公開。人気の絞りスカーフ染めは全国で唯一、絹の布を絞り、染めまで体験できる。英語での対応も可能。

北座ぎをん思いで博物館
常設展は四条河原の賑わいの現代までを展示する。特別展は歌舞伎や舞妓、祇園にまつわる展示を期間限定で行なっている。「北座書店」では京の本をたくさん揃えています。

ブリキのおもちゃと人形博物館
昭和を中心に、懐かしいブリキ玩具・セルロイド人形など、当館所蔵の1万5,000点以上から約3,000点を常設展示。月1割ほど入れ替えています。鉄腕アトム・鉄人28号・ペコちゃんなどの企業キャラクターのコーナーもあります。特に、ブリキの国産車300台や、ウルトラ怪獣300体は必見です!また、特別展も同時開催しております。展示だけでなく、販売・貸出・玩具探し・貸し展示スペース・人形供養・寄贈受付なども行っています。

何必館・京都現代美術館
京都八坂神社にほど近い、祇園・四条通北側に、昭和56年(1981)に開館した。人間は、学問でも芸術でも定説にしばられ、自由を失ってしまう。定説を「何ぞ、必ずしも」と疑う自由の精神を持ち続けたいという願いから、「何必館」と名づけられた。館内は静かな緊張感の漂う観賞空間に、優れた美術品が持つ本当の美しさを最大限引き出せるように展示、ライティングにも工夫を凝らしている。何必館の柱である村上華岳、山口薫、北大路魯山人を中心に、近・現代の絵画、工芸、写真を収蔵、展示。常設は、地階の北大路魯山人作品室。また、5階には、自然光が差し込む「光庭」がある。年数回、特別企画展も開催される。

金比羅絵馬館
安井金比羅宮が日本独特の絵馬保存のため開設した。江戸後期から昭和の絵馬約600点を展観。現代の文化人、芸能人らが奉納した絵馬もある。日本独特の絵馬の保存と信仰絵画としての絵馬の再発見にあたる。

京都市学校歴史博物館
京都市の学校に遺された歴史資料、学校に寄贈された美術工芸品を展示し、京都の教育の伝統・学校の運営と創設に力を注いだ町衆の情熱を発信する、日本唯一の「学校歴史博物館」です。

頼山陽書斎山紫水明處
明治維新の原動力となった「日本外史」の著者として知られる頼山陽が文政11年(1828)、自宅の水西荘の庭に建てた草堂風の離れ。小さな床の間のついた四畳半の座敷と二畳の書斎、約一畳の水屋と板の間、そして廊下で構成されている。京都市の中央にあって、前に鴨川が流れ、大文字山、比叡山、東山三十六峰を借景としている。

源氏物語の館
日本が世界に誇る文化遺産の「源氏物語絵巻」を京友禅にて忠実復元。展示/京友禅国宝源氏物語絵巻、京友禅国宝源氏物語屏風、源氏物語五十四帖和歌集。体験/本手描京友禅体験コーナー。ご希望の方は前日までにご予約ください。ご自身で手描京友禅の作品を制作して頂きます。

島津製作所 創業記念資料館
創業者・島津源蔵の住居兼店舗として利用した明治期の建物を、資料館として保存している。理化学器械や標本・マネキン、X線装置をはじめとする医療用機器、産業機器など、これまで島津が手がけた様々な製品を展示。建物はかつて産業施設が次々と設立された高瀬川一の舟入付近に位置しており、近代化の歴史など、新たな京都の一面も紹介している。科学の不思議を実際に体験できる実験コーナーも人気。小学生以下の子どもには、記念品付きのワークシートも行っている。

西陣織あさぎ美術館
日本が世界に誇る伝統産業であります西陣織の素晴らしさ、美しさを発信すべく西陣織に特化した美術館です。西陣織を帯という形に捉われず、屏風や額装といった形でご覧いただけます。日本画に題材をとったものばかりではなく印象派の作品なども西陣織で表現しております。絢爛豪華な西陣織の世界がお愉しみいただけます。

鈴木一染織コレクション
本物の裂の魅力や楽しさを知ることができる鈴木一の染織コレクションルーム。四季に分けて展示している。先ず、本物を見る事が肝心であり、その裂を見分ける目を養うお手伝いをするためのコレクションルーム。

漢検 漢字博物館・図書館
「漢検 漢字博物館・図書館」は、漢字を見るだけでなく、触れる・学ぶ・楽しむ展示を通して、いくつもの驚きや発見を生み出す日本初・漢字の体験型ミュージアムです。

大丸ミュージアム
買い物ついでに高質で新鮮な展覧会が気軽に楽しめるミュージアム。

キンシ正宗 堀野記念館
江戸時代の酒蔵を公開しています。酒造りの道具や関連資料も展示しています。なお、主屋(旧堀野家本宅)・天明蔵・文庫蔵が国の登録有形文化財です。

町家手拭ギャラリー
創業400年を超える綿布商の老舗「永楽屋細辻伊兵衛商店」の2階にある、町家手拭の文化を伝えるギャラリー。明治から昭和初期にかけて作られた町家手拭を復刻した時のヒントとなった貴重なコレクションを展示している。

祇園祭ぎゃらりぃ
日本の三大祭の一つ「祇園祭」について学べる展示コーナー。原寸大の鉾が設置されており、普段は見られない鉾建ての伝統技法を、間近で見学することができる。また、山鉾のミニチュアや、祇園祭の見どころを上映する屏風型の大型モニターも。アクセス抜群の場所にあり、カフェも併設されているので、街歩きの休憩にも最適。ギャラリー・ショップでは京都に関する書籍や雑貨が購入できる。

井伊美術館
甲冑・刀剣史学研究家である井伊達夫館長が調査のため研究寄託を受けた歴史的遺品などを所蔵者の理解を得て一般に展覧する、我国でも唯一といってよい甲冑研究考証の美術館です。資料における歴史や由緒の係わりを尊重し、その考証に力を注いでいます。

半兵衛麸 お辨當箱博物館
元禄2年(江戸時代)創業の半兵衛麸2階にて、江戸時代のお辨當(弁当)箱を多数展示しています。お花見、川遊びなど季節に合わせた蒔絵、将棋盤の形のお弁当箱など職人や先人の技や遊び心が伺えます。鑑賞後は、1階店内にてお庭を見ながらごゆっくりとお過ごしくださいませ。

京都生活工藝館・無名舎
京呉服の問屋街「室町」の一画六角町にあり、建物は白生地問屋を商った京商家の典型ともいうべき表屋造り。店舗、住居、土蔵とそれらを結ぶ2つの庭と、通り庭から成っている。数々の生活工芸品(江戸時代の小袖等)を見ることで、江戸から明治・大正・昭和にかけての京商人の生活文化を偲ぶことができる。

京都国際マンガミュージアム
京都市と京都精華大学の共同事業で、マンガの収集・保管・展示およびマンガ文化に関する調査研究を行う博物館的機能と図書館的機能を併せ持つ新しい文化施設。マンガ資料は、明治の雑誌や戦後の貸本などの貴重な歴史資料や現在の人気作品、海外作品など約30万点。その内5万冊のマンガ本は館内のどこでも自由に読むことができる。建物は、元龍池小学校の昭和4年建造等の校舎を活用し、当時の佇まいを残している。

京都祇園らんぷ美術館
八坂神社の南隣にあり、明治時代に人々の暮らしを照らし続けた日本製、外国製の石油ランプ約800点が展示されている。美術品として非常に価値のあるランプから、当時の日本の風俗が良く分かるランプまで、幅広く展示されている。石油ランプだけを数多く展示した美術館としては世界的にも珍しく、学習教材としても、役立っている。

遠藤剛熈美術館
京都の現存作家遠藤剛熈の作品-油彩画、水彩画、デッサン-約2000点を収蔵、展示。初期から新作まで、遠藤芸術の全貌を鑑賞できる。ギリシアの神殿をモデルにした鉄筋コンクリート3階建て。館内はコンクリート打ち放しの壁面と、正面玄関や階段の手摺等々、随所に楢木のデコラティブなデザインが施された内装で独特の空間を創り出している。

大西清右衛門美術館
京都・三条釜座にて約400年にわたり、茶の湯釜の伝統と技を守り続ける千家十職の釜師・大西家に伝わる茶の湯釜と茶道具類を公開。展覧会の会期中には茶会や講演会、親子で参加の「観賞会」、茶の湯釜の名品を手にふれながら楽しむことのできる鑑賞会などのイベントを開催。

行事・祭典

かぼちゃ供養
四ツ頭茶会
京の夏まつり・友禅流しファンタジー
誓文払
陶器まつり
かくれ念仏
祇園放生会
空也踊躍念仏
中堂寺六斎念仏<壬生寺>
万灯会
市民大茶会(秋)
二十日ゑびす大祭
十日ゑびす 大祭
氏神祭
春季金比羅大祭
壬生狂言
世継地蔵尊功徳日大祭
送り鐘
京都五花街合同公演 「都の賑い」
空也堂開山忌
神輿洗式
市民煎茶の会(春)
弁財天特別祈願会
お火焚祭
高瀬川舟まつり
鴨川をどり
吉例顔見世興行
祇園をどり
初金比羅
皇服茶
神泉苑大念仏狂言
櫛祭
六道まいり
京おどり
和泉式部忌
二条城観桜茶会
鴨川納涼床
般若心経法供養会
かにかくに祭
鴨川納涼
壬生六斎念仏
策伝忌
例祭<菅大臣神社>
名刺感謝祭
晨朝法要<佛光寺>